成田氏
竪三つ引両
(藤原北家流?/武蔵七党か)
・『関東幕注文』には、月に三つ引両とある。 |
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成田氏は、一説に藤原道長の後裔式部大夫任隆が武蔵国の国司として幡羅郡に住み、任隆の子助広が成田太郎を称したのが始まりという。しかし、そのようにいわれるだけで史料的な裏付けがあるわけではなく、厳密なことはわかっていない。成田氏は北武蔵の一隅の小さな在地領主から次第に成長していったことは間違いなく、藤原氏に連なる系譜は後世の付会の説というべきであろう。
ちなみに、武蔵七党横山党系図によれば、横山資孝の子の成任が成田を称したとある。そして、「成田系図」には助高を成田大夫とし、その子に成田太郎助広、別府氏の祖である別府二郎行隆、奈良氏の祖である奈良三郎高長、玉井氏の祖である玉井四郎助実の四人が記されている。この四人は「武蔵七党系図」にみえる資孝の子の成田成任・箱田三郎・奈良四郎・玉井資遠に該当するものと思われるが、これも相違があって断定することは困難である。しかし、在地武士と思われる成田氏は、武蔵七党にみえる成田氏の子孫と考えるほうが自然なようだ。
いずれにしても、系図上の人物ではっきりしてくるのは助隆からで、助隆がはじめて成田氏を名乗っており、助隆が成田氏の初代として考えられている。この助隆から親泰までは居城を上城に構えており、親泰が文明年間(1469〜87)に武蔵七党の一つ児玉氏を滅ぼし、忍城に本拠を移したといわれる。助隆の孫助忠は源義経に従って一の谷の合戦で名を挙げ、助綱は奥州征伐に従って功があり陸奥国鹿角郡内で勲功の地を与えられた。成田氏は鎌倉幕府創業期、御家人として活躍し、「承久の乱」にも幕府方として参加した。乱後、和泉・出雲両国内で新補地頭に補任されたことが『出雲大社文書』『田代文書』などから知られる。
元弘の変(1333)で鎌倉幕府が滅亡し建武新政が成立したが、それも新政府の失政が原因で崩壊したのち、成田氏の嫡流は本領成田を没収され庶流に預けられた。これは、新政崩壊後の南北朝の内乱期に際して、嫡流成田氏が南朝方に属していた結果と思われる。
成田氏の発展
十五世紀の初めに活躍した家時は、幼児より怜悧、長ずるにおよんで智勇父祖に越え、武士を愛し民を憐れみ政道に私なく文武に秀で、近邑おおいに靡き左京亮に任ぜられたといわれる人物であった。応永二十三年(1416)「上杉禅秀の乱」における相模川の合戦には別府・奈良・玉井の一族とともに上杉憲顕の嫡子定顕に属し戦功をたて、鎌倉に帰った足利持氏から恩賞を賜った。
これを契機として成田氏は山内上杉氏と結ぶようになり、成田氏は勃興のきかっけをつかみ、家時は成田氏の勢力拡大の端緒を築いた。家時が成田氏中興の祖と呼ばれるよう所以である。家時の嫡子は早世したようで次男資員が家督を継承したが、資員は不肖の息子であったようで鎌倉への出仕も怠りがちであった。資員は三十二歳で没したため嫡子顕泰がわずか八歳で家督を継承、幼い顕泰は老臣の補佐を得て一角の武将に成長した。
顕泰のとき関東公方持氏と関東管領上杉氏が対立した「永享の乱」が起り、幕府の介入によって敗れた持氏は自害して鎌倉府は滅亡した。その後、持氏の遺児春王丸と安王丸が結城氏朝に擁立されて結城城に立て籠ったが、上杉清方を大将とする幕府軍によって制圧された。この一連の関東の戦乱に際して、顕泰は管領上杉憲実に従って軍功をたて、憲実のあとを受けた管領上杉清方の推挙で下総守を称した。
その後、持氏の子成氏が関東公方になると、成氏は父や兄に味方して没落した結城氏らを取り立てたため、上杉氏と対立するようになり、ついに管領上杉憲忠を殺害したことで「享徳の乱」が勃発した。以後、関東は公方方と上杉方に分かれて戦乱に明け暮れる時代となった。この乱に際して、成田氏の同族別符氏は公方に属していたようだが、武蔵国長井庄を望んだとき成氏がこれを近臣の結城氏に与えたために成氏方から転じて山内上杉氏に属している。
