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石巻氏
丸に蔦/丸に三つ蔦
(藤原為憲後裔)


 戦国大名小田原北条氏の麾下には多くの石巻姓がみられる。石巻氏は三河国八名郡石巻郷が名字の地とされる。石巻家貞は北条氏綱に仕えて、虎朱印状の奉行として遠山直景とならんで登場している。彼等が、小田原城初期の内務管理を取り仕切っていたことは間違いない。

石巻氏の登場

 家貞の初見は、大永七年(1527)十月の氏綱書状に「いしまき」と見え、房総にいる要山法関への使者を務めている。次いで、亨禄三年と推定される『幼童抄』の奥書で、家貞が連歌の入門書として連歌師宗長に懇願して『幼童抄』を書いてもらったものである。
 ついで年未詳四月の大道寺盛昌書状に「御奏者ハ石巻殿・笠原越前殿両人にて」とあって、小田原城の重臣笠原信為とともに出ている。この文書の年代推定は困難だが、長い書状で早雲に仕えた初期北条家の家臣が相当数出てくる。大道寺盛昌・笠原綱信・伊東祐遠・石巻家貞・笠原信為・富永政辰・遠山綱景・鈴木入道など、早雲からの重臣たちが顔を揃えている。
 さきの面々は氏綱の重臣でもあり、経験豊富な実務者として活躍している。家貞は天文三年(1534)二月には、鶴岡八幡宮の造営奉行の一人になり、同年九月の伊豆狩野荘櫟山村の天神宮の造営棟札には「当地頭 石巻殿、代官上野孫左衛門」と記されている。永禄二年(1559)の『北条氏所領役帳』には、家貞の所領として、西郡飯田・中郡土屋五分の一・小机多々久などで三百一貫文がみえ、櫟山の地が家貞の本貫地であった。
 天文十五年(1546)五月の書状には「石巻下野守家貞(花押)」とあり、これ以前に下野守の受領名を拝領したようだ。家貞は西郡郡代の要職にあって、評定衆間で務めた北条家の重鎮であった。永禄十一年(1568)六月まで評定衆として文書に見えており、早雲から氏綱・氏康・氏政の四代に仕えた宿老であったことがわかる。永禄十二年六月の北条家裁許朱印状からは、家貞のかわりに嫡男康保が評定衆として登場することから、このころ家貞は隠居し、ほどなく死亡したものと思われる。
 それにしても、大永七年(1527)から永禄十二年(1569)までの四十二年間、小田原城で北条氏重臣として働いた石巻家貞こそ、まさに戦国大名が求めた内務官僚の代表的人物であったといえよう。

戦国時代の終焉

 家貞の後を継いだ下野守康保は天正七年ころに死去し、弟の康敬が跡を継いだ。康敬は、通称彦六郎、のち左馬允、次いで兄と同じく下野守を名乗った。康敬は天正十七年十二月、豊臣秀吉のもとに上野国名胡桃城乗っ取りの弁明に遣わされたが、途中の沼津三枚橋城に抑留されたことが、その時の書状から分かる。  康敬は、天正十八年小田原北条氏の没落ののち、関東に入国した徳川家康に預けられ、鎌倉郡中田村で蟄居していた。のち同地に知行を与えられ、旗本に列し、知行地は幕末まで子孫が伝えた。
 石巻氏のなかで異色の人物として天用院がいた。天用院は康保・康敬の弟にあたり、永禄十二年(1569)氏康の使者として、上杉氏と北条氏の和睦の交渉に活躍した。永禄十一年、武田信玄は突如駿河に侵略し、今川氏真を攻撃した。この侵略により、天文二十三年(1554)より続いていた甲相駿の和融体制は崩壊した。氏康・氏政父子は、信玄に背後から圧力を加えるため越後の上杉輝虎と和融し、同盟する対外政策を打ち出し、輝虎との同盟交渉を開始した。
 天用院の活躍が始まるのはこの頃からである。当初輝虎は氏康・氏政の同盟申し入れに対し、その真意を疑っていた。そのころ輝虎が里見義弘に送った書状のなかで、「氏政表裏の仁に候」と疑意を表わしている。  しかし、越相同盟を求める北条氏の交渉は、その後も間断なく続けられ、ついに輝虎は和融交渉に同意した。その後具体的条件の折衝が進められ、越相の和融は成った。そして、輝虎は天用院を引見し、遠路使僧としての労をねぎらったのである。
 余談ながら、さきの和融条件のなかに氏政の実子を輝虎の養子にするという一条があった。そして輝虎の養子となったのが氏政次男の国増丸で、謙信の死後、もう一人の養子景勝と争い敗れた景虎こそがのちの国増丸であった。


■参考略系図

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