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藤田氏
●上り藤/三つ銭
●武蔵七党小野姓猪股党
藤田氏の幕紋は、『関東幕注文』に「ふたのかかりの五つき 地くろ」と記録されているが、その実形は不明である。一方、『管窺武鑑』には、藤田氏の家紋は「五つ目或は上リ藤の丸」とあり、ここでは「藤の丸」を掲載した。  


 藤田氏は武蔵七党の猪股党の出で、猪俣野兵衛尉時範の子政行が武蔵国榛沢郡藤田郷に拠って藤田を称したことに始まる。
 武蔵七党は、武蔵国に本拠をおいた同族的武士団の総称で、坂東八平氏と称される平氏の一門とともに坂東武者と称され、弓馬に通じて武蔵・相模二州の兵は、天下の兵に匹敵すると賞賛された。 七党の数え方は一定しないが、野与党・村山党・横山党・児玉党・西党・丹党・私市党などが挙げられる。猪股党は横山党と同族で、小野篁の後裔で武蔵守として下向土着した小野孝泰の孫時範が児玉郡猪俣に居住したことに始まる。
 猪俣党は児玉郡、大里郡、比企郡に広まり、猪俣氏をはじめ藤田・男衾・甘糟・荏原・岡部・横瀬の諸氏が分かれでた。

藤田氏の歴史への登場

 藤田氏の祖藤田五郎政行は、源義朝に従って保元の乱に出陣して活躍している。その後の平治の乱において源義朝が戦死すると、源氏の勢力は後退し、畠山・河越ら武蔵武士は平家に従うようになった。武蔵七党の武士たちも、それにならったものと思われる。
 治承四年(1180)、伊豆に流されていた源頼朝が石橋山で挙兵したとき、多くの東国武士は平家方にあった。石橋山の合戦に敗れた頼朝は房総へ逃れ、千葉氏らの支援をえると武蔵に進出し、豊島・葛西氏らが頼朝のもとに馳せ参じ、敵対した畠山氏らも頼朝に従った。かくして、鎌倉に入った頼朝は、麾下に参じた東国の武士に対して所領安堵を行い、その政治基盤を固めることに成功した。
 東国を平定した頼朝は平氏との戦いを展開、東国の武士らは源平合戦に出陣した。政行の嫡男三郎行康も源氏方として活躍、元暦元年(1184)の一の谷生田森の合戦で先陣をはたし戦死した。頼朝は行康の功を賞し、嫡男の能国に遺跡を安堵している。文治元年(1185)、平家を壇の浦に滅ぼした頼朝は、幕府創設の基礎を固め、建久三年(1192)征夷大将軍に任じられて鎌倉幕府を開いた。
 藤田能国は御家人となり、建久六年に行われた頼朝による東大寺再建供養に随兵として加わった。ついで、承久三年(1221)に起った承久の乱には、子の能兼らとともに北条泰時に従って上洛して活躍した。『吾妻鏡』をみると宇治橋合戦における手負の人々に藤田新兵衛尉、ついで敵を討った者に藤田兵衛尉らの名がみえている。一方、この承久の乱において能国は、並み居る東国武士の中から文博士として召し出されて院宣を読み上げ、東国には稀な教養ある武士として後世に伝えられた。
 藤田氏は武技はもとより文事にも通じていたことから、幕府問注所の寄人に召されて幕政にも参加、建治三年(1277)、問注所の寄人に召し出された藤田左衛門尉行盛は奉行人として活躍した。延慶二年(1309)、比叡山延暦寺が強訴に及んだとき、行盛は二階堂・太田氏らとともに防戦につとめた。このとき、子息行連は落馬して死去したという。一方、浄土宗藤田派を起した藤田性心は藤田民部丞利貞の子であった。性心について出家した良心は藤田刑部行重の子で、性心のあとを継いで藤田派隆盛の基礎を築いた人物として有名である。