公方と管領の争いは繰り返され、太田道灌に攻められた成氏の被官である簗田成助は成田氏の陣から和を請うている。顕泰は上杉方に属して活躍し、掘越公方となった足利政知からも賞詞を賜っている。その後、長尾景春が家督相続をめぐる主家上杉氏の処置への不満から叛乱を起こし、成氏と結び長井庄内の要害に立て籠った。これに対して太田道灌が顕泰を応援している。顕泰は寛正の争乱に際して古河に備えるため行田に要害を築き、一方で仏門に帰依して寺社に保護を加え、文明十二年(1480)に家督を嫡男の親泰に譲って隠居した。
忍城を築く
家督を継いだ親泰の時代は、享徳の乱が終熄したものの山内上杉顕定と扇谷上杉定正が対立をした時代で、親泰は山内上杉氏に属して活動した。両上杉氏の抗争は「長享の乱」と呼ばれ、「享徳の乱」「長尾景春の乱」に活躍した扇谷上杉氏の家宰太田道灌の謀殺がきっかけとなった。扇谷上杉氏は道灌の存在によって山内上杉氏を凌駕するいきおいを見せ、それを危惧した山内上杉顕定は扇谷定正に讒言して道灌を殺害させた。それが引き金となって「長享の乱(1487)」が起り、関東はまたもや戦乱のなかに叩き込まれたのである。この乱に際して親泰は山内顕定の麾下の将として活躍し、その武名を近在に響かせ、中務大輔・下総守に補せられた。
延徳元年(1489)、親泰は忍氏の館を襲って忍氏を滅ぼし、さらに児玉重行を攻め滅ぼした。忍氏は『吾妻鏡』にも記されているほどの古い家で、児玉党の一族といわれている。忍氏と成田氏とは源頼朝の旗揚げのときはともに出陣した間柄であったといい、成田氏は時流にのって勢力を拡大したが、忍氏は昔ながらの武士のままであった。とはいえ、忍氏は道灌の存命中には道灌と姻戚関係を結び、成田氏とそれなりに相応する地位にあった。
しかし、道灌没後は両家の確執が激化し、ついに武力抗争に至った。親泰はこれを好機として、上杉顕定に訴えて、承諾をえると一気に忍氏を滅ぼしたのである。さらに、扇谷上杉氏に加担する児玉重行をも攻め滅ぼし、児玉党より忍の地を奪い取るに至ったのである。そして、翌年から忍城の築城に着手し、翌年に竣工した。忍城が築かれた当時の忍は「水田と湿潤地帯が錯綜し、其の間に小丘があった。そこに諏訪曲輪、本丸、二の丸、荒井、井戸曲輪などを建設、湿潤地帯と深田地帯とを巧みに利用し小丘の周辺に沼地を作り、土を以って土塁を幾重にも築いた」一大城郭としたのである。
『成田記』には「忍の城は太田道灌の縄張り共伝ふ」とあるが、道灌は忍城築城以前に死去しており、道灌の縄張りはありえいことであった。とはいえ、道灌の築城術に学んで築かれた城であったようだ。永正六年(1508)、連歌師宗長が成田親泰の館を訪れ、そのときに滞在した忍城の景観を、かれの紀行文『東路のつと』に「水郷也。館のめぐり四方沼水、幾重ともなく葦の霜がれ、廿余町四方へかけて、水鳥おほく見えわたる」と描き残している。
永正七年、上杉氏の被官上田政盛が北条早雲に内応して管領上杉憲房に叛した。憲房は政盛が籠る権現山を攻め叛乱を鎮圧したが、親泰は嫡男長泰および藤田虎寿丸らとともにその寄せ手に参陣し戦功をたてた。このころ、小田原を本拠とした後北条氏が勢力を拡大しつつあり、関東は本格的な戦国時代に移行していった。そして、居城を忍に構えたこの親泰のころからが戦国大名成田氏としての歴史にあたっている。
その後、古河公方家に内紛が起り、政氏と高基が不和となったとき、山内氏もその影響を受けた。すなわち、公方家から上杉氏に養子に入った顕実ともうひとりの養子憲房とが対立し、親泰は政氏方の顕実に従って所領を没収され、憲房の執事長尾景長はそれを横瀬景繁に与えた。
関東の戦乱
大永四年(1524)、親泰が死去したあとを受けて長泰が成田氏の当主となった。天文十年(1541)、長泰は深谷城主上杉憲賢、下野の佐野氏、上野の那波・長野氏らと金山城主横瀬成繁を攻めた。背景は不明だが、おそらく後北条氏と結ぼうとする横瀬氏の動きに対して、関東管領上杉憲政の命で出陣したものであろう。加えて、先に没収された所領が横瀬氏に与えられたことに対する報復もあったと考えられる。
