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千葉氏
●月星(九曜に半月)*
●桓武平氏良文流
*俗にいわれる星と三日月を組み合わせた「月星」は、江戸時代以降に成立したもののようだ。


 千葉氏は桓武平氏良文流で、古代末期から中世、戦国時代末に至るまで関東の豪族として栄えた。
 平良文は村岡五郎と呼ばれ、その子孫は上総・下総・武蔵国などに繁衍した。良文の甥にあたるのが、「将門の乱」で有名な平将門で、良文は将門の叛乱には深く関係しなかったようだ。ところが、千葉氏の氏神「妙見」に関する伝説によれば、良文は将門に味方して上野国に攻め入り、平国香の大軍と合戦し窮地に陥った。そのとき、妙見菩薩が童子の姿になって顕われ、敵軍に剣の雨を降らせ、良文と将門を助けたという。
 将門没落後、かれの遺領は良文が継承し、子孫に伝領された。良文の子孫忠常は、長元元年(1028)から四年にかけて反乱(平忠常の乱)を起こし、源頼信の追討を受けたが頼信に降伏した。忠常は京都に連行される途中で死去したが、子息らはとくに赦された。この忠常の子孫は上総氏と千葉氏など両総の豪族として生き残り、やがて頼信流源氏との関係を深めていくことになる。忠常の子常将は、源義家にしたがって「前九年の役」に参加し戦功を立て、その子常長は子の常兼とともに、「後三年の役」に出陣して出羽国で清原氏を討ち取る功を立てたという。
 系図によれば、常将は「千葉小次郎、総州千葉に居る、因て氏とす」とあり、常兼の条には「千葉大夫」と注記されている。また、常兼の子常重が千葉庄の検非違所として千葉大夫を称している。のちに、千葉氏代々が居城とした千葉城に初めて拠ったのは、大治元年(1126)常重のときであったとする伝承もあり、十二世紀のはじめには千葉氏を称していたと思われる。

歴史への登場

 下って常胤の代、「保元の乱」が起こり、常胤は源義朝に仕えて、同族の上総広常、安房の安西・沼・丸氏らとともに夜討に参加した。ついで起こった「平治の乱」に常胤が参戦したという形跡はなく、上総広常は義朝に属して敗れて上総国に帰ったことが知られる。当時、常胤は常陸佐竹氏と抗争して所領の一部を失うなどしており、そのことが平治の乱への不参につながったものと考えられる。
 その後の治承四年(1180)、伊豆の源頼朝が挙兵したが石橋山の合戦に敗れ安房国に逃れた。旗揚げに際して頼朝がもっとも頼りとしたのは、上総広常と千葉常胤であった。このとき、頼朝からの使者を迎えた常胤は感激し、頼朝に相模の鎌倉を本拠にすることを勧め、頼朝支持の態度を明確にした。一方、頼朝からの使者に対する広常の態度はすっきりしないものであったという。
 常胤は下総の平家方の掃討作戦を展開し、下総国府で頼朝に参会したときの総勢は三百余騎であったという。のちに、広常が頼朝に参向したときに率いていた二万余騎という数字と比べると、千葉氏と上総氏の勢力の隔絶ぶりがうかがえる。しかし、常胤に対する頼朝の信頼は広常に勝っており、のちの千葉氏の発展は、このときの常胤の行動が発端になったものといってよいだろう。
 その後、千葉介常胤は頼朝から「師父」と呼ばれるほどの深い信頼を得て、房総平氏の宗家にあたる上総権介広常とともに木曾義仲や平家との戦いに活躍した。さらに、上総広常が謀叛の疑いで頼朝に誅殺されると、上総介の一族も支配下におさめ、千葉氏は事実上、房総平氏の惣領となった。
 文治五年(1189)の奥州征伐にも息子たちとともに出陣し、戦功を立てた。頼朝は戦後の論功行賞にあたり、まず最初に常胤に対して恩賞を与えている。そして、常胤は奥州をはじめ美濃・肥前・薩摩などに多くの地頭職を得て、その勢力は飛躍的に拡大した。かくして常胤以後、千葉氏は幕府の有力御家人として、下総国の守護職を嫡流が世襲し、一門は北下総を中心として上総にまで広がっていった。