武蔵の一隅に勢力を維持

 鎌倉時代の中ごろになると、幕府草創の功臣であった梶原・比企・畠山・和田・三浦氏らは北条氏との政治抗争のなかですでに没落し、北条氏専制による執権政治が行われるようになった。この時代の変革のなかで、武蔵七党の武士たちは北条氏の被官になるなどして勢力を維持しえたようだ。やがて、十四世紀になると北条氏の政治に弛緩が見えるようになり、また惣領制による相続から武士たちの窮乏が目立つようになった。幕府は徳政令を発して御家人の窮乏に対処したが、にわかに世の中は騒がしくなってきた。
 元弘元年(1331)、後醍醐天皇による元弘の変が起り、その後の動乱によって鎌倉幕府は倒れ北条氏も滅亡した。元弘三年のことで、後醍醐天皇親政による建武の新政が開始された。その間、藤田氏がどのように行動したのか、その動向は明確ではない。
 建武二年(1335)、北条高時の遺児時行を擁した北条残党による中先代の乱が起ると、足利尊氏が乱討伐のために東国に下った。乱を征圧した尊氏は天皇の召還命令を無視して鎌倉に居坐り、ついには新政に反旗を翻した。天皇は新田義貞を大将とする尊氏討伐軍を下した。足利尊氏は新田義貞率いる官軍を箱根竹の下で迎え撃ち、これを撃破すると敗走する官軍を追って上洛した。このとき、藤田六郎左衛門、三郎左衛門、四郎左衛門らが新田義貞に従っていたが、尊氏方に属した者もいたようで藤田一族は二派に分かれたようだ。これは、当時の武士団の一般的な傾向で、その背景には惣領制の崩壊がもたらした嫡庶の対立があり藤田氏もその例外ではなかったのである。
 その後、京都を脱出した後醍醐天皇は吉野に朝廷を開き、足利尊氏は北朝を立てて幕府を開いた。関東には幕府の出先機関ともいうべき鎌倉府が置かれ、半世紀にわたって南北朝の動乱時代が繰り返されることになった。やがて、尊氏と弟直義の対立から観応の擾乱が起り、幕府も二つに分裂してしまった。以後、複雑怪奇な時代情勢が展開し、擾乱は尊氏の勝利に終わった。尊氏は直義色の強い関東の政治安定に意を注ぎ、基氏を関東公方として置くと都に帰還していった。かくして、関東は鎌倉府のもとに安定するかと思われたが、反尊氏方の勢力が強く、関東公方足利基氏は執事として旧直義派であった上杉憲顕を登用した。これに不満を持ったのが河越氏を中心とする平一揆で、貞治七年(1368)、ついに乱を起した。
 上杉憲顕は関東公方氏満を擁して一揆を鎮圧、武蔵に大きな勢力を持っていた河越氏は没落し、代わって上杉氏が武蔵を掌握した。藤田越中入道覚能(能員か)は、平一揆において上杉方として活躍したようで、比企郡の内に勲功の賞を与えられている。
 南北朝の争乱期に藤田氏がどのように行動したかは史料が少なく、必ずしも明確ではないが上杉方として行動したものと思われる。『木曽大石氏系図』をみると、藤田小三郎義行が娘を大石信重に嫁がせたことが知られる。大石氏は武蔵多摩郡を本拠とする武士で、信重は山内上杉氏に仕えて武蔵目代に任じられた重臣であった。藤田氏が大石氏と縁組みをもったことは、藤田氏が相応の勢力をもつ在地領主であったことをうかがわせるものである。
 明徳三年(1392)、南北朝の合一がなり、半世紀にわった内乱に終止符が打たれた。しかし、十五世紀になると、鎌倉府を震源地とする争乱が連続してい勃発するのである。

