.南九州の武将
九州は、筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・薩摩・大隈の九つの国から成ることで、
そのように呼ばれた。
源平合戦ののち、平家の没官領を与えられた関東御家人の一族が所領経営に入部、さらに
蒙古襲来に際して多くの関東武士が九州に下向、そのまま土着するものも多かった。
九州の中世勢力としては、北部に少弐氏、中部に大友氏、そして南部に島津氏が
鼎立するかたちで戦国末期まで続いたことだ。
南九州では島津氏を最大勢力として、薩摩に島津一族・渋谷一族、大隈に肝付・禰寝氏、
日向に伊東氏・土持氏、肥後の南部には相良ら氏が割拠して互いに覇を競った。戦国末期、
島津氏は九州統一を目前にして、豊臣秀吉の九州入りに敗れ去った。島津氏、相良氏、伊東氏らは
近世大名として生き残り、「十字」「庵に木瓜」「長剣梅鉢」の紋は現代へと伝えられた。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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