千葉氏と一族の発展

 常胤には系図上で七人の男子があった。家督は嫡子の胤正が継ぎ、弟たちもそれぞれ所領を与えられて、世にいう千葉六党を形成した。
 二男師常は下総相馬郡を与えられ、奥州征伐の勲功により陸奥国行方郡を与えられ、子孫はのちに相馬を号して関東御家人として活躍した。三男盛胤は下総国武石郡を与えられ、奥州征伐などの功により奥州宇多・伊具・亘理三郡の地も領有し子孫は武石氏を称し、のち陸奥に移った流れは亘理氏を称した。四男胤信は香取郡大須賀保を領して大須賀氏を称し、奥州にも分領を賜った。五男胤通は葛飾郡国分郷を領し、子孫は国分氏を称して守護代などを務め香取郡一帯に勢力を振るった。六男胤頼は下総国東部の香取郡東庄三十三郷を領し、東氏を称した。胤頼は平氏政権下の京都に上って、上西門院に仕え従五位下に叙せられていた。その子孫は、のちに美濃に移って美濃東氏として勢力を振るった。この東氏からは海上氏が分流している。
 このように、常胤の子息六人は、北下総一帯にはびこって、在地領主制を展開し、千葉宗家の領国支配の一端を担ったのである。ところで、常胤の七男は僧となって日胤といい、頼朝の祈祷僧となり、近江の園城寺に住したが、源頼政の挙兵に参加して奈良で最期を遂げている。
 承久三年(1221)に起った「承久の変」に際しては、胤正の孫千葉介胤綱が足利氏や三浦氏の軍勢とともに東海道より上洛して活躍した。胤綱は、このとき十四歳であったという。
 胤綱の代、一族の上総権介秀胤は幕府の評定衆として羽振りを利かせていたが、北条光時らと執権北条時頼打倒を図った首謀者であるとして、評定衆を罷免され上総国に追放された。その後、「宝治合戦(宝治元年=1247)」が起こると、秀胤は三浦泰村の妹婿であったために、乱に連座して幕府の追討を受け自殺した。このとき、秀胤の弟時常は兄と所領をめぐって対立していたが、兄の危急を知ると兄のもとに駆け付け、兄とともに自害した。この時常の行動は、『吾妻鏡』に「勇士の美談」として讃えられている。
 胤綱は若くして死去したため、千葉介は弟の時胤が継いだ。しかし、時胤も急死したため、頼胤がわずか三歳で千葉介を継いだ。
 鎌倉幕府草創期、有力御家人の多くが執権北条氏と対立して没落していった。さきの宝治合戦は最期に残った有力御家人三浦氏と北条氏との戦いであり、乱を制したことで北条氏の権力は確立されたのである。この幕府の実力者北条氏と千葉氏とは姻戚関係も結ぶなどして、概ね良好であったようだ。また、常胤以来、下総守護職を世襲する千葉氏に対して、北条氏も一目をおかざるをえなかったのであろう。