関東の大乱

 応永二十三年(1416)、前関東管領上杉禅秀が関東公方足利持氏に反乱を起した。禅秀の乱で、上野・武蔵の武士の多くが禅秀に味方し、藤田氏一族と思われる藤田修理亮も禅秀方に属して所領を没収されている。乱は公方持氏方の勝利に終わり、持氏は禅秀に加担した武士たちを討伐したため、関東は争乱が続いた。持氏の行動に危惧を抱いた幕府は京都扶持衆をもうけて持氏に対抗させたが、持氏は扶持衆をも征伐したため、ついに事態は鎌倉府と幕府の対立へと推移していった。
 管領上杉憲実は幕府と持氏の間にたって、ことあるごとに持氏に諌言を呈していたが、かえって持氏から幕府寄りとして忌避されるようになった。そして、永享十年(1438)、持氏が憲実追討の軍を出したことで永享の乱が起った。幕府は上杉氏を支援して今川・小笠原氏らを出兵させ、敗れた持氏は自害を命じられて鎌倉府は滅亡した。このとき、鎌倉を脱出した持氏の子春王・安王らは、永享十二年、下総の結城氏朝に擁されて兵を挙げた。幕府は討伐軍を送り、翌嘉吉元年(1441)、結城城は落ち春王・安王らは討たれて、一連の関東の争乱は終熄した。
 この争乱のなかの永享六年、藤田宗員は藤田郷内の聖天堂を興隆したことが知られる。宗員の死後、藤田氏は衰退を余儀なくされたようで、未亡人岩田氏は所領を鎌倉円覚寺に寄進している。おそらく、女手では争乱のなかで所領を維持するのは困難であり、円覚寺の権威を頼ろうとしたようだ。しかし、社寺の権威はすでに昔日の勢いはなく、岩田氏の思惑はかなわなかったものと思われる。
 さて、持氏が滅亡したあと、管領上杉氏が関東の政治にあたったが、関東の武士たちは鎌倉府の再興を願った。一方、都では将軍義教が嘉吉の乱で殺害されたことで、幕府は混乱を続け、ついに持氏の遺児成氏が赦されて関東公方に就任し鎌倉府が再興された。ところが、成氏は父の味方して没落した結城氏、里見氏らを側近に取り立てたため、それに反対する管領上杉憲忠と対立するようになった。つには、合戦沙汰となり、享徳三年(1454)、成氏が憲忠を殺害したことで享徳の乱となった。以後、関東一円は成氏方と上杉方との戦いが繰り返され、時代は戦国乱世へと推移していったのである。
 情勢は成氏の優勢に展開したが、幕府の介入によって鎌倉を失った成氏は下総古河に奔って上杉=幕府方と対峙を続けた。この争乱のなかで藤田氏は山内上杉氏に属し、長尾景春の乱にも山内上杉方として行動した。

