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松田氏
二重直違い*
(秀郷流波多野氏族)
*代表紋として掲載、徳川旗本松田氏も同紋。


 藤原秀郷の後裔波多野氏の一族といわれる。源義朝の重臣だった波多野義通の子義常(義経ともいう)が、足柄上郡松田郷を領して松田右馬允と名乗った。義常は治承四年の石橋山合戦で平氏方の大庭景親に属し、のち頼朝が関東を制圧したのちに自刃した。その子有経は許されて鎌倉御家人となり、一時大庭景義に与えられていた義常の遺領を与えられた。以降、『吾妻鏡』には、右衛門太郎、九郎、小次郎、平三郎、弥三郎常基ら、松田姓の人物が見える。
 戦国時代、室町幕臣とは別に小田原北条氏の重臣だった松田氏がある。幕府奉行松田氏と同じく秀郷流を称しているが、相模大庭氏の一族ともいう。早雲以来の譜代として重用された。

南北朝期の動向

 元弘三年(1333)新田義貞が鎌倉に進撃、その途中にある分倍河原における北条氏との合戦で敗れた。このとき、三浦大田和平六左衛門が松田・河村・土肥・土屋・本間氏らを率いて義貞の軍に加わったことで、新田軍はたちまち優勢となり、北条軍を破り鎌倉に攻め込んだことが『太平記』にみえている。
 その後、相模の松田氏は備前に移ったことが知られる。松田氏の備前移住について、沼田頼輔氏はその年代は不詳としながら、松田元国が守邦親王に奉仕し、備前守護職を命ぜられ伊福郷に入り御野・津高両郡を富山に居城したと『備前における松田』という論文に記されている。一方、松田盛朝が備前に入ったという説もある。
 『岡山市史』に、吉野朝(南北朝)および室町時代の備前国守護職の条に「承久中、相模国の住人松田十郎盛朝・備前国金川の地を賜り此に城を築きて居る」といい、また「建武中、松田十郎元国備前守護職を賜りて備前伊福郷富山に居城するというも、未だ其の実否を詳らかにせず」とある。さらに、『太平記』には「建武二年十一月、官軍ついに戦に負けて備前国に引き退き三石城に楯籠るの処、当国の守護松田十郎盛朝、朝田判官全職・高津入道浄源当国に下着して己に御方に加わるの間、また三石より国中へ引返し、和気の宿に於て合戦を致すの刻、松田十郎敵に属する間、官軍数十人討たれて熊山の城に引き蘢る云々」とある。
 このように、備前における松田氏に関する動向は、「太平記」の記載、その他の文書における諸説とが必ずしも一致していない。とはいえ、後醍醐天皇に叛旗を翻して九州に逃れた足利尊氏が、軍を整えて建武三年(1336)東上したが、そのとき、備前国一宮神社を造営寄進し、守護松田盛朝が寄進状を持参したと『一宮文書』にみえる。また、同年六月、一宮政所宛の松田権守盛朝花押の下知状があるから、盛朝が守護の地位にあったことは間違いない。
 備前守護となった盛朝は「松田系図」にみえる七郎太郎重経の子といい、あるいは、孫二郎胤秀の子ともいうが、その出自は詳らかではない。ただ、正平十年(1355)には赤松則祐が備前守護職となっているから、松田盛朝の守護時代は比較的限られた時期であったようだ。戦国時代、西備前にゆるぎない勢力を誇った松田氏は、備前国守護であった松田氏の一族であろう。

室町期の松田氏

 室町時代、室町幕府に仕えた松田氏が知られ、二階堂・波多野氏とならんで評定衆に列した。また応永年間には政所執事代として活躍した松田氏の存在が知られ、満秀・秀興・数秀らは奉行人の筆頭の公人奉行に任じられた。さらに、応仁・文明の乱以後の数秀・長秀・清秀・晴秀らは政所寄人の筆頭である政所執事代に任じられ、飯尾氏・清氏らとともに幕府奉行人として永禄年間(1558〜1570)に至るまで活動している。
 応仁の乱ののちに記録された『見聞諸家紋』には、奉行松田丹後守秀興「丸に二本松」、松田助太郎頼純「升に唐花」、松田幸松丸「二重直違い」ら幕府官僚であったと思われる松田諸氏の家紋が記されている。しかし、これらの松田氏の系譜関係は必ずしも詳らかではない。南北朝から室町時代にかけては、惣領制が崩壊し庶子・一族が宗家から独立していった時代で、中世における松田氏の系譜が混乱しているのは、相模の本領に残る者、京都の幕府につかえる者、遠く備前に赴く者もいたことを示した結果ともいえよう。
 ちなみに、相模の松田氏に関していえば、後北条氏の『小田原衆所領役帳』に松田左馬助・同因幡・同兵部丞・同助六郎らが記され、松田左馬助の条に祖松田尾張守は備前浦上の一乱により弟康定と相模の左衛門尉を尋ねて下り、早雲・氏綱の二代に仕えて功があったと記されている。また『関侍伝』には松田左衛門について、公方家の忠心で上杉氏の下知のもとに相州西郡においてたびたび戦ったが、早雲の小田原入城とともにそれに従うとあり、その後に頼重・頼秀・数秀・長秀・頼亮・秀致・盛秀・晴秀と記されている。
 松田氏系図は諸本伝わっているが『続史籍集覧』に収録された松田系図をみると、松田成栄に太郎備後守とあり、つぎの頼高は備後次郎、その子直高に備後守備前住と註がしてある。直高の孫頼成は頼重と改めて関東に移住とあり、その他の一族は備前に残ったことが系図からうかがわれる。そして、頼成の子が頼秀である。

