ヘッダイメージ



由良氏
●丸に二つ引両/桐/輪違い?
●清和源氏新田氏流  
『関東幕注文』には、横瀬氏の紋は「五のかゝりの丸之内の十方」と記されている。十方とは『日本紋章学』によれば「七宝紋」の別称であると記され、「輪違い紋」とも称される。横瀬氏は輪違い紋を用いていたのであろうか。  


 由良氏の場合、由良・横瀬・岩松の三家の関係が重要である。つまり、由良氏は岩松氏の家老であった横瀬氏が下剋上によって岩松氏から実権を奪い、横瀬を改めて由良を称するようになったのである。
 横瀬氏は武蔵七党のひとつ小野姓横山・猪股党の一族で、猪股党の甘糟光忠の子惟忠が横瀬を号したことに始まる。惟忠は新田庄横瀬郷を本領とし、足利氏の被官として鎌倉時代後期の足利氏所領奉行人注文にも見える。新田庄横瀬郷は上野国内にありながら、同庄高島郷とともに利根川を隔てて武蔵国側にあった。その横瀬氏の時清の婿として入ったのが、新田義貞の子(義宗の子とも)貞氏であった。
 しかし、新田貞氏が養子に入ったとする伝承は、後年、岩松氏に代わって新田荘の支配者となった横瀬氏がその支配権の正統性を示すために創作したものであろう。享徳三年(1455)の「享徳の乱」で活躍した横瀬国繁は小野国繁を名乗り、連歌集の作者として「当家代々小野篁十有九代の後胤、横瀬信濃守国繁」とみえている。このことからも、室町期までの横瀬氏は小野姓を称し、源姓新田氏を称するようになったのは戦国時代以後のことであった。ちなみに貞氏以降の横瀬氏の系譜は、貞治−貞国−国繁と継承されたとするのが定説である。
 ところで、「猪俣党系図」の一本には、猪股時範の子男衾野五郎の孫重政が横瀬野八を称した。重政のあと連綿して経氏に至り、経氏の養子として新田氏から貞氏が入ったとするものもある。
 甘糟氏から出た横瀬氏と男衾氏から出た横瀬氏と二つの横瀬氏があり、いずれもが新田氏から養子を迎えたとする。いずれが正しいのか、今となっては詳らかにすることは難しいが、横瀬氏は武蔵七党小野姓横山・猪俣党の後裔であることは間違いないようだ。

●二系横瀬氏の略系図



横瀬氏の登場

 さて、横瀬氏を継承した貞氏は、応永二十三年(1416)の「上杉禅秀の乱」で鎌倉公方足利持氏に従って活躍、その功によって新田庄内の地を与えられたという。その頃、鎌倉府の使節を務めたものに横瀬美作守がいるが、貞氏との関係は明らかではない。この貞氏の子貞治が岩松家純に属したのが、岩松氏と横瀬氏が関係をもった始めである。
 岩松氏は足利義康の嫡孫義純に始まり、義康の兄新田義重から愛された義純は、孫娘の女婿に迎えられ、上野国新田郡岩松郷に居住したことから岩松を名乗るようになったのだという。南北朝時代、岩松氏は新田氏、ついで足利氏に属して活躍した。やがて鎌倉公方足利基氏に仕えた岩松直国は、戦功によって新田義貞以下新田方の没官領を合わせて領有し、新田氏の惣領家とみなされるに至ったのである。
 十五世紀、岩松氏は持国と家純の二家に分裂し、同族相争った。家純の父満純は「上杉禅秀の乱」で禅秀方に与して討死したため、岩松家督は満純の父にあたる満国の外孫持国が継いだ。幼少であった家純は出家したのち、美濃守護土岐持益のもとに隠れ、永享十年(1438)に起こった「永享の乱」をきかっけに将軍足利義教に召されて上洛し長純と名乗った。その後、「結城合戦」が起こると幕府軍の一将として関東へ下向した。横瀬貞治が岩松家純に属したのは、その頃であろうと推察される。
 ところで、一本系図をみると岩松満純と横瀬貞氏はともに新田義宗の子で、二人は兄弟となっている。これが事実とすれば禅秀の乱に兄弟は敵味方に分かれたものの、それぞれ子の代において手を結んだのであろうか。  一連の関東の争乱は幕府軍の勝利に終わり、以後、幕府を後楯とする管領上杉氏が鎌倉府の首班として戦後処理を行い、必然的に上杉氏の勢力が拡大、これを快しとしない関東の諸将は鎌倉公方家の再興を幕府に願った。宝徳元年(1449)、足利持氏の遺子成氏が取り立てられて鎌倉に下向した。
 ところが新鎌倉公方成氏は、親幕派の関東管領上杉憲忠と対立し、享徳三年(1454)憲忠を殺害したことで「享徳の乱」が勃発した。以後、関東は公方方と上杉方に分裂して合戦が繰り広げられた。この乱に、幕府は上杉氏を支援する立場で介入、幕府軍に敗れた成氏は鎌倉を捨てて下総国古河へ逃れ古河公方と呼ばれた。
 この乱において、岩松持国は古河公方足利成氏に属し、家純は上杉氏に属して同族相争った。貞治の子貞国(良順)は、享徳三年の武蔵国須賀合戦に家純の代官として出陣し成氏方と戦って討死した。