内紛と分裂

 文永十一年(1274)、頼胤のとき蒙古襲来(文永の乱)があり、千葉氏にも大きな影響を与えた。すなわち、幕府は蒙古の再来に備えるために、九州に領地を持つ御家人の九州下向を命じたのである。肥前国小城郡周辺に所領を持っていた千葉氏も九州に下向し、千葉介頼胤は敵の毒矢をうけ九州の地で戦死した。
 頼胤の死後、長子宗胤は慣例である千葉妙見社において家督を継承する間もなく、千葉新介のまま九州へ下向し、肥前国小城郡晴気城に駐屯した。弘安四年(1281)六月、ふたたび元は大軍をもって博多湾岸に来襲してきたが、再び襲った台風によって壊滅した。その後幕府は、博多湾の警備のために関東御家人たちの帰郷を認めず、宗胤は大隅守護職に任ぜられ下総国に帰ることなく、父同様に九州の地で他界した。
 宗胤の子胤貞は幼少であったために、宗胤の弟で叔父にあたる胤宗が、下総で千葉氏の実力者となり、千葉介は胤宗の子貞胤に継承された。おそらく一族・家臣たちもこれを、了解したようである。元弘元年(1331)、貞胤は北条氏討伐軍に参加し、以後、宮方として活動した。一方、胤貞は北条高時に命じられて、肥前国の反乱軍を討伐し功をあげた。しかし、その後足利尊氏が倒幕の旗を揚げると、足利方に寝返って倒幕に貢献。後醍醐天皇による「建武の新政」が始まると新政府に仕え、建武元年(1334)九月、後醍醐天皇の加茂神社行幸に随行している。
 建武二年(1335)「中先代の乱」に際して、胤貞は足利高氏の麾下に属して遠江国橋本合戦に功を挙げている。乱を制圧した尊氏は鎌倉に居坐り続け、ついに後醍醐天皇に叛旗を翻すと胤貞は尊氏を支持し宮方の貞胤とは対立関係になった。その後、下総国の千田庄周辺の所領に下向したと伝えられている。
 こうして、従兄弟である貞胤と胤貞は、下総千田庄で合戦を繰り返した。建武二年秋、胤貞は千葉一族の相馬親胤と連合して千葉城を攻め、さらに鎌倉に馳せ参じて尊氏の軍に属した。このころ、尊氏を討伐するために東下をつづけていた新田義貞軍を尊氏は箱根山で迎え撃ち、新田軍を破り、敗走する義貞を追って西上した。この戦いに、貞胤は義貞の軍に属していた。やがて、後醍醐天皇と尊氏との間で和議が成立したとき、貞胤は義貞に従って北国にあったが、越前国守護の足利(斯波)高経の説得を受けて尊氏方に服属した。
 こうして、下総の内乱も一応の終結を迎え、東国各地は尊氏方の優勢となった。その後、胤貞の子孫は肥前国小城郡晴気庄に定住し、肥前の豪族たちを被官化して勢力を伸ばし、室町期には少弐氏と並ぶ肥前屈指の豪族となった。
 貞胤の嫡子一胤は園城寺の戦いで戦死していたため、二男の氏胤が千葉介を継いだ。観応二年(1351)、足利尊氏と直義兄弟が対立して「観応の擾乱」が起きると氏胤は直義に属した。しかし、直義が京都を逐われると尊氏のもとに参じ、直義追討軍の一翼を担って鎌倉に攻め下った。そして由比郡・蒲原郡で直義軍を打ち破り、つづく鎌倉攻略にも功を挙げた。

鎌倉公方と幕府の対立

 氏胤は貞治五年(1365)二十九歳の若さで急死、跡を継いだ満胤はわずか九歳の少年であった。そのため将軍足利義詮は下総の情勢不安を心配して御教書を遣わし、千葉一族の重だった者たちに満胤の補佐を命じた。永徳元年(1381)、下野国の小山義政が宇都宮基綱を攻め滅ぼした「小山氏の乱」に際して、満胤は鎌倉公方足利氏満に従って出陣して功をたてた。
 応永六年(1399)公方満兼は「関東八家(八屋形)」を定め、屋形号を免許して関東豪族の掌握をはかり、その支配体制を強化しようとした。千葉氏も、下総の有力武将として関東八家の一に数えられた。満兼の子持氏が関東公方になると、関東管領上杉禅秀と対立するようになった。応永二十三年(1416)禅秀が挙兵すると、持氏は鎌倉から脱出するという事態になった。
 この禅秀の乱に際して満胤は、嫡男兼胤が禅秀の婿であった関係から、禅秀に加担して持氏追放に協力した。乱は禅秀の優勢に推移したが、関東の争乱を重くみた幕府は持氏救援を決定し、駿河守護今川範政を関東に派遣して禅秀に協力した大名の追討に乗りだした。千葉介満胤は小山泰朝・佐竹義憲らの禅秀方諸将とともに相模国足柄方面に出動し、今川範政の率いる幕府軍を迎え撃った。しかし、形勢の不利を感じた満胤は、嫡男兼胤とともに持氏に降伏、持氏もこれを認めて、乱後、所領は安堵された。
 禅秀の乱後、持氏は禅秀に加担した諸将の討伐に乗り出した。そのことは、関東公方の専制体制を推進することにもつながり、鎌倉公方の権力拡大を危惧した幕府は「京都御扶持衆」を組織して公方持氏の行動を監視させた。このような幕府の姿勢に対し、持氏は扶持衆の討伐に狂奔するようになった。当然、それは幕府との対立を引き起こすことになり、管領上杉憲実は持氏を諌め続けた。しかし、逆に親幕府的として持氏から討伐されそうになった。身の危険を感じた憲実は鎌倉を逃れて、みずからの守護領国である上野に帰った。これに対して持氏は憲実討伐の軍を率いて武蔵府中に出陣、それが引き金となって「永享の乱」が起こった。

