後北条氏の家臣団
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「関八州の大守」といわれた後北条氏の場合、支配領域が広大なことと、初代早雲が伊豆に攻め入った延徳三年(1491)から五代氏直が秀吉に攻められた天正十八年(1590)まで、ちょうど百年間にわたって戦国大名として君臨していたこともあり、家臣の数は膨大である。
後北条氏が作成した『小田原衆所領役帳』は『小田原分限帳』(以下『役帳』と略す)の異名もあって、家臣団名簿として、後北条氏の家臣団構成を見ていく上で、必須の史料である。『役帳』は、たとえば「玉縄衆」の記載の末尾に、奉行として太田豊後守・関兵部丞・松田筑前守の三人、筆者として安藤豊前守の名がみえ、作成されたのは永禄二年(1559)であることが判明している。
ところで、これまでは『役帳』にみえる「小田原衆」「松山衆」「伊豆衆」「玉縄衆」などの他にも氏照の「滝山衆」、氏邦の「鉢形衆」なども作成されたはずであろうと考えられてきたが、最近『役帳』の示す状況は永禄二年の時点で停止しており、それ以後の状況は繁栄されていない。つまり、永禄二年に作成された『役帳』は、それまでの時点で後北条氏領に組み込まれた領国に対し検地などによって確定された知行高と所在地を各給人ごとに記録したものであるという見解が出ている。
つまり、『役帳』には後北条氏の全家臣が網羅的には記載されていないということである。
■衆別役高集計表
順位 | 衆 | 人数 | 役高(貫.文) |
1 | 江戸衆 | 103 | 16780.528 |
2 | 小田原衆 | 34 | 9287.979 |
3 | 御馬廻衆 | 94 | 8426.524 |
4 | 御家門方 | 17 | 7760.428 |
5 | 玉縄衆 | 18 | 4257.243 |
6 | 他国衆 | 28 | 3617.737 |
7 | 小机衆 | 29 | 3438.192 |
8 | 伊豆衆 | 29 | 3392.864 |
9 | 松山衆 | 15 | 3390.427 |
10 | 三浦衆 | 32 | 3344.188 |
11 | 諸足軽衆 | 20 | 2260.780 |
12 | 津久井衆 | 57 | 1697.293 |
13 | 寺 領 | 28 | 1289.266 |
14 | 御家中役之衆 | 17 | 1213.799 |
15 | 社 領 | 13 | 1113.232 |
16 | 職人衆 | 26 | 897.959 |
- | 計 | 560 | 72168.259
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ふつう支城主クラスの家臣を重臣とよんでいる。もっとも、重臣とは何貫文以上の所領高であるとかいった規定があるわけではなく、ただ漠然と呼び習わされているだけである。家老とか、老臣とか呼ばれるものはもちろん重臣の名に値するが、後北条氏の場合、領国規模も大きかったこともあって、重臣の数も多かった。一例として、天正十三年(1585)十月の『家忠日記』の記事に、相模から家老衆二十人の起請文が浜松の徳川家康のもとに届けられたというのがある。
後北条氏の支城配置で特筆されることは、領国内の支城に一族の部将をきわめて有効に配していることである。すなわち、滝山城さらに八王子城に移った北条氏照をはいめ、鉢形城の北条氏邦、韮山城の北条氏規、小机城の北条氏堯、岩付城の太田氏房、佐野城の佐野氏忠などである。
太田氏房は、氏政の子で氏直の弟であり、太田氏の名跡を継がせたものである。その意味では、北条氏照は大石氏、北条氏邦は藤田氏といった旧上杉氏の被官であった関東の有力武士の養子という形で、巧みに勢力の浸透をはかったものである。
その他一族ではないが、江戸城主遠山直景、下田城主清水康英、山中城主松田康長らの名前がよく知られている。
重臣としては、必ずしも一城を預けられるほどでなくとも、後北条氏の領国支配の実際上の任務を担った者もいる。ことに直属家臣団としての小田原衆および馬廻衆で、そのなかから普請奉行・検地奉行・蔵奉行・武者奉行といった奉行人が多数出ていることは重視されるところであろう。さらに、こうした奉行のなかから「評定衆」というものも構成されていたのである。
小田原城中において、月二回、訴訟の裁決、領国支配の政策議論といった内容の評定会議がもたれ、その評定衆メンバーは後北条氏の重臣であり、同時に後北条氏の官僚機構をなしていたのである。時代、諸書によって相違はみられるが、「評定衆誰々」といった形で裁許印判状に署名をしているものは、狩野光泰・石巻康保・山角康定・垪和康忠等々の面々であった。
なお、ここに見える康保・康定・康忠といった名乗りに共通している"康"の字は、後北条氏三代氏康の"康"の字を与えられたものである。氏康の偏諱を受けているということは、やはりそれなりに重臣としての格を示しており、大名にとってみれば、知行の宛行などと同じように偏諱を与えるということが大きな意味を持っていたことのあらわれとみてよいであろう。逆な言い方をすれば、名乗り、ずなわち実名をみることで、戦国大名と家臣の関係がある程度明らかにされるということである。
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