戦国時代への序奏

 享徳の乱は越後守護上杉房定の奔走で「都鄙の合体」とよばれる和議がなり、さしもの関東大乱も一応の終熄をみせた。ところが、今度は山内上杉氏と扇谷上杉氏とが不和となり、扇谷上杉氏の執事太田道灌の死をきっかけに武力抗争へと発展した。いわゆる長享の乱で、長享二年(1488)、山内上杉顕定と扇谷上杉定正は武蔵国須賀原・高見原で戦った。藤田三郎は山内上杉氏に味方して出陣、定正に味方する長尾景春と戦い散々な敗北を喫した。
 両上杉氏の乱は戦巧者の定正によって顕定は何度も敗戦を被ったが、管領職の地位にある山内上杉氏の勢力は揺らぐことはなかった。そして、戦いのさなかの明応三年(1494)、定正は高見原の陣で急死してしまった。定正の死後、扇谷氏を継いだ朝良は定正には及ばない人物で、永正元年(1504)、駿河の今川氏親、新興の伊勢宗端(北条早雲)と結んで顕定と対決した。戦いは立河原で行われ、扇谷上杉方の敗北となった。この戦いをきっかけに両上杉氏の和睦が成立し、二十余年にわたった内乱は一応の終結を見た。
 両上杉氏の乱のなかで伊勢宗端が勢力を大きく伸張し、山内上杉氏の所領がある越後では長尾為景が守護上杉房能を討って政権を掌握していた。永正六年、顕定は越後の支配を回復するため、武蔵・上野の兵を率いて越後に攻め入った。一旦、為景を逐い越後を支配下においたが、翌七年、為景の反撃に敗れて戦死した。
 顕定の死を知った北条早雲は、武蔵進出の好機として、扇谷上杉朝良の家臣上田政盛を寝返らせて権現山で挙兵させた。この事態に朝良は反目していた山内上杉憲房と手を結び、ただちに出撃すると権現山城を攻略した。上杉方の権現山攻めに際して、藤田虎寿丸(重頼)は忍城主成田親泰らとともに寄せ手に参陣し戦功をたてた。権現山の戦いに敗れたとはいえ北条早雲は挫けることなく、相模から武蔵への進出を企図し、扇谷上杉氏の重臣である三浦氏の攻略を続けた。一方、早雲の武蔵進出の野望を砕いた上杉氏であったが、以後、北条氏の攻勢に苦慮することになる。
 大永四年(1524)、北条氏綱の攻撃で扇谷上杉朝興は江戸城を失い、被官の毛呂・岡本氏らが氏綱に降った。山内上杉憲房は、毛呂氏の要害を攻撃したが、援軍に出てきた氏綱と憲房の家宰長尾憲長と藤田右衛門佐(康邦)の間で和睦が成立し、憲房は毛呂要害に入った。他方、天文初年ごろ(1531)、藤田一族と思われる藤田右金吾業繁が「郡主」を称し、藤田小三郎が「鉢形」にあったことが知られるが、それぞれ系図上の位置付けは不明である。これらのことから、藤田氏が上杉氏の家宰長尾氏と並ぶ勢力を持つ存在であったこと、藤田一族が武蔵北方に割拠していたことがうかがえる。

時代の転変

 江戸城を掌握した北条氏綱は武蔵攻略を着々と進め、天文六年(1537)には河越城を奪い武蔵をほぼ掌中におさめた。翌年には、小弓公方足利義明と里見義堯らの連合軍と下総国国府台で戦い、義明を討ち取る勝利をえた。これによって、北条氏綱の武名は関東一円に鳴り響いたのである。
 北条氏の勢力が武蔵を覆うようになると、山内上杉憲政は北条氏との対立姿勢を明確にした。天文十四年、憲政は扇谷上杉朝定と連合し、古河公方晴氏を抱き込み、さらに駿河の今川義元と結んで河越城奪還を企図して出陣した。その勢は五万とも八万ともいわれる大軍であった。河越城の籠城兵は三千余という寡勢であったが、守将北条綱成はよく連合軍の攻撃を防戦した。この危機に対して氏康は甲斐の武田信玄の仲介によって今川義元と和睦すると、ただちに八千の精兵を率いて出陣した。しかし、連合軍との兵力は隔絶しており、一計を案じた氏康は弱気をみせるなど連合軍の油断を誘う策を施した。  翌十五年、ころあいよしとみた氏康は守将北条綱成と連絡を取ると、油断しきった連合軍に夜襲をかけた。なめきっていた氏康の攻撃に、連合軍はなすところなく大敗を喫し、扇谷上杉朝定は戦死、憲政、晴氏らはそれぞれの居城に逃げ帰った。この一戦は河越の合戦(夜戦)と呼ばれ、上杉・公方の大軍を撃破した北条氏康は関東の太守と呼ばれる存在に躍り出た。ここに、関東の政治地図は大きく塗り替えられたのである。
 河越の合戦に藤田右衛門佐は上杉氏に属して出陣していたが、命からがら居城に逃げ帰ったようだ。以後、藤田氏は北条氏の脅威にさらされることになる。そして、定説によれば藤田右衛門佐康邦は大石定久とともに氏康に降り、氏康の子氏邦を娘(大福御前)の婿に迎え家督を譲った。隠居した康邦は、天神山城を出て用土城に移り、名も用土新左衛門に改めたという。
 当時、藤田氏は天神山城を拠点として、その所領は大里・榛沢・男衾・秩父・那珂・児玉・賀美に及ぶ広範なものであった。藤田氏を継いだ氏邦は藤田重氏を名乗り、その後、天神山城から鉢形城に移り藤田氏領を支配した。氏邦の所領はのちに鉢形領と称され、氏邦は北方の上野方面にも進出し、その領国は北方に拡大していったのである。

