加地氏
四つ目結/三つ星
(宇多源氏佐々木加地氏流)
*春綱が屋敷を寄進し菩提寺と
した香伝寺の寺紋は四つ目結。 |
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加地氏は、城資盛討伐に総指揮をとった御家人佐々木盛綱を祖とする。盛綱は、兄定綱とともに流人の身であった源頼朝に二十年間属し、頼朝の挙兵にも初めから加わった。以後、頼朝の側近として、平家追討にも功をたて、鎌倉幕府創業になると、佐々木兄弟は十七ケ国の守護に任じられた。そして、盛綱は越後国加地荘を賜った。当時、越後国は城氏の勢いがさかんで、盛綱が実際に加地荘を掌握したのは、建仁元年(1201)四月、城資盛が挙兵し、盛綱がその征討軍の指揮官に任じられて城氏を鎮圧してのちの事と考えられる。
以後、盛綱の子孫が加地荘に土着することになる。盛綱には系図上、三人の子がいた。そのうちの信実が「号加地」と記されていることから、父盛綱の譲りを受けて加地荘を相伝したとみられる。
信実は承久の乱に際して、加地荘願文山の戦いで、藤原信成の家人酒匂八郎を破り、その足で越後府中へ参集して北条朝時に従って上洛した。このとき、信実は朝時、結城朝広らとともに、小国頼継・金津資義・小野時信以下越後御家人を「相催」して上洛している。承久の乱の軍功によって信実の地位は高まったようで、乱後、冷泉宮を備後国豊岡荘児島の地に流すとこの警固を命じられている。
佐々木加地一族
信実には、系図上で九人の男子がいたことが確認される。佐々木盛綱流の家督は二男の実秀が継いだようで、三男時秀は左衛門尉で、この子孫から新発田氏が出た。五男は兵衛尉義綱で、加地五郎兵衛尉を称し、佐々木盛綱流では最も早く加地氏を称した。そして、義綱の流れから竹俣氏を名乗る者が出るのである。以下、時基・氏綱・信朝がおり、それぞれ加地氏を称している。
南北朝期になると、佐々木加地氏は足利方に属し、南朝方にたった河村秀義・小国政光のほか池・風間・河内氏らと、越後国内で合戦となった。足利方の色部氏や水原氏は加地近江守景綱を大将として南朝方と戦った。このような越後の戦乱は、足利方が南朝方に勝利を収めて建武五年(1338)には終息に向かう。それは、新田義貞の戦死、足利尊氏の征夷大将軍任命などにより、足利方勝利の事態はいっそうはっきりとした。
その後、上杉憲詮が越後守護職を世襲することになり、守護領国制を展開してゆく。
佐々木加地氏は南北朝のはじめ、足利方の大将として、色部氏や三浦和田一族の羽黒氏、水原氏をまとめて戦った。景綱が「大将」と呼ばれた地位は、当時、守護とならんで国々におかれ、戦闘の中心となった「国大将」で、その地方の有力武士が任ぜられていた。景綱は、上杉憲顕が越後に入ってこれと交替するまでその任にあった。
南北朝期には、一族のなかに南北両方に参陣して戦う、という分裂が多く見られた。越後国でも奥山荘の三浦和田一族にみられ、佐々木加地一族も例外ではなかった。しかし、その実態は、佐々木加地氏がその伝来文書を失ってしまったことから、佐々木氏の側から直接的にこの時期の動向を知ることは困難で、周辺の武家の伝えるところから断片的に知りうるのみである。また、文書が失われたことから、南北朝期以後の佐々木氏の具体的な一族の構造もよく分からないのである。
加地系図によれば、法秀は、南朝方の新田義宗とともに足利尊氏と上野国境付近に戦った。しかし、義宗が戦死して後のちは次第に足利方の北朝色に統一されて、以後、百三十年余り五代にわたって、麓、宮内、加治、蔵光、付近に一郷士として没落、静かに時節の来るのを待っていた。そのためか、その後の歴代の事績は詳らかではない。
南北朝中期に越後国主の座についた上杉氏はその座を世襲したが、実際の越後統治は守護代長尾氏に負うところが大きかった。上杉氏=長尾氏は国内統治のために、国人の掌握を果たさねばならなかった。しかし、国人は鎌倉依頼、在地に培った強固な領主制をもっていた。その領主制は南北朝期における一族内紛などで、一見弱体をさらしたようにみえるが、このことが、上杉・長尾氏の掌握を容易にしたとはいえない。上杉・長尾氏に内紛が生じたとき、これに対応して、国人領主層相互の軋轢も激化した。
応永末年(1421〜27)に越後あげての内乱が生じる。この内乱は幕府が守護代討伐を命じたことから始まった。そして、国人領主層内にくすぶっていたものが内乱をさらに大きくした。乱の結果は、国人のなかから守護の被官となった者ででたように、守護の国人掌握がいっそう進むことになった。乱後には、守護上杉氏が国人らを率いて国外を転戦できるようになり、守護領国制支配も強化されたのであった。
佐々木加地一族の分流
この応永末年の内乱を、これに参加した中条房資がのちに記録したものがある。その「記録」には、応永三十年(1423)のこととして、房資とともに参陣した「加地・新発田・白川之面々」が陣を払って在所に引き篭ったため房資は窮地に立ったと記されている。また、応永三十三年には、山吉大炊助の立て篭った三条嶋ノ城で同じメンバーが攻囲網をめぐらせたが、またも「加地・新発田面々」が心変わりをおこして寝返ったとも記している。
鎌倉以来、加地荘内各地に惣領制支配を展開した佐々木氏一族が、南北朝期の一族抗争を通りぬけて、応永末年には加地氏・新発田氏の両家が佐々木一族のうちでも特に有力なものとして、他の揚北諸氏と肩をならべるものとして現われた。これは、佐々木一族の内部が一応この両氏を中心に、庶家をその被官化することによって、国人領主制を展開しはじめたことを示している。
とはいえ、国人領主制を展開しはじめたころの加地氏・新発田氏の系譜関係は十分に解明できない。
戦国期、加地春綱は、上杉謙信に使えて重用され、加治荘を賜り七年組大将の一人として、本庄繁長、色部亨長、中条藤賢、竹俣清綱、新発田長敦、姉崎景家らと並び称された武将であった。
永禄二年(一五五九)十月二十八日の「侍衆御太刀之次第」に披露太刀の衆として名を連ねている。天正三年(一五七五)二月十六日の「上杉家軍役帳」によると彦次郎春綱は鑓百八丁、手明十五人、鉄砲十丁、大小旗十、馬上十五騎の百五十八人の軍役を負担した。天正五年(一五七七)十二月二十三日の「上杉家家中名字尽手本」に「宗七郎」の名前が登場している。慶綱は、天正五年(1575)十一月二十二日死亡した。享年六十七歳であった。
その子秀綱は謙信公の妹の子であり、謙信公に従って度々川中島に出陣して大功をたてた。謙信死後に起こった「御館の乱」には、景勝を退けて景虎を援けんとした。しかし、、景勝方の新発田重家と五十公野道寿斉に居城を急襲されて戦死した。時に天正十五年(1587)八月 三十五歳の若さであった。
秀綱の子景綱は父が戦死の時は十四才で新発田重家方も親類の関係もあり一命をとりとめたのである。その後。慶長五年(1600)、竹俣壱岐守とともに越後浪人一揆を起こし上中越方面で勢を振るった。しかし、村上の戦いに敗れて、旧領地に隠居して旧臣の援助を受けて暮らし、その後、剃髪して萬休斉と号し正保四年(1646)八十七歳で死去した。
■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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