長泰の史料上における初見は、天文二年(1533)二月、北条氏綱が鶴岡八幡宮造営に際しての勧請に応じた領主の一人としてである。氏綱は鎌倉を掌握し、鶴岡八幡宮の再興造営を通して関東の領主たちに対する支配を強化しようとしたのである。天文二十五年、上州館林の青柳城主赤井勝元が忍城攻略を企て、長泰は城を出て小簑郷に布陣、荒木邑の河辺で合戦して赤井勢を撃退した。
このころ、後北条氏は早雲のあとを継いだ氏綱の代で、さらに台頭は著しいものがあり、後北条氏の存在は関東の政治の流れに大きな影響を与えようとしていた。そして、氏綱の子氏康の代になると、両上杉氏や古河公方との対立を引き起こすようになった。
その最大の事件となったのが、天文十四〜十五年(1545〜46)の「河越合戦」で、氏康の会心の勝利に終わった。敗れた両上杉氏・古河公方家は没落し、上杉方の有力な国人であった大石・藤田氏らは氏康に降った。河越合戦は関東の政治地図を塗り替える画期となる戦いとなったのである。このころ、成田長泰は北条氏康に味方していたようだが、その関係は互いに起請文を取り交わし、長泰が氏康の指揮下に入った程度のものであり、未だ不安定な服属関係であった。
合戦後も平井城に余喘を保っていた管領上杉憲政に対し、天文二十年、北条氏康は攻撃をしかけた。敗れた憲政は、ついに越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って関東から落去していった。
長尾景虎の越山
上杉憲政を庇護した景虎はその要請を入れて、永禄三年(1560)秋、憲政を擁して関東へ出陣した。このとき、それまで北条氏康に従っていた成田長泰ら関東の諸将は景虎のもとへ参陣し翌四年の小田原城攻撃に加わった。このとき、謙信は上杉陣営に来属してきた関東の武士の氏名と陣幕の紋を書き上げた『関東幕注文』を作成した。
そのなかに、武州衆の統率者として成田下総守すなわち長泰と一族、配下の幕紋が記録されている。それによれば、成田氏は「武州之衆」を率いる大名として把握され、成田下総守「月ニ三引りやう」を筆頭に親類の同尾張守・同大蔵丞の「三ひきりやう」、ついで、同越前守・田中式部少輔・野沢隼人佐・別府治部少輔・別府中務少輔らが「同紋」とされ、以下、須賀土佐守「二かしらのともへ」、鳩井能登守「かたくろ」、本庄左衞門佐「団之うちニ本之字」、山田豊後守「かたはミ」、田山近江守「かたはみ」などが記され、成田氏の勢力の大きさがうかがわれる。
一方、景虎の陣に加わった長泰に対して氏康は「成田下総守、年来の重恩を忘れ、度々北条の誓句血判の旨に背き、忽ち逆心を企つ事、誠に以って是非なく候」と厳しい批判の言葉を述べている。たしかに氏康にしてみれば、謙信に走った長泰の行為は「不忠」そのものであった。しかし、長泰にしてみれば、謙信が山内上杉憲政の跡を継いだ以上、古くからの山内上杉氏との関係からこれを支持するのもまた当然のことであった。しかし、長泰は小田原城攻撃のあと間もなく、謙信から離反し、ふたたび氏康のもとに走っている。
『相州兵乱記』などによると、長泰の謙信に対する礼の作法が無礼であるとして謙信に扇で烏帽子を打ち落とされたのに腹を立て、謙信を離れ、後北条氏に味方するようになったのだという。事の真相はともかくとして、以後、成田氏が後北条氏に属するようになったのは事実である。
かくして後北条氏の麾下に属した長泰は、永禄五年三月、謙信が下野佐野城を攻めた時、ただちに北条氏照へ通報し、氏照とともに佐野城救援の軍を出している。翌年、謙信が下野・上野・武蔵などの後北条氏方の諸氏を攻めたときにも、氏康・氏政方に立って謙信と戦った。しかし、永禄五年にいたって謙信の力の前に屈し、氏長の室に太田三楽の娘を迎えている。
戦国大名、成田氏長
