太田氏
太田桔梗
(清和源氏頼光流)
・一つ引違い鷹の羽/違い矢 |
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太田氏は清和源氏の末流といわれている。伝によれば、源三位頼政の後裔資国が丹波国太田郷に住し、太田氏を名乗るようになった。資国は同国上杉郷の地頭上杉重房に仕えることになったが、このつながりが関東管領上杉氏と家宰太田氏との結び付きの始まりという。
系図によると太田氏は、資国−資治−資兼−資房−資清と代々相模に住んだというが、その事蹟はよく分からない。一説に、資国の子孫が武蔵太田荘の荘官となって太田を名乗ったともいう。一方、「別本太田系図」には、資国−資治−資兼−資益−資通−資房−資清とあって、他の系図に見えない資益−資通の二代が見える。資益は受領名大和守で元亨のころ(1321〜23)の人物といい、その子資通は、康安元年(1361)関東公方足利基氏から父の遺領である武蔵国子机・稲毛・広沢・岩淵・志村・中野の地を賜り、永和四年(1378)に没したという。
資通の所領は武蔵国の橘樹・豊島・多摩の三郡にまたがり、一般にいわれる相模太田氏とは異なる武蔵太田氏のあったことを伝えている。いずれにせよ太田氏は南北朝以来、とくに道真・道灌父子のころに至って大いに名を顕わした。
太田氏の興隆と道灌
太田氏と関係の深い上杉氏は、関東公方を補佐する関東管領の地位に就き、南北朝時代に山内・犬懸・扇谷・宅間の四家に分かれていた。そのうち、犬懸家は禅秀のとき乱を起こして没落し、代わって山内家が宗家となり力を持った。扇谷家は山内家に協力し活躍を示すが、山内家と比べると低い地位にあった。この扇谷家に太田氏は資房のころから仕えるようになった。
資房の子資清は扇谷持朝に仕え、その執事を務めた。永享の乱後、山内憲実は家督を子の憲忠に譲り、持朝も子の顕房に家督を譲り隠居したため、両家とも当主は若く山内家は長尾景仲、扇谷家は資清が家政を掌った。当時の人々は資清と長尾景仲を並び称して「関東無双の案者」と呼びその英名を慕ったという。また、資清は武将としてはもとより、歌道にも堪能な文武両道の達人であったといい、長尾景仲と協力して古河公方足利成氏に対抗し「享徳の乱」では主家扇谷家のために各地を転戦した。
康正元年(1455)顕房が成氏に敗れて自害したため入道して道真と号し、家督を子の資長(のちの道灌)に譲り隠退した。家督を継いだ資長は二十四歳であった。その翌年、資長は江戸城の築城に着手するとともに、父と協力して岩付・河越両城を築き武威を高めた。
文正元年(1466)、管領山内房顕が没すると、家宰長尾景信と扇谷持朝らは、越後守護上杉房定の子の顕定を迎えて当主とした。その後、景信が死去したが、顕定は嫡子景春をさしおいて景信の弟忠景を家宰とした。当然、景春はこのことに強い不満を抱き、ついに顕定に謀叛を起こした。この反乱の背後には、当時、中小の国人領主層の自立化があった。道灌は景春に味方する豊島氏を石神井城に討ち、各所で景春与党を撃破した。景春は成氏に救援を求めたため、以後、景春=成氏軍と、道真・道灌軍とは武蔵南北地域で合戦を繰り返した。戦況はおおむね道灌方が有利に進めたため、文明十二年(1480)六月、景春は道灌に降参した。
景春の乱鎮定の最大の功績者は太田道灌であった。しかし、戦いの過程で道灌は主君扇谷定正としばしば齟齬をきたすことも少なくなかった。定正は道灌の意見を用いず、かつ道真・道灌父子の功績を正当に評価しないことに道灌は不満を抱いた。さらに、定正は家臣である道灌が優れた統率力と戦略で敵を圧倒し、その功を誇って主君を軽んじる風もみられたため、道灌に反感を持つようになった。結果、文明十八年七月、定正は道灌を相州糟谷の居館に招いて謀殺した。 一説には、道灌によって扇谷家の勢威が高まったため、これに危惧を抱いた山内顕定が定正に道灌の功業を讒言し、道灌殺害を迫ったためともいう。主家のために身命を賭して戦った道灌が主君に殺害されたことは、人々の心を定正から離してしまった。以後、扇谷上杉氏は衰退の道を辿ることになる。