岩松氏の統一

 乱は古河公方の優勢に展開したが、やがて戦線は膠着状態となっていった。幕府は上杉氏の要請で、成氏に代わる新しい公方として将軍義政の弟政知を関東に下した。しかし、政知は鎌倉に入ることができず、伊豆の掘越に入って「掘越公方」と称された。その一方で、幕府は古河公方を支える岩松持国に懐柔の手を伸ばした。長禄二年(1458)、古河公方方から幕府方に転じた持国は、翌年の上野佐貫荘羽継原の合戦に家純に従って出陣、掘越公方から功を賞されている。しかし、寛正二年(1461)、持国はふたたび古河公方に通じ、これを察知した家純は持国父子を殺害した。
 ここに至って、岩松氏は家純によって統一がなり、家純は五十余年ぶりに本領の新田庄へ復帰したのであった。岩松家純勝利の立役者となったのは、貞国の子で家純の筆頭家老横瀬国繁であった。新田庄へ入部した家純は、国繁をして同庄内の金山に城を築かせた。
 以後、国繁は岩松家純を支えて関東の戦乱に大活躍を示し、文明四年(1472)には家純の代官として下野国足利庄の鑁阿寺に禁制を掲げている。同八年、山内上杉顕定の執事長尾景信の死去した。顕定の処遇に不満を抱いた景信の子景春は顕定に叛し、古河公方と結んで武蔵国五十子陣を攻撃した。その頃、五十子陣に上杉勢とともに出陣していた岩松家純は、景春の攻撃を受けて金山城へ帰陣した。
 さて、岩松氏中興の人物となった家純は将軍家との密接な関係をもって復活し、持国を倒して岩松氏の家督となった。家純の子の明純は父が東下したとき同行せず、在京のまま幕府政所代の蜷川親当の娘を娶って子の尚純をもうけてた。そのような明純が関東に下向したのは、文明三年(1471)のことで、上杉方の重鎮である越後守護上杉房定の「関東出陣」について家純に「申聞」ことが任務であった。すなわち京都・関東・越後を結ぶパイプ役としての東下であり、東下後の明純は室町将軍の「外様衆」としての政治的立場を明瞭に示していた。とはいえ、明純・尚純父子は関東の情勢に疎かったようだ。
 文明九年、上杉顕定は明純に下野国足利庄・武蔵長井庄などを与えた。この地は家純が領有していたらしく、これを契機に家純は一族被官を集めて神水三ケ条を誓約させ、壁書の執行者として国繁を指名し明純を勘当した。この一件をきっかけとして管領上杉氏との関係を清算した家純は、古河公方成氏の陣に加わった。また、壁書の執行者に指名されたことで、国繁の岩松家執事(代官)としての地位が確立した。以後、国繁は主家岩松氏に代わって国政を左右するようになるのである。
 勘当された明純は「西国行脚」に出ることになったが、その実は山内上杉氏の居城鉢形城に寄寓した。明純が家純に勘当されたのは、山内顕定との私的関係からであり、明純としては顕定を頼るしか道はなかったのである。その後、明純は文明十二、三年頃、幕府の相伴衆に見えている。そして、それまで将軍家奉公衆にまったく見えなかった横瀬氏が長享元年(1487)に至って突如として「奉公衆五番」に見えるが、これは明純に従って上洛した横瀬氏の一族とみられる。