長泰は謙信に屈服するとともに第一線から退いたようで、以後、氏長の名が登場してくるようになる。しかし、長泰は嫡男の氏長よりも次男の泰親を愛していたようで、永禄九年、氏長をさしおいて、家督を泰親に譲ろうとしたことから、氏長との争いとなった。このとき、泰親が身を引いたため、成田氏は内訌に至らず氏長の家督相続ということになったのである。
成田氏の家督を継いだ氏長の名は、すでに天文二十一年(1552)の妻沼聖天院棟札に登場しているが、その動きが活発化してくるのは永禄六年(1563)以降のことである。このころ、氏長は謙信方に属しており、同年、北条氏康が金山城攻めにとりかかると、謙信は由良氏支援のため成田氏長・太田資正を出陣させている。以後も、謙信方に立った氏長の動きが見られる。永禄八年二月、氏長は後北条氏の攻勢を越後の謙信に報じ、謙信は朝倉義景への対策を後回しにして、ただちに関東へ出陣する旨を氏長に報じている。ついで、永禄九年正月、謙信が常陸小田氏を攻めようとしたとき、氏長は二百騎の軍事行動を求められた。これは、関宿城の簗田氏の二倍であり、成田氏の勢力のほどを示している。
しかし、氏康・氏政の攻勢が活発化すると、氏長の立場は微妙なものになり、永禄十二年の越相同盟のころには不安定ながらも後北条氏に属すようになっていた。それゆえに越相同盟における領土問題では、成田氏長の帰属が争点の一つになった。同盟成立によって成田領が上杉方に帰属することになると、謙信はさっそく成田氏の引付け工作を行っている。
一方、後北条氏の方では、「成田氏や松山城の上田氏が謙信に退治されるのではないかと考えており、同盟が成立したからには後北条氏の攻撃を受けるかもしれないといって武田信玄へ通じる動きを見せている。信玄に内通させないためには、謙信が成田氏や上田氏に不可侵の約束をし、両氏から人質を取るしかない」などと上杉氏に申し送った。この巧みな後北条方の駆け引きによって、謙信は成田・松山領の獲得を断念した。これによって、成田氏長ははっきりと後北条方への帰属が決定し、以後、一貫して後北条方にたって活動することになる。
越相同盟はその後に破れ、天正二年(1574)冬、羽生・関宿をめぐる謙信と後北条氏との決戦に際し、氏長は氏政・氏照兄弟の羽生城攻略の大きな戦力となって働き、謙信に忍城下まで焼き払われる損害を受けた。この天正二年の上杉・後北条の決戦は後北条方の勝利に終わり、上杉方の勢力は武蔵国から完全に消滅した。その結果、武蔵国は一時的ながら合戦の主要舞台から解放され、この状況のもとで氏長は領内支配の強化に努め家臣団編成や在地掌握に大きな成果を挙げることができたのである。
小田原の陣
天正期は、天下統一に向かって時代が大きく転回した。元亀三年(1572)上洛の軍を起こした武田信玄が、途中で病を発し軍を甲斐に帰す途中に死去し、信玄のあとを継いだ勝頼は、天正三年、織田・徳川連合軍と三河国長篠で戦って壊滅的敗北を喫し、武田氏の勢力は大きく後退した。ついで、天正六年三月、関東への陣ぶれをした謙信が急病を発しそのまま帰らぬ人となり、上杉氏は謙信後の家督をめぐって内乱となり、景勝が勝利したものの、勢力は大きく衰退せざるをえなかった。
天正十年には織田軍が甲斐に侵攻し、敗れた勝頼は自害して武田氏は滅亡した。武田氏領を接収した信長は、織田家の部将たちにそれぞれ新領地を分け与えた。上野には、織田氏の関東管領として滝川一益が入り、厩橋城主となった。成田氏長も一益に款を通じたが、六月、京都本能寺において織田信長が殺害された。まさに目まぐるしいばかりの、時代の急変であった。一益は関東を捨てて上方に帰ろうとしたところを、後北条方の追撃を受けて神流川で戦い敗れ、ほうほうの体で関東を逃れ去った。ここにおいて、成田氏はふたたび後北条氏に帰属した。
信長死後の中央政界では、羽柴(豊臣)秀吉が台頭し、四国・九州を平定すると、関東に目を向けるようになった。秀吉は後北条氏に上洛して豊臣氏の麾下に属するようにすすめたが後北条氏はこれに従わず、逆に領内の諸城を整備し、親後北条方の諸将に小田原への参陣を促した。ここに至って秀吉は小田原征伐を陣ぶれし、天正十八年春、京都を進発した。成田氏長と忍城を有名にしたのは、この小田原征伐においてであった。