打ち続く戦乱

 幕府は憲実を支援して援軍を鎌倉に送り、幕府軍に敗れた持氏は自害して鎌倉府は滅亡した。このとき、持氏の遺児たちは鎌倉を逃れて常陸で挙兵、間もなく結城城主結城氏朝に招かれて結城城に立て籠り上杉=幕府軍に抵抗した。これに持氏恩顧の関東諸将が加担したため、籠城軍は二万を数えるに至った。一方、幕府は管領上杉清方を大将に十万の討伐軍をもって結城城を攻め立てた。結局、嘉吉元年(1441)に結城城は落城し、捕らえられた遺児たちは京都に送られる途中で殺害された。
 公方家の滅亡によって、関東では上杉氏の勢力が拡大し、上杉氏の専制を嫌う関東の諸大名は幕府に働きかけて鎌倉府再興を図った。幕府もこれを容れ、唯一残っていた持氏の遺児が赦され、将軍足利義成(のちに義政)の一字を賜って成氏と名乗って鎌倉に入った。
 新公方となった成氏は、父や兄に味方して没落した結城氏らを再興し側近として用い出した。そのような成氏に対して、管領上杉憲忠は反対の姿勢を示した。やがて、上杉氏の被官である長尾景仲・太田道真の両氏が武力蜂起して鎌倉府を攻めたため、公方成氏は江ノ島に逃れるという事態となった。この事態は上杉重方の斡旋で一応の解決をみせたが、成氏の上杉氏に対する反感は決定的なものとなった。そして、享徳三年(1454)成氏は憲忠を謀殺したことで、「享徳の乱」が勃発した。以後、関東諸将は公方方と管領方とに分かれ、各地で戦いが繰り返され関東は泥沼の戦乱状態となった。
 幕府は上杉氏を支援し、駿河守護今川氏、越後守護上杉氏らを動員して成氏を攻撃した。結局、成氏は鎌倉を幕府軍に制圧され、下総古河に奔っり「古河公方」とよばれるようになった。古河公方となったのちも成氏の戦意は旺盛で、乱はやむことなく続き関東は戦国時代へと移行していったのである。この乱に際して、千葉介胤直は幕府=上杉方に加わって古河公方軍と戦った。

