謙信に仕えた部将
●上杉二十五将を中心として
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甲斐の武田信玄と並び称される戦国武将、越後の上杉謙信麾下には、数多くの勇将、猛士がいたといわれている。
七人衆、十一人衆、御側二十一人衆、三十一人衆、三十五人衆、八竜、四虎など、さまざまな呼称があり、上杉二十五将というものもある。これは、元和元年)1615)上杉家の家臣、清野助次郎と井上隼人正という者が書き置いたものを、寛文九年(1669)五月、大老酒井忠清を通じて幕府に提出したという『上杉将士書上』のなかに登場する武将たちである。
『上杉将士書上』は、上杉軍役帳その他に出てくる武将たちの略伝で、二十五将以外にも名高い人物、例えば直江山城守兼続らが書き上げられ、なかには、実在を疑われる武将の名もある。鬼小島弥太郎一忠もその一人で、筆者も気がひけたものか「二十五将の外にて候」とことわっている。
二十五将の名前を列挙すれば、
●赤字の武将は、家伝にリンクしています。
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の二十五将である。
その記述について、たとえば最初に挙げられた長尾政景について、「謙信の姉婿で、北国関東、相州の北条等と戦ったときは、先手をつとめた。かずかずの軍功をあげている。嫡子の長尾景勝は、謙信の養子であるとまことにそっけない。
ところが次の宇佐美定行の項では、定行の功績を政景の十数倍の字数で書き連ね、さらに「永禄七年七月五日、信州の野尻の池で政景を殺し、自分も死んだ。これには深いわけがある」とも書いている。この宇佐美定行という人物は、架空の武将とされている。この人物を創作したのは、定行の子孫と自称する宇佐美定祐という者で、かれは『北越軍記』『越後軍記』などを書いて、甲斐の浪士小幡景憲の『甲陽軍鑑』に対抗し、当時、軍学者として人気を集めた。
しかし、『北越軍記』はつじつまの会わない記述が多く、古くから信頼を置かれていない書物であり、
それどころか有害な俗書ときめつける人さえいるものである。もっとも、謙信の家来で宇佐美定満という人物はいた。
刈羽郡琵琶島城主で、永禄五年(1562)武蔵上尾原で、北条氏の軍と戦って戦死したと伝えられる。
←川中島合戦図屏風に描かれた宇佐美隊
定祐は、あるいは定満の後裔にあたる人物で、定満をモデルに謙信の参謀宇佐美定行をつくりあげ、ついでに何人かの豪傑を創作して、話をおもしろくしたものであろう。とはいえ『北越軍記』は広く詠まれ、宇佐美定祐は宇佐神流などというまゆつばの軍学を唱え、のちに米沢の上杉家に拾われた。
二十五将が登場する『上杉将士書上』には、宇佐美定祐が調節携わったという記録はない。しかし、『上杉将士書上』を書いた清野・井上の書き上げたとされる『川中島五箇度合戦之次第』には、明かに宇佐美定祐の参画した跡がうかがえるし、『上杉将士書上』も、同様であったと考えてよいだろう。いずれにしても「上杉二十五将」に関しては、史実かフィクションかを見きわめながら向き合う必要があるだろう。とはいえ、謙信の麾下で多くの将士が活躍したことは間違いのない歴史事実である。
ちなみに、米沢上杉祭で採用されている二十八将を下記に列記してみた。上記の二十五将と見比べると、興味深いものがあるといえよう。
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柿崎和泉守景家 |
新発田因幡守治長 |
島津左京進規久 |
水原壱岐守隆家 |
斎藤下野守朝信 |
竹俣三河守広綱 |
須田相模守親満 |
松本石見守景繁 |
下条薩摩守実頼 |
本庄越前守繁長 |
安田冶部少輔長秀 |
長尾近江守藤景 |
新発田尾張守長敦 |
山吉孫次郎豊守 |
加地安芸守知綱 |
高梨源太郎政頼 |
大河駿河守忠秀 |
鮎川摂津守清長 |
井上河内守清政 |
綿内内匠守広綱 |
村上左衛門尉義清 |
色部修理進勝長 |
宇佐見駿河守定勝 |
中条越前守藤資 |
古志駿河守秀景 |
大崎筑前守高清 |
甘粕大江守景持 |
直江大和守実綱 |
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