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中山氏
●枡形の内に月/虎杖/丹の字
●武蔵七党丹党後裔  
 


 中山氏は武蔵七党の一つ丹党の後裔と伝える。丹党は宣化天皇の後胤で、彦武王のときに多治比古姓を賜り、峯時のときから関東に居住、 その孫の武綱のときに秩父郡領になったといわれる。武綱の曾孫秩父基房には数人の男子があり、嫡子直時が勅使河原を、二男綱房は新里を、三男の成房は榛原を、四男の重光は小島を、そして経家が高麗五郎を名乗った。
 高麗五郎経家の次男家季は加治二郎を名乗り、元久二年(1205)六月、武蔵国二俣川において畠山重忠と戦って討死した。その子の加治豊後守家茂は亡父の菩提を弔うため円照寺を建立、以後、同寺が加治氏歴代の菩提寺となった。また、二男の助季は『吾妻鑑』『承久記』に散見し、仁治元年(1240)二月、鎌倉将軍頼経が上洛のとき随兵のひとりとして加わっている。この助季の子孫がのちに中山を領して、地名によって中山を名乗るようになったのだという。
 加治一族は鎌倉御家人となったが、その後、北条氏が執権として幕政を牛耳るようになると、その御内人として活動するようになったようだ。そして、来迎寺の板碑を建てた家茂の孫の加治泰家、嘉元三年(1305)に北条宗方の乱に与して討たれた加治光家とその叔父の助家、そして、『太平記』にあらわれる「加治二郎左衛門入道」ら加治の嫡流と思われる人物が断片的に史料にあらわれる。二郎左衛門入道は加治家貞のことであり、元弘三年(1333)、新田義貞が倒幕の挙兵をしたとき、小手指河原、分倍河原で新田軍を迎撃して討死した人物である。現在、加治二郎左衛門入道の供養板碑が円照寺に遺され、鎌倉幕府の陥落の日を伝えている。
 中山氏も加治一族として行動したであろうことは疑いないが、歴史に顕われるところはなく、助季以後の動向は明確ではない。

北条氏麾下に属す

 中山氏の系図をみれば、戦国時代の当主は勘解由家仲(一説に家勝)で、家仲は山内上杉氏に属していたようだ。天文十四年(1545)、山内上杉氏が扇谷上杉氏・古河公方と連合して北条方の河越城を攻撃したとき、中山氏も山内上杉氏に属して出陣した。翌年、北条氏康の計略によって山内上杉氏らの連合軍が敗れると、北条氏康に属するようになった。以後、北条氏に従って各地に転戦した。
 その後、北条氏康の二男氏照が八王子城主となると、家仲の子勘解由家範は重臣のひとりとして氏照を支えた。永禄十一年(1568)、武田信玄麾下の小山田信茂の軍勢が相模国に侵攻してきた。こ のとき、家範は氏照に迎撃を命じられて、横地吉信らとともに出陣、武田軍と激戦を展開したという。
 天正十八年(1580)、豊臣秀吉の小田原征伐が開始された。八王子城主北条氏照は主戦派の中心であり、兵四千を率いて小田原本城に籠城した。一方、城主不在の八王子城は城代の横地監物を主将として、狩野 一庵、大石信濃守、金子家重、近藤助実、そして中山家範らが守備についていた。六月二十三日、前田利家、上杉景勝らが指揮する豊臣方北方軍が攻撃を開始した。家範、狩野一庵らはよく防戦し奮戦したが、衆寡敵せず、城は半日の戦いで落城した。城代の横地監物は敗兵をまとめて、平山氏の守る檜原城に落ちていった。家範らは城を枕に討死し、妻子一族も戦死あるいは自害した。
 家範の子照守も北条氏照に仕えていたが、小田原の役に際しては、氏照に従って小田原城に籠城したようだ。そして、小田原落城後、世を隠れて加治に閑居した。ところが、八王子城における家範の忠死を感じていた家康に召し出され、弟信吉とともに徳川氏に仕えることになった。

徳川氏に仕える

 慶長五年(1600)、関ヶ原の役にあたって照守は、中山道に道をとった徳川別働軍を率いる徳川秀忠に属した。この秀忠軍の前に立ち塞がったのが、西軍に属して上田城に拠った真田昌幸であった。秀忠は一気に上田城を揉み潰そうとしたが、昌幸の巧みな用兵に翻弄され、ついに関ヶ原の合戦に間に合わなかったことはよく知られている。  この上田城の戦いにおいて、照守は朝倉宣政・太田吉正・鎮目惟明・辻久正・戸田重利・御子神 典膳らとともに奮戦、「上田七本槍」または「真田表七本槍」と称されて讃えられた。しかし、現実には軍令違反の上に敗戦でもあり、のちに照守は秀忠から閑居を命じられた。ほどなく赦免された照守は、大坂の陣にも供奉、元和の大坂陣には御使番を務めた。そして、累禄して三千五百石の知行に至った。子孫は旗本中山氏として続いた。
 一方、照守とともに徳川家に仕えた弟の信吉の方は、慶長十二年(1607)、家康の命を受けて水戸頼房の付家老となり、常陸松岡に二万六千石を領した。子孫は水戸藩家老職を世襲し、明治後男爵となった。
 ところで、照守の曾孫直邦が大名となった。直邦は外祖父黒田広綱に養われ、広綱の家を継いで黒田を称した。常陸の下館、上州沼田の城主を経て、久留里三万石を領するに至った。養家の黒田氏は橘姓で家紋は「木瓜」であったが、直邦が家を継いでからは、中山家の紋である「枡形の内に月」を替紋にしている。一つの家において、家紋が増えていく過程が知られる話である。・2006年09月12日

参考資料:飯能市史/新編武蔵風土記稿 ほか】


■参考略系図
    

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