秀吉は本城である小田原城を包囲すると同時に、関東各地に散らばる後北条方の支城を各個撃破していく戦術をとった。忍城主の氏長は小田原本城に詰めたが、留守を守った一族・家臣は後北条方の城が次々と落城していくなかで豊臣勢の攻撃をよく防いだ。攻城軍の大将石田三成は秀吉の備中高松城攻めを真似て、水城である忍城を水攻めにしようとした。ところが、折からの雨によって三成の築いた堤防が決壊し、攻城軍には多くの死傷者が出るありさまとなった。石田三成はまことに武運に恵まれない武将であったといえよう。この失敗によって三成を戦下手とする世評が定着し、のちの関ヶ原の戦いにおける石田三成の失敗はこのときの敗戦が遠因になったとも考えられる。
こうして、忍城は小田原城が開城するまで戦い抜き、七月の小田原開城後に氏長の使者が城兵に開城を命じたため、ついに開城となったのである。成田氏は武蔵国忍城主として、最盛期には総知行高六万貫(約三十万石)を領していたが、小田原落城後、城地は没収され氏長らの成田一族は蒲生氏郷に預けられた。
ところで、氏長は連歌に親しみ在京の連歌師紹巴に連歌の合点を請い、『源氏物語廿巻抄』を贈られている。また、和歌を冷泉明融に学び、古今伝授を受けるなど、かなり教養の深い武将でもあった。氏長の連歌の友に豊臣秀吉の右筆山中長俊がいた。天正十八年(1590)、小田原籠城中の氏長に長俊が再三開城を促す書状を送ったことは有名である。
その後の成田氏
氏長が預けられた蒲生氏郷は、小田原の役後、会津黒川城四十二万石を賜り若松城に入城した。成田氏長と弟泰親ら一族もこれに同行した。氏郷は若松城に入ると知行割を行い、成田氏長には若松城の要害の地である福井城に一万石の知行を添えて与えた。そして、氏郷は側近の家臣である浜田十郎兵衛・十左衛門の兄弟を目付として氏長に随臣させた。天正十九年、九戸政実の一揆が起こると氏長は城を浜田兄弟に預けて一揆鎮圧のために出陣していった。ところが、浜田兄弟は逆心を起こし、氏長の内室を殺害し福井城を占領してしまった。
この報に接した氏長兄弟は兵を返して福井城を攻め、福井城を奪回した。このとき、氏長の娘甲斐姫は、女ながらも武装をして薙刀をとって敵陣に駆けこみ縦横に敵をなぎ倒し、母の仇浜田兄弟を討ちとり、武勇の誉をあげた。福井城騒乱は秀吉に言上され、秀吉は氏長父娘の武勇を賞し、また美貌の甲斐姫を側室として寵愛したことから、氏長は豊臣大名の一員となり烏山城二万石に封ぜられた。
慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦には徳川方につき、那須一統とともに大田原を拠点として上杉景勝南下の防衛にあたった。戦後、家康は氏長に一万七千石の加増をもって報い、氏長は併せて三万七千石の大名になった。氏長には男子がなく家督は弟の泰親が継いだ。泰親は慶長十九年(1614)の大坂冬の陣、ついで元和元年(1615)の大坂夏の陣にも出陣し奮戦した。その後、泰親は家督を長男重長に譲り隠居した。しかし、重長は病身だったため、弟の康之が職務を代行していたが重長が病死したため康之が家を継ぐことになった。ところが、重長の室が懐妊中であったために、跡継ぎをめぐって騒動が起こり、それを理由に幕府は加増分の一万七千石を収公した。
成田氏の家督を継いだ康之も元和八年(1622)に急死したため、弟の泰直が継ごうとした。ところが、成長していた重長の子房長を擁立しようとする者があってふたたび家督相続争いとなり、結局、これが命取りになり成田氏はふたたび没落の悲運となったのである。
【参考資料:行田市史/鷲宮町史/戦国大名系譜人名事典 ほか】
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