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直江氏
●亀甲に花菱/三つ亀甲に三葉
●神氏流/藤原麻呂流
・残された兼続の画像には「三つ亀甲に三葉」紋が確認できる。いずれにしても直江氏は亀甲紋を用いていたようだ。
 


 直江氏は、越後国中頚城郡直江より起こったという。神氏の一族あるいは藤原式家麻呂の後裔ともいわれるが、系譜に関してはまったく不明である。史料的に確認できるのは戦国時代に入ってからで、直江入道酒椿のころからである。酒椿の子大和守景綱(初め実綱)にいたって名をあげ、実綱は長尾為景・晴景・上杉謙信の三代に仕えた。
 そもそも直江氏は越後守護上杉の直臣であった与板城主飯沼氏の旗本であったが、永正十一年(1514)に飯沼氏が滅ぼされると、直江氏が与板城主となった。おそらく、永正の乱において長尾為景に属した結果であろう。
 永正の乱を契機に実質上の越後国主となった為景であったが、守護上杉氏の一族である上条氏との抗争に劣勢となり、天文五年、家督を嫡子晴景に譲って隠退した。為景から家督を譲られた晴景は生来の病弱であり、戦乱の越後を治める器量にも欠けていた。そのような晴景に越後の国人たちは心服せず、勝手な振舞いを続けたため越後の内乱は泥沼化していった。その事態に対して晴景は僧籍にあった弟景虎を還俗させて、長尾氏の軍事力の一翼を担わせたのである。

景虎政権の成立

 還俗した景虎は栃尾城主となり、長尾氏に抵抗する中越の反対勢力を平定して武名を上げた。この景虎に着目したのが揚北で守護代晴景と対立する中条藤資で、藤資は景虎を新しい国主にかつごうと画策した。これに高梨政頼や古志上田長尾景信、本庄実乃が加担し、直江実綱も景虎擁立派に属した。一方の晴景には上田長尾政景・揚北の黒川氏実らが加担して双方武力抗争となった。
 結局、守護定実が調停に乗り出し、晴景に家督を景虎に譲って隠退することをすすめ、晴景もそれをいれて景虎に家督を譲ると隠居した。こうして、景虎が新しい守護代となって春日山城に入り、越後の内乱も鎮静化した。天文十九年(1550)、守護定実が死去したことで景虎は名実ともに越後の国主となり、幕府からもその地位を認知された。
 天文二十二年、朝廷への御礼言上のため景虎は初めての上洛を果たしたが、そのころから景虎政権において旧守護上杉氏被官層と長尾氏被官層との間でごたごたが続くようになった。それに加えて、甲斐の武田信玄が対立する景虎を牽制するため、北条高広を使嗾して反乱を起こさせた。北条の乱は景虎みずからの出陣によって平定されたが、それが原因となって第二回目の川中島合戦となった。景虎は短期決戦を目論んだが信玄は越軍の鋭峰を交わし、いたずらに対陣のみが続き、結局決定的な合戦もなく双方ともに兵を引き揚げた。
 心中の晴れないまま府中に帰った景虎は、家中諸将の土地争い、それをめぐる長尾被官派本庄実乃と上杉被官派大熊朝秀の対立に悩まされた。ここに至って、ついに景虎は隠退を声明し、春日山城を出奔して出家するために比叡山に向かった。
 思いがけぬ事態の展開に家臣たちは驚愕し、長尾政景は中条藤資と結んで大熊朝秀を追い出し、本庄実乃=直江実綱ラインによる執政府をまとめ、景虎に春日山へ帰ることを求めた。これに対して旧上杉氏被官派の大熊朝秀は越中に逃れて兵を集めて府中に攻め寄せようとしたが、敗れて武田信玄のもとに奔った。ここに、景虎のもとに家中は統一され、本庄・直江らの執政府による政治体制が発足したのである。
 以後、景綱は景虎政権下における奉行を務め、上杉家の中枢に位置して軍政両面に活躍した。荒武者の多い上杉家中において、景綱は内政・外交にも秀でた貴重な存在であった。永禄二年(1559)、景虎が二度目の上洛を果たした際には神余親綱とともに朝廷および幕府との折衝にあたり、関白・近衛前嗣が越後にやってきたときは接待役をつとめた。

