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葛山氏
庵の内舞鶴*/丸に違い鷹の羽
(藤原北家伊周流)
*『見聞諸家紋』に「庵の内一つ舞鶴」。 『長倉追罰記』に「庵のうちの二頭の まひ鶴は 天智天皇の後胤葛山備中守」 また、『藤原姓葛山御宿系図』には 「庵の内舞鶴」「二頭巴」とある。


 葛山氏は藤原惟康の孫親家が大森に住んで大森氏となり、子惟兼が葛山に住んで葛山氏となった。
 『吾妻鏡』に葛山太郎とか葛山次郎とみえ、惟兼−惟忠−惟重のころ、源頼朝の時代にあたり、家伝によれば、源頼朝に従って石橋山の合戦に参加して、軍忠を尽くして恩賞を与えられた。そして鎌倉幕府御家人として駿河国駿東郡に勢力を伸ばしていったのである。

幕府奉公衆に列す

 室町期の永亨六年(1434)、足利五代将軍義教に初めての男子が誕生した。このとき、葛山駿河守はお祝を贈ったことが知られる。駿河守が将軍に直接お祝を贈ったのは、同氏が駿河守護今川氏の家臣ではなく、「奉公衆」という将軍の直臣だったからである。奉公衆は平時でも戦時でも、交代で将軍のそば近くに仕えることを任務とし、そのために番を組んだので、番ごとに名を記した「御番帳」と呼ばれる帳面が残されている。番は一番から五番まであり、そこに名を連ねる奉公衆の数は三百人余りである。「文安年中御番帳」に葛山氏は、四番の「在国衆」に出ている。その後も、「葛山兵庫助」「葛山源次六」の名が見え、葛山氏が代々奉公衆になっていたことがうかがわれる。
 ところで、葛山氏の諸本伝わる系図には駿河守・兵庫助・源次六を名乗った人物は登場しない。駿河守は葛山氏の嫡流の家筋の人物と考えられるから、同時代の人物を系図に求めるとすれば、「藤原姓葛山御宿系図」では俊綱にあたるであるか。同系図では丹後守を名乗っている。同人は、葛山惟遠の妹と佐々木四郎との間に生まれて惟遠の養子となり葛山氏を継いだとされ、将軍家に仕え、寛正二年(1461)に六十二歳で亡くなったという。
 俊綱のあと、惟方-春吉-惟長と続きいずれも備中守を名乗った。そして、惟長の跡を武田信玄の子信貞が継ぎ、信貞が葛山氏嫡流最後の人となった。しかし、葛山氏の最後の人である信貞は、葛山氏元の養子となったものであり、氏元の父は氏広であったことは確実とされ、系図の記述は事実と異なっている。
 とはいえ、系図に記される俊綱のあたりから葛山氏が奉公衆となった可能性は高い。そして、惟方のころに、守護今川氏との関係を強めてきているのである。そもそも幕府が奉公衆を編成した目的のひとつは、各国の支配を任せた守護が、国内の武士を家臣として強大になることを防止することにあった。葛山氏をはじめとする奉公衆になった武士が、守護と同じく将軍の家臣であるというプライドと独立心をもっていた。戦に出陣するときは、将軍から直接に出陣命令をうけた上で、守護の軍事指揮下に入っていた。

戦国乱世を生きる

 しかし、守護が実際にさまざまな目的や名目で軍勢を指揮する機会が増え、逆に将軍の力が弱まってくるようになると、守護はしだいに国内の奉公衆に対する支配を強めてくるようになる。たとえば、応仁元年(1467)に始まった応仁の乱に際して、葛山氏は上洛する守護今川氏の軍勢の後陣に配置されていた。一方、奉公衆の方でも将軍の権威に頼るだけでは所領や地位を守ったり、勢力をのばしたりできなくなる。そうして、守護からの独立姓を維持しつつ、守護との結び付きを深めて新たな発展の道を模索せざるを得なくなった。これが、室町中期から戦国初期における武士の状況であった。
 文明十一年(1479)、応仁の乱で焼失した京都清水寺を再建するための勧進が始まった。それに応じて寄付をした人々のなかに。将軍夫人の日野富子らとならんで「駿河国葛山氏広」がみえている。この氏広は奉公衆とみられ、そのころ上京していたようである。  さて以上のような葛山氏であったが、戦国期の領主として国人領主制を展開するのは氏時のころからである。氏時は伊勢新九郎(北条早雲)の二男といわれ、維貞の養子となって葛山備中守氏時を名乗ったといわれている。
 次の氏広(さきの氏広と同一人物か)との間に氏尭がかぞえられる場合のあるが、氏時が養子になって氏尭と名乗ったのか、子に氏尭があり氏広と続いたのかは明かではない。氏広の官途名は中務大輔で、『冷泉為和和歌集』によると、天文二年八月に駿府の葛山邸で歌会が催されており、すでに戦国大名今川氏の重臣の一人に組み込まれていたことがわかる。
 氏広の子が氏元と推定され、この氏元時代に葛山氏は全盛時代を迎え、駿東郡からさらに富士七郡の一部にまで支配の範囲を広げている。また氏元の支配下の佐野郷で天文二十一年(1552)に検地が行われている。

葛山氏の終焉

 今川氏の没落にともなって葛山氏も衰退し、永禄十二年(1569)二月から六月にかけて三通の知行宛状を出しているのを最後に、その動きはつかめなくなる。とはいえ同年、氏元は武田方の穴山信君と北条方の富士兵部少輔信忠の守る大宮城を攻撃し、橋本源左衛門尉の軍功に対し三十貫文を与えていることが知られる。その後、氏元は北条に通じているとの疑いを受け殺された。当時、氏元の娘二人は信州に人質としておかれていて、長女の「葛山姓を残したい」との思いに感じた武田信玄は、六男を養子として葛山姓を名乗らせた。これが信貞である。信貞は今川義元の命で尾州笠寺城を守り、永禄三年義元とともに戦死したと伝える。
 ところが、「武田源氏一流系図」によれば、武田氏の一族油川信恵の子油川信貞が、維康の養子として入ったとも、氏元の娘の一人が嫁いだとも見られる記述が残されている。葛山氏の戦国末期の歴史に関しては、さまざまに伝わるところがあり、そのいずれが真実を伝えているかはいまとなっては分からないというのが実状だ。


■参考略系図
・戦国期の葛山氏は武田・北条氏から養子が入り、繁雑である。「藤原姓葛山御宿系図」「武田源氏一流系図」から作成。

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