小田原北条氏の重臣

 先述の『小田原衆所領役帳』には多くの松田氏が記されているが、その筆頭は松田左馬助で「二千七九十百九十八貫である。これは、北条氏綱の弟北条幻庵の五千四百十二貫に次ぐ第二位の数字であった。左馬助は系図上では頼秀の子顕秀とみて間違いない。顕秀は尾張守も称し、弟には康定がいた。備前浦上の一乱で左衛門尉を尋ねて下ってきたのは顕秀と思われるが、一代で家中第二位の知行を得るということは考えられない。おそらく、備前の乱において、関東に下ったのは祖父の頼成であり、草創期の北条氏に仕えた父祖によって松田氏の地位は確立されたとみるべきであろう。
 憲秀の代になると後北条氏の三家老衆の一人として家中に重きをなし、文書発給の際に印章を使用したものがある。文書に印章をもちいたのは、後北条氏家臣のなかでは松田氏が唯一である。文書に判をおすのは東国の戦国大名の一特長でもあり、松田氏が戦国大名に準ずる立場にあったことを示したものでもある。
 憲秀の長男は政堯で笠原氏を継ぎ、松田氏の家督は二男の直秀(秀治・直憲)が継いだ。政堯が継いだ笠原氏は松田氏に比べればはるかに小身の家であった。さらに、弟直秀が北条氏直に寵愛されているのに対し、政堯は武田方との戦いに敗れて一度は後北条氏を見限って武田氏に味方して後北条氏を攻撃したこともあった。天正十年(1582)、武田氏が滅亡すると父憲秀の懇願によって出家することで氏政・氏直父子の許された。この、政堯が小田原の役に際して豊臣軍への内通を画策したのである。
 天正十八年(1590)、豊臣秀吉は小田原北条氏攻めの軍を発した。このとき、小田原城中の評定において憲秀は「小田原城は上杉謙信、武田信玄の攻撃にも屈することはなかった」として、籠城策を氏直に献言している。秀吉は武力を行使するとともに後北条氏家中に調略の手を伸ばした。政堯にも働きかけがあり、政堯は父憲秀と協同して豊臣氏と後北条氏の和平の橋渡しを目論んだのである。このことは、松田憲秀と笠原政堯の「裏切り」とされるが、戦国時代には武力と調略とは裏表の関係にあった。しかし、憲秀はともかく、政堯は後北条氏に含むところがあったものと思われ、結果として二人の行為は豊臣方への内通=裏切りと呼ばれてもしかたのないものでもあった。
 一説に、豊臣方の堀秀政の誘引を受け、伊豆・相模両国の知行を条件に豊臣方に内応しようとしたともいわれる。これに対して直秀は、父憲秀・兄政堯の豊臣方内応を阻止しようとして氏直に訴え、憲秀は氏直に捕えられている。

その後の松田氏

 七月、豊臣秀吉軍の圧倒的な物量作戦の前に後北条氏は屈服し、小田原城を開城した。北条氏降伏後、憲秀は秀吉の命によって切腹し、直秀はは氏直に随従して高野山に入った。しかし、その後間もなく氏直が死去すると、加賀前田氏に仕えた。
 一方、康定を祖とする松田氏は、小田原の役に際して康定の子康長は山中城の城主として豊臣軍を迎え撃ち、奮戦したが衆寡敵せず討死した。その子直長は徳川家康に召し出され、知行四百余石を領して子孫は徳川幕臣として続いた。

参考資料:神奈川県史概略-上/まつだの歴史 ほか】

●丹後松田氏 ●備前松田氏

●河村氏の家紋─考察




■参考略系図
・諸系図を併せて作成、小田原松田氏の系譜は不明点が多い  






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