景綱の活躍

 実綱は政務奉行をつとめながら、軍制上では七手組の隊頭でもあった。七手組の隊頭は、直江大和守実綱・長尾遠江守藤景・本庄美作守慶秀・北条丹後守高広・柿崎和泉守景家・斎藤下野守朝信・中条越前守藤資の七人で、いずれも景虎麾下の錚々たる武将ばかりであった。
 永禄三年(1560)、景虎は関東管領上杉憲政の要請をいれて関東に兵を出し、翌年には小田原城を攻撃するなど越後勢の武威を示した。そして、憲政から上杉名字と関東管領職を譲られ、鶴岡八幡宮で就任式を執り行った。ここに長尾景虎は上杉政虎と名乗りを改め、のちの上杉謙信となるのである。
 越後に帰った謙信は席をあたためる間もなく川中島に兵を進めた。前後五回にわたって戦われた川中島合戦のなかでもっとも激戦となったもので、直江景綱は軍奉行として出陣し、武田信玄嫡男・太郎義信の一隊の突撃に窮地に陥った謙信を助けて奮戦、義信勢を敗走させた。永禄十二年(1569)の越相和睦の際は、小田原北条氏の使節との交渉役を担当し同盟の締結に尽力した。その間の永禄七年、謙信から長尾氏の通字である「景」の一字を賜り、実綱を改めて大和守景綱と称した。
 上杉謙信麾下における直江氏の勢力を知るものとして、天正三年(1575)二月の『上杉家軍役帳』があるが、それによれば直江大和守(景綱)は旗本・譜代の一員として軍役数三百五とあり、山吉孫次郎(豊守)の三百七十七に継ぐ動員数であった。
 翌天正四年(1576)十二月の段階では、景綱は河田吉久・吉江堅資・杉原盛綱らとともに能登の石動山城に在番していた。石動山城は能登の最前線であり、石動山城将は上杉謙信の側近として活躍した信任の厚い者たちばかりだった。天正五年四月、景綱は病死したが七十歳を越える年齢で、最後まで謙信に仕えた一生であったといえよう。

御館の乱と信綱の横死

 景綱は男子がなかったため、長女に上野国総社長尾顕景の子を婿に迎えて家督を譲った。婿は信綱を名乗り謙信に仕えて景綱同様に奉行を務めた。天正六年三月謙信が急死、その死後に起った「御館の乱」にはいち早く景勝に属して活躍した。
 御館の乱は景勝の勝利に終わり、上杉氏家督を景勝が継いだことで一件落着した。しかし、戦後の論功行賞において一悶着があった。景勝派の軍奉行の安田顕元は、この乱に勝利したのは五十公野重家、三条道寿斎、毛利秀広らが味方に駆け付けたためであり、かれらは合戦のたびに先頭を駆け、粉骨の働きは抜群である。ぜひ城を与えてほしいと景勝に言上し、景勝もこれに賛意を示した。一方、直江信綱・山崎秀仙らは五十公野らに恩賞を与えることに反対した。  直江と山崎は、春日山城には乱の最初から身命を賭して働いた功臣が多いのに、それをさしおいて五十公野らに第一の恩賞を与えることは将来に問題を残すであろう。五十公野らは、勝利がみえてくれば味方に馳せ参じた者たちであり、それは遅速の差に過ぎないとしたのである。
 別の見方をすれば、御館の乱後における論功行賞は、その後の景勝政権の骨格を形作るものでもあった。すなわち、景勝は戦国大名として飛躍するために譜代の家臣を重用するか、外様の国衆を重用するかという選択を迫られたのである。新たな政権を樹立すべき景勝にとっては、譜代の家臣を重用することは自明のものであった。そして、直江信綱らはその線で論功行賞を行おうとし、軍奉行の安田能元はみずからも国衆である立場から五十公野らに報いようとしたといえよう。能元の意見が景勝に却下されたことは国衆が敗れたことであり、その後の新発田氏の乱を引き起こす要因ともなったのである。
 安田顕元は五十公野らへの恩賞の約束を果たせなかったことで、責任をとり自害したと「安田系譜」に記されている。しかし、五十公野重家や毛利秀広らは顕元の自害によっても不満を消し去ることができなかった。そして、天正九年(1581)九月、毛利秀広は春日山城中で山崎秀仙に刃傷沙汰に及び、同席していた信綱も巻き込まれ殺害された。