対立勢力を制す

 やがて、明純の子尚純を金山城へ還住させる運動が横瀬国繁・成繁(景繁・業繁)父子によって進められた。これは、岩松家純が老齢でありながら、後継者たる明純は勘当の身であり、横瀬氏は家純の後継として尚純を家督に据えようと考えたのである。
 その後、還住した尚純に対して、家純は古河公方成氏との関係もあって対面を拒否している。しかし、横瀬国繁の奔走で古河公方に対して尚純を家純の名代とすることが受け入れられ、尚純が岩松氏の家督を継承した。そして、古河へ出仕した尚純は、対外的に古河公方足利氏の「御一家」に準ずる社会的地位を獲得したのである。
 文明十四年(1482)、享徳の乱が終結したことで関東には束の間の平和が訪れた。ところが文明十八年、乱で活躍した扇谷上杉氏の執事太田道灌が山内上杉氏の謀略で殺害された。この事件をきっかけとして、長享元年(1487)より両上杉氏の抗争が繰り返されるようになった。この長享の乱に際して山内上杉氏から出陣要請を受けた横瀬国繁は、岩松氏代官として出陣し山内上杉氏に属するようになった。
 家純が明応三年(1494)に死去すると、横瀬父子は明純・尚純父子の和解を実現するため、山内顕定の総社の陣で両者の対面を実現させた。しかし、尚純が岩松家督にあってその代官に横瀬氏が控える体制に、明純が入り込む余地はなかった。すなわち、明純に残された道は隠居するしかなかったのである。それを拒否した明純は、ふたたび顕定のもとに帰っていった。この明純の行動は、尚純─横瀬体制への明らかな挑戦であった。翌年、横瀬成繁が草津へ湯治に出かけた留守を狙って、佐野庄の佐野小太郎が金山城を攻撃した。これをきっかけに「明応の乱(屋裏之錯乱)」が起った。
 この錯乱は、明純・尚純父子を担ぐ一派と、横瀬氏を盟主とする一派との抗争であった。加えて、岩松家臣団の「四天之仁」と呼ばれた金井・沼尻・伊丹・横瀬氏らの対立があり、金井・沼尻・伊丹らは明純・尚純父子を担いで横瀬氏を倒そうとしたのである。事態は古河公方足利政氏によって裁定され、尚純は佐野庄に蟄居し、尚純の子夜叉丸を横瀬父子に預けて名代(家督)とするという条件で解決した。成繁は最大の危機をよく凌いで、岩松氏から実権を奪い事実上の新田荘の支配者に成り上がったのである。
 かくして、横瀬氏は岩松家中における第一人者の地位を確立し、幼い夜叉丸を支えるかたちで新田岩松氏の「家」権力の「代官」となった。その後、六歳になった岩松夜叉丸は金山城に移され、翌年七歳で岩松八幡宮で元服し「新田次郎昌純」と名乗った。この元服式一切は、横瀬成繁が執り行った。