道灌は名将ではあったが、たとえば同時代の北条早雲のように新時代を切り開くタイプの人物ではなかったようだ。戦国大名への道を歩むことなく、主家扇谷上杉氏の家宰という立場から脱けきれなかった。道灌の死はその結果の悲劇ともいえよう。
岩付太田氏
道灌が殺害されると、嫡子資康は扇谷定正を見限り山内上杉顕定に走った。定正は古河公方に近づき、古河公方も敵対していた道灌の死により定正に味方した。ここに、古河公方対両上杉氏の抗争は、山内・扇谷両上杉氏の対立という一族同志の紛争に転じ、太田氏もこの対立に巻き込まれていった。両者の戦いは長享元年(1487)から始まり、翌年には、武蔵菅谷原、同高見原で戦闘が繰り返され定正側が優勢だった。定正は古河公方とともに、伊豆の新興勢力である北条早雲、かつての敵であった長尾景春をも味方にして顕定を孤立させていった。しかし、この間の岩付太田氏の動向は明らかではない。
系図によると、道真・道灌の没後、太田氏は江戸系と岩付系とに分かれた。岩付系は道灌の養子資家の子孫で、江戸系は道灌の実子資康の子孫である。新井白石の『藩翰譜』は岩付系を太田氏の嫡流としている。道灌のあとの岩付城主は資家であった。資家の事蹟は明らかでないが、岩付城に拠って時代によく対応したことは間違いないだろう。
資家の跡を継いだ資頼の代になると、小田原の後北条氏二代氏綱が扇谷氏を援けて関東に進出し、古河公方と姻戚関係を結ぶなどしてその勢力を拡大しつつあった。大永四年(1524)北条氏綱は江戸城を手中に入れ、さらに北進して岩付城に迫った。岩付城では氏綱の攻撃をよく防いだが、資頼の家臣渋江三郎が氏綱に内応したためついに落城、資頼は足立郡石戸の砦に退いた。その後、岩付城は渋江三郎が預けられたが、享禄四年(1531)、体制を立て直した資頼は岩付城を攻撃して渋江三郎を討ちとり、同城を回復した。
天文二年(1533)資頼は家督を嫡子資時に譲った。このころになると、後北条氏の武蔵進出が活発化し、この事態に対応するため太田氏内部では一族間に対立が生じていた。すなわち関東管領上杉氏の重臣として一貫して反後北条氏側の立場を護る父資頼・弟資正と、新興の後北条氏と結んで家の存続を図ろうとする資時との間に生じた対立であった。
後北条氏の勢力拡大
天文六年、北条氏綱は扇谷朝定と戦って大勝し、朝定は河越城を捨てて、上野の山内憲政のもとに逃れた。以後、河越城には北条綱成が城将として入り、岩付太田氏の勢力を脅かす存在となった。翌年、氏綱は小弓御所足利義明を奉じた安房の里見氏と下総国府台で戦い、小弓義明を討ちとり里見氏を安房に敗走させた。この勝利によって、後北条氏は関東制覇の基礎を築くにいたった。天文十年、氏綱が死ぬとその子氏康が事業を継承した。
天文十四年、山内憲政は今川義元に支援を頼み、扇谷朝定とともに六万五千騎の兵を率いて河越城を包囲した。憲政は古河公方足利晴氏にも使者を送り、河越包囲軍に加えた。まさに、後北条氏との決戦を企てたのである。
河越城の城将北条綱成の手勢は三千騎という少なさであったが、よく連合軍の攻撃をしのぎ、合戦は年を越えた。小田原の氏康は河越城救援のため兵八千を率いて出陣した。しかし、敵のあまりの多さに驚いた氏康は、一計を案じ上杉方を油断させ上杉氏の陣に夜襲をかけた。この氏康の率いる決死の後北条軍の攻撃に数を誇った上杉軍はたちまち大混乱に陥り、朝定は戦死して扇谷上杉氏は滅亡、憲政は平井城へ古河公方晴氏は古河へ逃れるという大敗北を喫した。これが、世に名高い「河越の夜戦」で、氏康と後北条氏の名を一挙に高め、関東の中世的秩序を一気に崩壊させることになった。
平井城に逃れた憲政は後北条氏の追撃を受け、厩橋城に奔ったがそこも支えきれず、ついに越後の長尾景虎を頼って関東を逃れた。のちに、関東管領職、上杉の名字などを長尾景虎に譲った。古河公方家も古河を攻略され、晴氏とその子藤氏は相州秦野に幽閉され、両上杉氏と古河公方家は事実上没落した。