上杉謙信の越山

 河越合戦に敗れたのちの上杉憲政は平井城に拠って、なお勢力を維持していた。ところが、頽勢挽回を図る憲政は、重臣長野氏らの反対を押し切って信濃に進攻したが、武田信玄に敗れてみずから自滅の道を歩んでいた。天文二十年、北条氏康に平井城を攻撃された憲政は、ついに越後の長尾景虎を頼って関東から脱出した。
 憲政を庇護した長尾景虎は、天文二十一年(1552)、平子孫太郎、庄田定賢らを上野に出兵させた。翌天文二十二年、初上洛した景虎は、後奈良天皇に拝謁して戦乱鎮定の綸旨を頂戴した。ついで、永禄二年(1559)に上洛した景虎は将軍足利義輝に謁見し、義輝から憲政の進退を依頼され関東出兵の大義名分をえた。帰国した景虎を憲政は養子とし、上杉の名字、伝来の系図、宝物、関東管領職を譲った。かくして、翌永禄三年八月、景虎は憲政を擁してみずから関東に出陣したのである。
 翌永禄四年、景虎は帰属した北関東の諸将を従えて小田原城を攻撃し、ついで鎌倉の鶴岡八幡宮において関東管領職就任式を行い、憲政から一字を貰って上杉政虎(のち輝虎、謙信)を名乗った。以後、謙信は天正六年(1578)に死去するまで、十数回にわたって越山を続け、関東の秩序回復を目指して北条氏との戦いを繰り返した。
 ところで、関東にはじめて出兵した長尾景虎は麾下に属した関東諸将の幕紋を把握するため、『関東幕注文』を作成した。そのなかに、藤田氏が一族の飯塚・桜沢氏らとともに収録され、その幕紋は「ふたのかゝりの五つき 地黒」と記されている。当時、藤田氏が「五つき」を紋としていたことが知られるが、どのような意匠であったのかは不明である。こうして、長尾景虎の関東出陣に際して、藤田氏は景虎のもとに馳せ参じたが、一族のなかには北条氏に属した者もおり、藤田氏は二つに分裂していた。
 北条氏邦を婿養子に迎えて家督を譲ったあと、康邦には重連と信吉の二人の男子が生まれたことが系図から知られる。そして、重連は康邦のあとを受けて用土新左衛門を名乗った。重連は氏邦に属して高松衆、秩父衆をまとめる任にあたり、永禄六年、小田原の北条本家から旧領三ケ所を安堵された。しかし、北条氏邦の支配が確立されるに連れ、用土新左衛門の存在は邪魔なものとなっていった。