横瀬氏の台頭と下剋上

 永正元年(1504)、かねてから不和の関係にあった古河公方政氏・高基父子が武力衝突にいたった。横瀬景繁(国経)は高基方の関東管領上杉憲房に従って出陣し活躍、その戦功に対して憲房の代官長尾景長から政氏方に属した成田親泰らの旧領を与えられた。しかし、大永三年(1523)十二月、武蔵国埼西郡内の須賀合戦に嫡子泰繁とともに出陣して討死した。泰繁も須賀合戦で負傷したが、景繁のあとを受けて横瀬氏の家督を継いだ。
 やがて、幼かった岩松昌純は成長するにつれ横瀬氏の専横を憤るようになり、横瀬氏を除こうと陰謀を企てた。昌純の企てを察知した泰繁は、享禄三年(1530)金山城の昌純を攻めて自害に追い込んだ。そのとき、和議を図る者があって泰繁は昌純の子氏純と和睦した。その結果、岩松氏の家督は氏純が継いだが、すでに岩松氏は横瀬氏の傀儡に過ぎない存在であった。こうして横瀬氏は明応の乱以来、半世紀をかけて主家岩松氏を下剋上によって有名無実化し、金山城主となりその覇権を確立、戦国大名への大きな一歩を踏み出したのである。
 天文十年(1541)、桐生領広沢郷より新田庄への用水権の相論から、那波宗俊・長野賢忠・桐生助綱・成田親泰らの連合軍に攻撃を受けたが、よく撃退している。そして、天文年中に古河公方足利晴氏から信濃守を与えられ、天文十四年(1545)九月に下野壬生合戦で討死した。小田原を拠点に勢力を拡大しつつある後北条氏と、両上杉氏・古河公方連合軍とが戦った「河越合戦」の前年のことであった。
 泰繁のあとは嫡子の成繁が継承した。成繁は父泰繁の在世中から家政にあたっており、天文五年(1536)に御家中と百姓仕置の法度を定めている。定められた法度の施行を奉行したのは林弾正忠・同伊賀守、大沢豊前守、矢内修理亮らで、横瀬氏が奉行制度を組織していたことが知られる。
 ところで、「河越合戦」とは武蔵河越を舞台に、新興の小田原北条氏と伝統勢力である両上杉氏と古河公方の連合軍とが一大決戦を演じた戦いである。結果は、後北条方の河越城を包囲・攻撃する連合軍八万騎を北条氏康が八千騎を率いて撃ち破り、扇谷上杉朝定は戦死、山内上杉憲政と古河公方晴氏はそれぞれの城に逃げ帰るという、後北条方の大勝利に終わった。この合戦は上杉氏ら目上のものが目下の後北条氏に対して一方的に戦いを仕掛け敗れ去ったもので、文字通り、関東の政治地図を塗り替える戦いとなった。
 河越合戦に敗れた上杉憲政は平井城に拠って後北条氏に抵抗を続けたが、次第に追い詰められ、天文二十一年(1552)正月、ついに越後の長尾景虎を頼って関東から落去した。その後も成繁は山内上杉方として行動、上野国衆が次々と後北条方へ従属する中でも、北条氏へ抵抗を続けた。 また、天文十七年(1548)、横瀬氏の傀儡と化していた氏純が自殺したことで岩松氏は没落、成繁は憚ることなく新田庄の支配者となった。