河越合戦に際して、岩付城主太田資時は北条氏康に加担したが、弟の資正は連合軍の一部将として出陣し、戦うこと二十四度、後北条氏の猛攻に手勢を失いわずか九騎となって松山城に退却した。この合戦により、太田一族は決定的亀裂を生じ、家臣も資頼・資正派と資時派に分裂した。その後、資時が急死したため、資正が岩付城主となり岩付太田氏の家督を継いだ。
太田資正の登場
岩付城主となった資正は、親後北条派の家臣らを追放して反後北条氏の姿勢を明らかにし、領国の経営に力を尽くした。資正の支配地は、荒川・入間川が貫流する肥沃な穀倉地帯で、そこを基礎として強力な軍事組織を構成していた。また岩付本城と支城を結ぶ伝馬制度の整備、さらに入間川などの堤防工事を行うなど、民生の安定にも勤めている。岩付城の常備戦力は約一千騎といわれ、当時の戦国大名と比較すれば見劣りはするものの、資正はその用兵力と智略、自らの体力、弓矢・太刀の業などで後北条氏と対峙した。
天文末年(1554)以降、資正は上杉謙信の関東経略の有力武将として活躍し、後北条氏との戦いを繰り返した。永禄三〜四年(1560〜61)の謙信の小田原攻めには、二男政景とともに先鋒を務め一時江戸城を手中に収めるなどの働きを示した。資正はまた、謙信からの命を受けて北武蔵の経営にも力を入れ、後北条方の松山城を攻略し、上杉憲政の子憲勝を入れた。しかし、謙信が越後に帰ると後北条氏が勢力を盛り返し、結局、松山城は後北条方の手に帰した。
永禄七年(1564)、資正は一族の太田資康とともに、安房の里見義弘と連合して北条氏康の軍と下総国府台で戦ったが、敗れて苦境に陥った。資正は劣勢回復のために宇都宮へ赴いたが、その留守中の間隙に乗じて氏康は岩付城に兵を入れ乗っ取ってしまった。この氏康の挙は、資正の嫡子氏資と政景の内紛を利用したもので、資政は岩付城から締め出されてしまったのである。
資正は氏資の母とは離別しその後添いに大石氏の娘を娶り、政景と佐竹義重の室となる娘をもうけた。氏資は父資正の気質を受け継いだ武将であったが、吃音であるということで資正は疎外し、二男政景に家督を譲ろうとした。この背景には、後妻大石氏の要求もあったのかも知れない。これを察した氏資は北条氏康と結び、資正の留守を狙って北条氏の兵を岩付城に入れたのであった。これに加えて、岩付太田氏内部には、後北条氏対策をめぐり強硬派の資正・政景らと、柔軟派の氏資らとの間に対立もあった。いずれにしろ資正は岩付城を失い、一方の北条氏康は関東制覇の事業に障害となっていた岩付城を労せずして手中に収めることができた。以後、岩付城は小田原本城防衛の有力支城としての役割を担った。思いもかけず城を失った資正は成田長泰を頼り、娘婿の佐竹義重に迎えられて常陸国新治郡片野城主となった。
永禄七年(1564)の国府台合戦で敗れた里見氏は、体制を立て直して、同十年、上総に進出し後北条氏の拠点三舟山を急襲した。氏康はただちに反撃体制を敷き、小田原に参向中の氏資に三舟山救援を命じた。このとき、氏資は手勢も少なかったため、防備が十分でないと訴えたが、氏康の家臣から嘲笑を受けた。そのため、氏資は少数の手兵をもって三舟山に向かったが、里見氏の攻撃によって討死をしてしまった。氏資のあとは、氏政の二男氏房が氏資の娘の婿に入って太田氏の名跡を継ぎ、岩付城主として後北条氏の有力な藩塀となった。
太田資正父子の活躍
岩付城を失い佐竹義重に向かえられて片野城主となったものの、資正の落胆は大きく、自らの隠退と政景の引き立てを謙信に依頼し、家督は政景が継ぎ自らは入道して三楽斉道誉と号した。
義重が片野城に三楽父子を配したのは、この地が小田氏旧領であったため、義重は父子に小田氏牽制を期待したのである。また、義重は三楽に妻をすすめ、再婚した三楽は資武と景資の二子をもうけた。こうして、三楽と政景は、佐竹氏の客将として小田氏と小田城攻略をめぐって熾烈な戦いを展開することになる。
永禄十二年、三楽・政景父子は真壁・多賀谷氏と連合して、小田氏治の精鋭を手這坂に迎撃して武名を近隣に轟かせた。戦後、政景はその功により小田城主となった。その後も、小田氏との間で合戦が繰り広げられたが、三楽の智と政景の勇によって小田・片野・柿岡城は維持され、小田氏は次第に衰退していった。