名執政、直江兼続

 信綱には実子がなかったので、景勝は直江家が断絶するのを惜しみ、近臣の樋口兼続を信綱の後家と結婚させて家督を継がせた。後世、上杉景勝の名家老として天下にその名が高い兼続である。
 兼続の登場は、坂戸城主長尾政景の家臣樋口惣右衛門兼豊の長男として、永禄三年(1560)に誕生した。非凡な才能を仙桃院(謙信の姉で景勝の母)に見込まれ、喜平次景勝の近習となり謙信の養子となった景勝に従って春日山城に入った。天正九年、上杉家の重臣直江信綱横死のあとを受けて直江家を相続し、同十六年、秀吉に拝謁する景勝に従って上洛、山城守に叙任された。
 兼続の逸話は多いが、かれの力量を現すものとして「天下の政治を安心して預けられるのは、直江兼続・小早川隆景・堀直政など数人にすぎない」と豊臣秀吉にいわしめた話。ついで、伊達政宗が大坂城中において当時珍しかった大判を諸侯に披露したとき、居並ぶ諸大名はさまざまに驚きと賞賛の声を上げた。その座中に兼続は景勝に従って陪席していたが、兼続のところにも大判がまわってきた。兼続は大判を扇子で受取ると所在なげに打ち眺めていた。その様子を見た政宗は陪臣である兼続が遠慮しているのであろうと思い「直江殿、遠慮はいらぬしっかり手にとってご覧あれ」と話しかけた。対して兼続は「謙信から軍配を預けられたこの手に誰の手に渡るとも知れぬものは持ち兼ねる」といって、政宗のもとに投げ返したという話が有名である。
 いずれも、話の真偽は知り得ないが兼続の風韻を感じさせる挿話といえよう。ただ、大判の話は少し嫌味が過ぎるともいえよう。

関ヶ原の合戦、前夜

 慶長三年(1598)景勝の会津移封に伴い、米沢城三十万石に入った。同五年、秀吉が逝去すると、実力者徳川家康の横暴が目立つようになり、豊臣家筆頭奉行である石田三成との対立が表面化していった。そのころ、景勝は会津に帰り領内の整備、浪人の召し抱えなどを行ったため、越後の堀氏らが家康に景勝の行動を密告した。
 慶長五年(1600)正月以来、家康は再三にわたって上杉景勝に上洛を促したが、景勝はこれを無視し続けた。家康は景勝の執政兼続の知己である僧承兌をして、最後通告ともいえる上洛勧告を兼続あてに書かしめた。それに対する兼続の返書が、世に名高い「直江状」である。
 承兌の書状に対する返書であるから、形式の上では承兌に宛てた書状である。しかし、暗に家康に宛てて書かれたものであり、一読した家康を激怒させ会津征伐の口実を与えたといわれる。それほどの書状でありながら、「直江状」には兼続直筆の原本は存在しない。ただ、『編年文書』、『古今消息集』などにその写しが現存するのみである。
 いずれにしろ、家康は上杉景勝を懲らしめるため会津征伐の軍を起こした。とはいえこの会津征伐は、家康が留守にした上方で石田三成の挙兵を誘い、一気に徳川政権の樹立を企図した老獪な家康の遠謀でもあった。一方、家康軍進発の報に接した兼続は景勝を擁して万全の布陣をもって家康の会津到着を待った。しかし、家康軍が会津に攻め入る前に、三成が挙兵に踏み切ったため、家康は待ってましたとばかりに西上していった。
 このとき兼続は、家康軍追撃を進言したが景勝は頷かったという。西上する家康軍を追いかけた場合、最上・伊達軍に会津は蹂躙されることは必定である。また、石田三成率いる西軍に足並みの乱れをみた景勝は最終的勝利者は徳川家康と確信していたなどの説があるが、景勝が家康軍を追撃しなかったことは歴史の謎となっている。