千葉宗家の滅亡

家紋  このころ千葉氏内部では、重臣である原胤房と円城寺尚任が対立していて、原は成氏に通じ、円城寺は上杉氏に味方し、双方、胤直を味方に引き入れようとした。結局、胤直は円城寺氏と結んで上杉方に属したのであった。
 このとき、一族の馬加康胤・孝胤父子は足利成氏方に加わり、原胤房と結んで千葉城を襲撃した。千葉胤直・宣胤父子は敗れて千葉城を棄て、胤直は志摩城に、胤宣は多胡城に逃れ、上杉軍の救援を待った。しかし、馬加・原勢は追撃の手をゆるめず、進退窮まった千葉胤直・宣胤父子らは自害した。ここに、千葉氏の嫡流は滅亡、康正元年(1455)のことであった。
 その後、成氏は馬加康胤に千葉氏の家督を継承させ、原胤房を小金城主とした。しかし、一方の上杉氏は、成氏方に対抗する必要から、胤直の弟賢胤の子実胤および自胤を取り立て、市川城において康胤に対抗させた。ここに、千葉氏は二つの流れができたのである。
 幕府軍の攻勢によって鎌倉から逃れて古河に移り「古河公方」となった成氏は、上杉方の長尾氏を破り、上杉一族の庁鼻輪憲信が拠る埼西城を攻略し、市川城に攻め寄せた。市川城の実胤・自胤兄弟は、成氏方の攻撃の前に落城。実胤は武蔵の石浜城に、自胤は武蔵の赤塚城に逃れた。その後、実胤は突然出家、石浜城も自胤が領有することになった。以後、この自胤の系統は武蔵千葉氏と呼ばれる。
 かくして、古河を拠点とした成氏は次第に勢力を拡大していた。一方、幕府は成氏の反乱を鎮圧するため、側近の東常縁に関東下向の御教書を発給し、常縁は浜式部少輔春利を副将として関東に急行した。東氏は千葉六家の一で、美濃国郡上郡篠脇城主となっていた。常縁は歌人としても知られ「東野州」と呼ばれていた。ときの将軍足利義政は文化を愛した将軍で、常縁はその側近として京都に滞在していたようだ。
………
・右:『見聞諸家紋』にみえる千葉介の紋「月星」とある

千葉氏の興亡

 下総国に入った常縁は、原越後守胤房が拠る千田庄に馳せ向かった。原胤房は東氏の攻撃を支えきれず馬加城へ逃走、常縁はこれを追い馬加において原胤房と東常縁は一両日の戦いを展開し、敗れた胤房は千葉亥鼻城へと逃亡した。そして、康正二年(1456)、康胤は上総八幡に追い込まれ敗死した。このような関東の戦乱と一族内紛の中で、千葉氏は次第にその勢力を衰えさせていくことになる。
 康胤の跡を継いだ輔胤は、千葉氏代々の居城である千葉城から佐倉に本拠を移した。一説によれば佐倉移城は次ぎの孝胤の代ともいわれる。一族の内紛によって弱体化した千葉氏は、このころ南房総に勢力を拡大してきた里見氏からの圧迫を受けるようになり、千葉城を離れ古河に近い佐倉に城を移したものと考えられる。
 その後、古河公方成氏は上杉軍の反撃に敗れ、古河城も落ち、下総の千葉孝胤を頼った。孝胤は成氏に手厚い保護を与え、文明四年(1472)結城氏広・那須資持らの助力を受けて古河城を回復することに成功し、成氏を古河城に復帰させた。孝胤のあと千葉介は勝胤、昌胤へと継承された。このころになると、小田原の後北条氏が勢力を拡大し、古河公方家は内紛によって父子が争い、関東は後北条氏を軸として戦国の様相を深めていった。
 永正十四年(1517)、千葉介の重臣原胤隆が拠る小弓城が、足利義明を奉じる上総真里谷城主武田氏に落され、小弓城には義明が入り「小弓御所」と称されるようになった。このころから千葉氏は後北条氏に誼を通じるようになり、天文七年(1538)、小弓御所義明と里見氏の連合軍と北条氏綱が率いる後北条軍とが下総国府台で戦った。このとき千葉介昌胤は後北条方として奮戦し、勝利に貢献した。
 昌胤の嫡子利胤は正室に北条氏康の娘を迎え、後北条氏との関係をさらに深めていった。そして、二人の間に生まれた親胤が利胤の死後に家督を継いだが、その驕慢な性格が家臣に疎んじられ殺害されてしまった。下剋上の風潮は千葉氏も無縁ではなかったのである。親胤が横死したことで、叔父の胤富が家督を継承した。胤富は衆に優れた器量を備えた人物であったようで、弱体化の一途にある千葉氏の勢力回復に努めた。