上杉謙信の登場

 岩松氏を圧倒した横瀬氏は、すでに泰繁のころから幕府と関係をもち、成繁も将軍足利義輝と交渉をもっていた。横瀬氏は実力はともかくとしても、岩松氏一門や傍輩に対する支配・統制を強化して戦国大名に飛躍するには、横瀬氏の政治的地位を高める必要があった。京の将軍との関係強化は、横瀬氏の家格高めることにつながっていた。
 天文二十二年(1553)、足利義輝より御内書と鉄砲が贈られ、成繁はその返礼として馬を贈っている。鉄砲は伝来したばかりのまだまだ珍しいもので、義輝が成繁に篤い信頼を寄せていたことがうかがわれよう。さらに、永禄二年(1559)には関東に下向した関白近衛前嗣を接待し、義輝から賞詞を賜っている。このようにして、成繁は岩松氏の執権という立場から、自立した戦国大名への道を着々と歩んだのである。
 永禄三年(1560)の秋、かねてより庇護していた上杉憲政を奉じた景虎が、三国峠を越えて関東に兵を進めた。景虎は明間城・岩下城を帰服させ、沼田城の北条孫次郎・真田薩摩守らを討ち、那波城(今村城)・堀口城を攻略し厩橋城を奪回した。その間、わずか一ヶ月足らずのことで、景虎は厩橋城を関東攻略の前線基地とし、従兄弟の蔵王堂城主長尾景連を城代と定めた。
 横瀬成繁は長尾・赤堀氏らとともに景虎の軍陣に加わったが、那波氏、赤井氏らは古河公方足利義氏・北条氏康らの勢力を背景として景虎に対抗した。十二月、景虎軍は那波氏の拠る堀口城を攻撃、降参した讃岐守宗俊は嫡男の次郎を人質として差し出した。攻略された那波氏領は、景虎の陣に加わって活躍した由良成繁に与えられ、那波氏領を手中にした由良氏は佐位郡赤石郷への進出を果たしたのである。
 翌永禄四年の春、景虎は関東諸将を率いて長駆小田原城を包囲、攻撃した。後北条氏の固守に長陣を嫌った景虎は包囲を解いて鎌倉に入り、鶴岡八幡宮において関東管領職拝賀と上杉姓の襲名を披露した。ここに長尾景虎は上杉政虎と改め(さらに輝虎、謙信と名乗りを改めている)、新関東管領となった政虎(以下、謙信と表記)のもとには関東諸将が馳せ参じた。
 永禄三年の越山のとき上杉謙信が諸将の幕紋を書き記させた『関東幕注文』に、横瀬雅楽助成繁は「新田衆」として把握されている。新田衆は横瀬一族をはじめ、新田氏一族、同心衆、家風(家臣)ら三十名を数え、上野では最大の衆であり、当時における横瀬氏の勢力のほどをうかがわせている。また、成繁が名字を横瀬から由良に改めたのは、この頃のことであったと考えられている。

戦国大名に躍り出る

 永禄五年十月、成繁は上杉謙信を頼って京都から関東に下向していた近衛前嗣を懇切にもてなしたということで、受領に推挙する旨の書状を得て、翌年七月、宣旨によって信濃守に任ぜられた。また家伝文書によれば、将軍義輝は成繁を刑部大輔に任じ、御供衆に加えるとともに毛氈の鞍覆と白傘袋を免許されたと伝えている。ここに成繁は室町将軍から大名として認められ、下剋上で主家岩松氏を倒した横瀬改め由良氏は戦国大名に駆け上ったのである。
 永禄七年、後北条氏と反後北条氏連合軍との間で国府台合戦が行われた。敗れた武蔵国岩槻城主の太田資正は、後北条氏のために城を追われ成繁を頼ってきた。成繁は資正を牢人分として召し抱え千貫を与えたという。また、下野国足利城主の長尾景長に男子がないことから、次男顕長を婿として長尾氏に入れた。さらに、成繁は「家中法度」「百姓仕置法度」を制定し、戦国大名由良氏の地盤を固めるとともに勢力の拡大に務めた。かくして、由良氏は成繁の代いおいて全盛期を現出したのであった
 一方、関東の争乱は謙信が越山して関東に在陣すると上杉氏の勢力が強くなり、謙信が帰国すると後北条氏の勢力が強まるという、いわばシーソーゲームのような状態が続いた。しかし、次第に後北条氏の勢力が伸長し由良氏への働きかけも強さを増した。さらに西上野方面では甲斐の武田信玄が侵攻を繰り返し、松井田・倉賀野城が攻略され、上杉方を取り巻く情勢は次第に苦しいものになっていた。
 永禄八年二月、由良成繁・国繁父子は武田氏の進出に備えて堀口に出陣、武田軍が惣社方面に移動したという情報を得たが、三月の初め金山城に帰陣している。ついで、七月にも那波に出陣したが、病のため目立った活動もしないまま金山城に帰っている。翌月には、後北条氏が伊勢崎方面に進出するとの巷説があって、成繁は三たび那波に出陣した。
 この年の五月、京都では将軍足利義輝が松永秀久を中心とする三好衆に殺害され、中央政局は大きく動いた。関東では群雄が割拠して互いに争う時代から、上杉・後北条・武田氏らの大勢力が三つ巴の覇権争いを展開するようになった。成繁は上杉謙信に属して、上野国へ侵攻しようとする北条氏康や武田信玄の軍勢と各地で戦った。