天正六年(1578)三月、上杉謙信が死去した。佐竹氏と三楽父子は後北条氏に対抗するため、謙信に代わって武田勝頼・織田信長・徳川家康らと結んだ。天正十年、武田氏が滅び、ついで信長が本能寺で横死すると羽柴秀吉に接近した。信長の事業は秀吉が継ぐ形となり豊臣と改め、九州を平定して東国制覇を目指し始めた。
秀吉は反後北条勢力の東国諸将との連繋を強め、三楽も秀吉と書状を交換している。秀吉の天下統一事業は着々と進行し、天正十八年四月、秀吉は小田原城を包囲し、関東諸将を招き小田原城攻略の策をたずねた。このとき、大方の武将たちは秀吉の意にかなう意見を述べたが、ひとり太田三楽だけは素直に自分の見解を述べたが、それを聞いた秀吉は不興を示し三楽は面目を失したという。三楽は「油断は大敵」として状況を直視した意見を述べたのであったが、かれの真意は秀吉には伝わらなかったのであろう。こののち三楽は片野城に帰り、天正十九年九月、悲願の岩付城回復はならず、七十歳を一期として空しく異郷の土となった。
三楽は関東の戦国時代の代表的武将として、その生涯は愚直なまでに管領上杉氏に忠節を尽くし後北条氏と対決を重ねた。三楽の生涯に関してはさまざまな解釈があろうが、豪勇にして智謀の武将であったことはまぎれもない。上杉景勝に仕えて智将の誉れ高い直江兼続は、わが国の大小の武将中で主君謙信と太田三楽に及ぶものはないと激賞している。しかも、三楽資正の名将としての評価は後北条氏方でも高かった。
太田氏のその後
資正の死後、家督は資武が継いだ。資武は父三楽斉資正に従って十五歳で初陣し、手這坂の合戦や府中攻めにも参戦し戦功を挙げた。小田原落城後、結城秀康に仕え、関ヶ原の合戦後、越前へ転封となった秀康に従って越前北ノ庄に移った。禄高千石、軍奉行を勤めた。のち、大坂の陣に参戦しその戦功で八千石に加増され、寛永二十年に没した。以後、子孫は結城松平家に仕えたが、主家の減禄に際して浪人し越前を去って河内国交野に移り郷士となったと伝える。
一方、江戸系太田氏が徳川大名に列した。国府台合戦に際して資正に味方して敗れた康資は、資正らとともに佐竹氏に仕えた。その子重正は、天正十八年、徳川家康が関東に入部すると、その家臣となり関ヶ原の合戦にも従軍した。重正の妹は家康に召し出され寵愛を受けた英勝尼として知られる。重正の子正重は、水戸徳川氏に仕え英勝尼との関係から厚く遇されたが病死、そのあとは弟の資宗が継ぎ、のちに英勝尼の養子となり累進を重ねて大名に出世した。資宗は、奏者時代の寛永十八年(1641)『寛永諸家系図伝』の編修に儒官林羅山とともにあたった。このとき、太田系図も『寛永諸家系図伝』に収載されたが資宗の意見が強く反映されたようで、太田氏の系図が混乱する原因を作った。
資宗は江戸太田氏の後裔であり、その地位を利用して太田氏の関係事蹟を探索した。特に当時越前藩の重臣だった岩付太田系の子孫である太田資武らから関係資料を集め、それらを作為して嫡流とされる岩付太田氏については言及すること少なく、自己の江戸太田氏を中心とする太田系図を作り上げたのである。古来、系図については、良質なものがきわめて少なく、自家の由緒を誇り、その書写や書き継ぎの段階で誇張・削除などの曲筆のなされることが多いのは通例である。資宗もまた、その誘惑に克てなかったのであろう。
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■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、
鎌倉時代は東国武士の名字・家紋が
全国に広まった時代でもあった。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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