時代に翻弄される

 天正六年、北条氏邦は謙信死後の上杉氏の内訌「御館の乱」に乗じて沼田城を入手した。ところが、小田原の氏政と氏直は用土新左衛門重連を沼田城代に任じた。これがきっかけとなって、氏邦は沼田城において重連を毒殺した。重連死去の真相を知らなかった氏政は、後任の沼田城代に重連の弟信吉を任じた。これに怒った氏邦は、氏政に対して信吉のことを讒言して沼田城を手に入れようとした。一方、兄重連の死の真相を知った信吉は、みずからの将来に不安を感じ、真田昌幸の誘いに乗って武田勝頼に通じ沼田城を手渡してしまった。そして、改めて勝頼より沼田領を安堵され能登守と称した。
 かくして武田勝頼に仕えた信吉であったが、天正十年(1582)織田信長の甲斐侵攻で武田氏が滅亡、沼田領は信長家臣で新たに関東管領となった滝川一益に与えられることになった。これに反発した信吉は、一益に攻められ、越後に奔って上杉景勝に仕えるようになった。景勝に迎えられた信吉は、新発田攻め、佐渡平定に活躍し、信吉の一党は武蔵衆と呼ばれ二千八百石を知行した。
 天正十八年、豊臣秀吉の小田原城攻撃に際して、上杉軍の先鋒として働き上州国峯城を落とす功をあげた。小田原の陣において鉢形城主北条氏邦は、上杉景勝・前田利家軍八万を迎え撃ち、一ヶ月に渡って防戦につとめたが、城兵の命と引き換えに氏邦は鉢形城を開城した。このとき、信吉は、氏邦夫妻の助命運動を行い、一命を助けられた氏邦は、前田利家に預けられ、慶長二年(1597)金沢で死去した。
 その後、文禄元年(1592)の朝鮮出兵時には景勝に従って渡海、蒲生氏郷没後に上杉景勝が会津に移封されるとそれに従い、津川城の城代を任せられ知行一万一千石を与えられた。ところが、秀吉死後の豊臣政権において徳川家康との対抗姿勢を深める上杉家中にあって、信吉は景勝に家康との宥和を諫言した。しかし、結果として強硬派の直江兼続と対立、ついには上杉家を出奔して家康のもとに奔り、景勝が軍備の増強などをしていることを讒言、家康による上杉征伐のきっかけをつくった。

藤田氏の最期

 こうして事態は関ヶ原の合戦へと動き、戦いは家康の勝利に帰し、上杉家は米沢三十万石に減封処分を受けた。出奔後、剃髪して源心と号して京都大徳寺に蟄居していた信吉は家康に取り立てられて、下野那須郡一万五千石に封ぜられ名を重信と改めた。この一連の動きから、藤田信吉は向背が定まらない武将という印象を後世に残すことになった。
 信吉は大坂の陣に出陣、慶長二十年(1615)の夏の陣で榊原康勝軍の軍監を務めたが、軍を抑制して戦闘に参加させなかったとして改易、翌年、戦傷がもとで信濃奈良井で没したという。一説には、大坂の陣戦功評議の場での失言を咎められた結果ともいい、近年では自殺説が有力となっている。いずれにしろ、信吉の死によって藤田氏は滅亡の運命となった。・2006年1月31日



●藤田氏の家紋について

 上杉謙信が作成したという『関東幕注文』に、藤田氏の幕紋は「ふたのかかりの五つき 地くろ」と記録されているが、その実形は不明である。一方、『管窺武鑑』には、藤田氏の家紋は「五つ目或は上リ藤の丸」とみえている。
 藤田氏の家譜序によれば、「藤田氏世世絲貫三連銭為器服識、世所謂家紋是也」とあり、初めは十六葉菊であったが皇室をはばかり「三連銭」に改めたと記されている。また、相模守のとき、敏達天皇陵に詣で祈ったところ、夢に金銭三つを賜った。これにより、朱絲で貫き結んで家紋に定めたともいう。いずれが、真を伝えているのかは、いまとなってはよく分からない。戦国時代に藤田氏が用いた家紋は、どのような意匠であったのだろうか。
・家紋:五つ目(目結) /三つ銭紋
………
【管窺武鑑(かんきぶかん)】
管窺武鑑は、全巻を上中下の三巻とし、更に、各巻を上之上、中之中、 下之下と分巻し、計九巻として、各巻の下に合諺集と記しています。 (一名上杉記、謙信記とも云) 

参考資料:寄居町史/花園町史/武蔵武士 ほか】

■参考略系図
 


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