後北条氏麾下に属す

 成繁は関東の戦況を越後の謙信に知らせたが、由良氏を取り巻く状況は予断を許さなくなってきた。永禄九年(1566)箕輪城が落城すると、ついに成繁・国繁父子は謙信に叛して後北条方へ転じたのである。 このとき、謙信の股肱の臣で厩橋城を守る北条高広も由良氏に同調した。由良氏の後北条氏への寝返りは、謙信にとって関東計略に決定的な破綻をもたらすものであった。この由良氏の背反に対して謙信と結ぶ常陸の佐竹義重が金山城を攻めると、北条氏康は八王子城主北条氏照を差し向け由良氏を救援している。以後、由良氏は一定の自立性を保ちながら後北条方として行動した。
 永禄十一年(1568)、武田信玄の駿河国侵攻を契機に甲駿相同盟が崩壊し、北条氏康は上杉謙信との同盟を望むようになった。成繁は後北条方からの和睦の使者としてしばしば上杉方を訪れ、翌十二年の越相同盟の成立に尽力した。
 元亀三年(1572)成繁は桐生城を攻撃、桐生親綱を追放すると弟長繁を城代とし桐生に進駐させた。ついで膳城、伊勢崎城などを降し、新田領内の一円支配を拡大していった。やがて、成繁は桐生城を隠居城とさだめ、金山城を国繁に預けると、みずからは生城に移り住んだ。そして、鳳仙寺を建立し、また町屋を城下町として整備するなど民政に意を用いた。
 その後、後北条氏と武田氏の和約がなったことで越相同盟は破れ、ふたたび後北条氏と上杉謙信は対立関係となった。天正二年(1574)、謙信は金山城を攻撃したが、攻め落とすまでには至らず越後に兵を引き揚げた。この天正二年の越山を最後に謙信の関東出兵は止み、謙信は越中・能登方面の制圧に力を尽した。そして、北陸方面が一段落した天正六年三月、満を持して関東への陣触れを発した直後に急病となり帰らぬ人となった。その年の六月、成繁も桐生城において死去した。
 上杉謙信・武田信玄・北条氏康という名将にはさまれながら、よく領土の保持・拡大につとめた成繁も名将と呼ばれるにふさわしい人物であった。さらに、内政にも意を用い、成繁の善政ぶりは桐生城を落したのちの戦後処理からもうかがわれる。成繁が死去すると佐野にいた桐生親綱は桐生に潜入して旧臣らを語らって桐生城奪還を図ったが、この企てに応ずる者はなかった。これは、成繁の善政に桐生領民が満足していたことを証明するものといえよう。そして、死に臨んだ成繁の遺言は「兄弟仲良く、神仏を敬い、領民をいたわれ」というもので、あった。