時代に翻弄される

 話は前後するが、天文六年(1537)、北条氏綱は扇谷上杉氏の本拠地である河越城を攻略し、北条綱成を城代として入れた。このころ、山内上杉氏では憲政が家督を継いで頽勢を挽回しようと努めていた。そして、天文十四年(1545)北条氏綱が没した。これを後北条氏の勢力拡大を阻止する好機と捉えた山内上杉憲政は、扇谷上杉朝定と連合して河越城を奪回する作戦に出た。憲政は駿河の今川義元に依頼して小田原の後方攪乱を図り、さらに古河公方足利晴氏も連合軍に誘って河越に向けて出陣した。しかし、連合軍は後北条方に決定的な打撃を与えることが出来ず、氏康も今川や里見などに備えるため兵力を分散せざるをえず、戦線は膠着しつつあった。
 翌天文十五年、氏康は河越城救援の行動を起こした。氏康は直臣八千騎を率いて小田原を出陣、数に奢る連合軍の油断を誘いながら、上杉方の本陣に乾坤一擲の夜襲をかけた。この戦いで、扇谷上杉朝定は戦死、山内上杉憲政と古河公方晴氏はそれぞれの居城に逃げ帰り、山内家麾下の諸将は次々と後北条方に離反していった。「河越の夜戦」とよばれる戦いで、北条氏康と後北条軍の武名を高からしめるとともに、関東の中世的秩序を根底から覆す契機となる戦いとなった。
 その後、しばらく憲政は平井城に拠って勢力を維持したが、天正二十年(1551)、北条氏康の攻勢に敗れてついに天文二十一年正月、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼り関東から落ちていった。憲政を庇護した景虎は、武田信玄との対立もあってみずから関東に出陣することができず、平子・宇佐美氏らを将として関東に兵を出した。そうして永禄三年(1560)、憲政を擁した景虎は三国峠を越えて関東に出陣したのである。
 ここに、関東の戦国時代は一大転回をみせることになり、以後、関東の諸将は謙信方と後北条方とに分かれて戦いを繰り返すのである。長尾景虎は北条氏康が擁立した古河公方足利義氏を関宿城に攻めたが、その時、千葉冨胤は氏康の要請により援軍を派遣している。以後、胤富は後北条方の一翼を担い、永禄七年、上杉方の太田資正と里見義弘の連合軍と北条氏康が戦った第二次国府台合戦にも出陣して氏康の勝利に貢献した。
 その後、里見氏の臣正木大膳の策謀により、千葉氏譜代の重臣であった土気の酒井伯耆や東金の酒井備中らが寝返り、その案内によって里見勢が下総に攻め入ってくるということもあった。そのときは冨胤が家臣の原氏や円城寺氏を先手として撃退させることができた。しかし、冨胤の奮闘も空しく千葉氏は小田原北条氏と結ぶことによって、なんとか命脈を保てるという状態に陥っていた。さらに重臣である原氏や高城氏などが次々に後北条氏直属の大名になるなどして、千葉宗家の勢力は衰亡の一途をたどっていった。

千葉氏の終焉

 胤富の跡は嫡子邦胤が継いだが、家臣鍬田某によって殺害され、二十九歳の生涯を終えた。千葉介邦胤が亡くなると、北条氏政は千葉氏に七男・北条直重を送り込むことに成功。直重は千葉介重胤を名乗ったが、実質上の大名領主権は後北条氏に握られ、重胤は人質として小田原住まいを強いられた。
 そして、天正十八年(1590)の小田原の役で、重胤をはじめとした千葉一族は後北条氏に加担して小田原し城に籠城、後北条氏の没落とともに、平安期以来の名族千葉氏は没落した。その後、高城氏らが徳川旗本に召し抱えられたが、千葉氏には徳川氏から誘いもなく武家の名門としての千葉氏は終焉を迎えたのである。・2005年07月06日

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●千葉氏の家紋─考察



■参考略系図
 

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