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岡部氏
左三つ巴
(藤原南家工藤氏流)  
埼玉県の岡部さんから巴の向きが逆との情報をいただき、現在の画像を掲載しています。
 


 岡部氏は、藤原南家工藤氏の流れといわれる。工藤氏の一族で入江氏を称した維清の子維綱を経て清綱のときに岡辺権守となり、その子泰綱のときに岡部と改めたといわいる。鎌倉期に至って岡部郷の地頭となり、鎌倉政権と強く結び付いた。「吾妻鏡」に「駿河の住人岡部権守泰綱」とあるのがそれで、当時の駿河武士の代表的存在であった。本貫地は駿河国岡部宿のあたりで、朝比奈氏とも関係があるといわれている。
 鎌倉期の建長二年(1250)以来、室町期の永亨五年(1423)までの約百八十年間は、文書や史書に岡部氏の名は、全く表われない。いわゆる空白の時期となっている。文書・記録が消滅したのか、未発見なのか一切不明である。しかし、今川氏の範忠の頃には、国人の一人として今川家臣団に組み込まれていたことは間違いないだろう。

歴史への登場

 岡部氏の実像が明かになってくるのは左京進(親綱・仲綱?)からである。左京進は、天文五年(1536)の花倉の乱で、今川義元を支持し、敵方を制圧した功により感状を受けている。左京進の家督は、美濃守に継承された。  美濃守は信綱(久綱とも)を名乗り、のちに出家して常慶と号し、今川氏の重臣として今川氏親に仕えていたが、のち勘気をこうむり蟄居していたという。
 常慶の子が次郎右衛門正綱で、はじめ今川義元に仕えた。永禄十一年(1568)武田信玄が駿府を攻めたとき、今川氏は掛川城に逃れたが、正綱は駿府城にとどまって防戦した。のち、館を明け渡して清水に退き、信玄に仕えた。信玄は正綱の武勇を賞して、侍大将とし、清水の城将とした。
 その後、武田氏滅亡後は家康に属し、多くの武田遺臣を徳川家に九州するパイプ役をになった。そして、家康から甲斐および駿河の内において七千六十貫文の地を与えられている。この正綱こそが、岡部氏にあって戦国動乱期を生き抜いた武将であったといえそうだ。
 岡部氏は一門も多かったようで、実名も不明の名が文書中に散見される。しかし、それらを系譜上で位置づけをするのは困難であり、同名の異人物も数人あり、さきの正綱でさえ、次郎右衛門と太郎左衛門の二人が存在していた。
 岡部氏で正綱と並んで知名度の高い人物は、正綱の弟にあたるとされる丹波守元信(長教・真幸とも)であろう。元信は桶狭間の戦いのとき、鳴海城を守り、義元の首を要求して駿府に帰った。今川氏没落後、武田信玄に仕え遠江国高天神城を預けられた。勝頼の代に武田氏が衰運となったときも、孤立無縁となった高天神城で武田氏に忠節を尽くし、三年にわたって籠城、天正九年(1581)戦死するまで高天神城を守った。

近世へ生き残る

 さて、次郎右衛門正綱のあとは子長盛が継いで、十六歳で家康に出仕し、新参者の点もあってか武功につとめた。小牧・長久手の戦いにおいて榊原康政らと先鋒に加わり、羽柴秀次の軍勢を打ち破るのに功を挙げた。自ら首級二つを挙げている。以後、家康に仕えて各地を転戦して忠勤を示した。
 家康が関東に移ったとき、上総・下総両国において一万二千石を与えられ、ついで慶長四年、丹波国で新恩二万石を与えられた。
 翌五年の関ヶ原には参加させられず、後備を固めて会津対策で終始した。大阪両陣の功で元和七年、 福知山城主を経て五万石美濃国大垣城主。また、長盛の子宣勝のとき和泉国岸和田城主となり、明治維新を迎えた。
参考資料:今川氏研究】



■参考略系図
・岡部氏の系図は、本によって異同が少なくなく、比較的史料にも恵まれた正綱の代でも系譜が混乱している。ここでは、『藩翰譜』『寛政譜』などの世系を示しながら、諸系図を校合したものを掲載した。



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