戦国時代の終焉

 謙信死後の越後では、家督相続をめぐって謙信の甥景勝と後北条氏から養子に入った景虎が家督争いを演じた。「御館の乱」と呼ばれる内乱で、後北条氏は景虎を支援して内紛に介入した。一年に及ぶ抗争の結果、景勝派が勝利し景虎派を支持した上野の諸将の多くが後北条氏に通じっため、後北条氏の勢力は上野・下野方面にいちじるしく浸透した。
 天正十年(1582)、織田信長は甲斐に侵攻、敗れた武田勝頼は天目山で自害し、戦国大名武田氏は滅亡した。信長は部将滝川一益に上野国と信濃国佐久・小県両郡を与え、信長麾下の関東管領職に任じた。滝川一益が上野厩橋城に入ると、内藤・小幡・和田・成田・真田、そして由良国繁・長尾顕長兄弟らが厩橋に出仕した。のちには、小田原の北条氏も一益によしみを通じている。
 かくして関東の政治情勢も一応の安泰をみせるかと思われたが、同年六月二日、信長が京都本能寺で明智光秀のために殺害されると情勢は急転した。信長死去の悲報に接した滝川一益は、神流川で後北条氏と戦って敗れ関東から落去した。ここに至って、後北条氏が関東随一の大勢力となり、いままで独立性を保ってきた由良国繁・長尾顕長兄弟にも後北条氏の圧力が強まってきた。
 天正十二年(1584)正月、北条氏政は金山と足利に使者を送り、年賀をかねて軍法のことにつき相談したいから小田原へ来るようにと申し入れた。由良国繁と長尾顕長の兄弟はこれを受諾して、何の疑いも抱かず小田原に赴いた。ところが、氏政・氏直父子は国繁・顕長兄弟を抑留すると、佐竹氏攻撃のため金山・館林両城の明け渡しを命じたのである。しかし、兄弟はこれに応じなかったため、二月、三千五百の後北条勢が出撃し、厩橋などの地侍衆を加えて金山城に迫った。この事態に金山城では、国繁・顕長兄弟の母妙印尼が孫の貞繁を大将に据え、将士を励まし城の諸所を固めて後北条軍を待ち構えた。
 後北条勢は利根川を押し渡ると金山城に押し寄せた。戦いは城の西北の長手口、東南の熊野口などで一斉に火蓋がきられた。寄手は遮二無二に攻めかけたが、城兵の反撃によって五百余人の討死を出して退却した。金山城の奮戦に手を焼いた氏政は一時兵を撤収して、国繁・顕長兄弟を帰した。しかし、国繁は小田原からの圧力に屈して城を明け渡し桐生に退去、長尾顕定も館林を引き払って足利に退いた。そうして、金山城へは北条氏邦の率いる在番衆が入り、館林城には北条氏規が城主となって入った。

由良氏の没落とその後

 天正十八年(1590)秀吉の小田原征伐の時、兄弟ともに小田原城に籠った。しかし、妙印尼は孫の貞繁を大将として二百の兵を集め、上野の松井田城を攻撃中の前田利家のところへ参陣、従軍した。小田原で秀吉に謁した妙印尼は秀吉から上総国牛久五千石の所領を与えられ、由良氏は滅亡をまぬがれた。
 小田原落城後、国繁は豊臣秀吉に属し、秀吉没後は徳川家に転じた。関ヶ原の合戦に際しては、家康の麾下に参じて江戸留守居の任にあたった。戦後、新恩として千六百石を賜り旧知と併せて七千石を知行する大身となった。嫡子の貞繁は永井直勝に属して関ヶ原の合戦に出陣、大坂の陣には土井利勝に従って出陣、夏の陣では鴫野口の戦いで負傷したという。子孫は幕府高家に列し、曲折はあったもののよく家名を保って明治維新に至った。・2006年09月12日

参考資料:太田市史/桐生市史/伊勢崎市史/群馬県史 ほか】

●由良氏の家紋─考察



■参考略系図
・横瀬国繁以降の由良横瀬氏の世系は、「由良成繁事書案」「松蔭私語」などから、国繁─成繁(業繁)─景繁─泰繁─成繁─国繁の順が正しいようだ。  
 

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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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家紋イメージ

日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。 それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
神紋と社家
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丹波篠山-歴史散歩
篠山探訪
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