北の関ヶ原の合戦

 その後、東軍に属した最上義光が秋田実季らとともに志駄義秀の守る酒田城を攻めようとしている報に接した景勝は兼続に最上領への侵攻を命じた。兼続は九月三日に会津から米沢へ戻り、早くも九日には自ら二万四千の軍を率いて進発、同時に庄内側からも志駄義秀・下吉忠の三千が最上領へ侵攻した。
 十三日、兼続は色部修理を先手として最上領畑谷城へ攻めかかり、激戦の末に城を落とし、援軍に駆けつけた最上勢を撃破した。引き続き山野辺・長崎・谷内・寒河江・白岩の各城を抜き、義光の本城山形城以外は、残すところ志村光安・鮭延秀綱の拠る長谷堂城のみとなった。
 追い詰められた義光は伊達政宗に援助を求め、政宗は叔父の留守政景を大将とする援軍を送った。対する兼続は長谷堂城に迫り、城を包囲した。九月十五日のことであった。これを世に「長谷堂城の戦い」と呼ばれる。そして、この九月十五日は関ヶ原の合戦で西軍が敗れ、天下の覇権が家康の掌中におさまった日でもあった。そうとは知らない兼続は長谷堂城に総攻撃を掛けるが、城兵も頑強に抵抗を続け戦いは膠着状態となってしまった。
 そんな中の二十九日、会津の景勝のもとに関ヶ原における西軍の敗報がもたらされ、景勝はただちに兼続に連絡、兼続は間髪を入れず城の包囲を解き、十月一日から全軍の撤退を開始した。関ヶ原の報に接した最上義光は俄然勢いを盛り返し、ただちに追撃戦に出た。ここに退く兼続と追う義光の間に、まれに見る大激戦が演じられた。このときの殿は兼続がつとめ、その見事な奮戦によって上杉軍はなんとか十月四日に米沢へ帰り着くことに成功した。

上杉氏の米沢転封

 兼続は景勝とともに事態の推移を見守ったが、すでに大勢は決しており兼続は上杉家安泰のため、降伏の道を選んだ。そして、家康側近の本多正信と通じるなど、上杉家存続のため八方に手を尽くした。その結果、景勝は会津百二十万石から米沢三十万石に転封されるにとどまった。これは、関ヶ原の合戦において西軍に加担した多くの大名が所領没収の処分を受け没落していったなかで、乱のきっかけを作った景勝が取り潰しを免れたうえに三十万石の大名として残りえたのは、兼続の卓越した外交手腕に負うところが大きかったといえよう。
家紋画像  上杉景勝が米沢三十万石に移されたとき兼続は六万石を分与されたが、五千石だけを残して他は他人に譲ったという。
 兼続は、武将としての力量はもとより民政にもすぐれた手腕を発揮し、殖産興業に力を注いだ。また、好学の士として同時代においても知られる存在であった。江戸初期の大儒学者藤原惺窩は「近世戦国の世に学問を好んだものは上杉謙信、小早川隆景、高坂昌信、直江兼続、赤松広通があっただけ」 と書き送った。 また朝鮮の役に従軍中のとき医書『済生救方』三百巻を筆写させ、現存する『諸薬方書』『薬方抄』は直江蔵書の写本といわれる。さらに直江版といわれる「文選」「論語」「春秋左氏伝」 などを出版し、幕府儒学者林羅山の絶賛をあびている。
 元和元年(1615)、実子の景明が十八才にて早世。本多佐渡守正信の二男勝重を養子に迎えて、同五年十二月、六十歳で生涯を閉じた。勝重はのち本多に復して安房守正重と名乗り、加賀前田氏に仕えたため直江氏は断絶した。
  ところで、兼続の兜の前立は「愛」の一字であった。これをもって兼続は愛の人であったなどというものもあるが、前立の「愛」の一字は兼続が信仰した愛染明王と愛宕権現の愛の字であり、神仏の力をもって合戦に後れを取らないことを願ったものである。現代における「愛」の概念とは、異なった意味のものであったことは言うまでもないだろう。・2005年6月22日
・兼続の画像に見える「三つ亀甲に三葉」紋



■参考略系図
 
  


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