宇佐美氏
三つ瓶子
(藤原南家為憲流工藤氏族)
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古代律令制のもとで、久寝郷と呼ばれたのちの伊東郷の北隣に宇佐美郷があった。いわゆる寄進地系荘園の一つで、開発領主は伊豆に栄えた工藤氏の一族であった。のちに久寝郷は南北に拡張され、宇佐美郷から河津郷まで含むようになったと思われる。それとともに、工藤氏の一族が分領するようになり、宇佐美郷には宇佐美氏、伊東郷には伊東氏、河津郷には河津氏が分領するようになった。
宇佐美氏の初代は工藤祐経の弟とされる三郎祐茂で、鎌倉時代初期の武将であった。祐茂は、源頼朝に属して伊豆目代の山木兼隆を討ち、その後も多くの合戦に従って功労多く、頼朝二十五功臣の一人に数えられた。その後、頼朝に従って鎌倉へ入ると、そこに在住するようになり、頼朝に近仕した。文治五年(1189)の奥州征伐に加わり、翌六年には頼朝に従って上洛している。その子孫は『吾妻鑑』に多く散見し、『梅松論』や『太平記』にも登場するなど、かなり有力な在地武士であったことが知られる。
宇佐美氏の登場
伊豆を本拠としていた宇佐美氏が越後と関係を持つはじめとなったのは、南北朝期のはじめに越後守護に任ぜられた上杉憲顕に従って越後に入部したことにあると考えられる。上杉氏は足利氏に従って南北朝の争乱に活躍したが、足利尊氏と直義の兄弟が争った「観応の擾乱」に憲顕ら上杉一族は直義に属したが敗れて一時没落していた。その間の文和四年(1355)に、憲顕の長子憲将が顕法寺城で旗揚げしたとき宇佐美一族もこれに参加し、村山・風間らの軍勢と戦って上杉氏の失地回復に一役買っている。
宇佐美氏の子孫に鎌倉公方の直参になった摂津守祐辻という者がおり、その七代の孫にあたるという能登守定興は掘越公方に仕えていた。延徳三年(1491)、掘越公方家の内紛に乗じて伊豆に侵攻してきた北条早雲勢と合戦して討死した。定興の子孝忠は文明三年(1471)古河公方成氏が箱根を超えて三島に侵入してきたとき、「山内顕定、宇佐美藤三郎孝忠に五千余騎を相添え云々」と公方勢を撃退したことが『鎌倉大草紙』にみえている。
ところで、戦国期に柏崎琵琶島城を本拠とした宇佐美氏は、応安元年(1368)上杉房方が叔父の越後守護憲栄のあとを継いで越後に入部したとき、鎌倉公方足利氏満の命で宇佐美満秀の弟祐益が軍勢を率いて乗り込んできたものであるという。そして、祐益は琵琶島に住したのが始まりといわれている。
南北朝期に越後の守護となった上杉氏にとって、鎌倉御家人の系譜をひき、上杉氏入部以前より柏崎周辺の領主であった安田氏・北条氏・斎藤氏らの存在は無気味なものであった。上杉氏はつとめてかれらを懐柔し、重臣として取り立てて味方につなぎとめていた。それに加えて、柏崎周辺に自らの一族や被官を配置することによって、かれらを牽制しようとした。このような上杉氏の考えにより、刈羽郡に入部したのが一族の上条上杉氏であり被官の宇佐美氏であったと考えられよう。
その後、宇佐美定秀に至ったが定秀は男子がないままに死去し、適当な後継者もいなかったため、守護上杉房定の下知で伊豆の宇佐美定興の子孝忠を立てて家督とした。そして、孝忠は文正元年(1466)に越後に入部したのだという。この孝忠と『鎌倉大草紙』にみえる孝忠とは同一人物と考えられ、おそらく孝忠は越後守護上杉房定の次男で関東管領職をついだ顕定を援けるため関東に出陣したものと思われる。
孝忠は房定が見込んだ人物だけに文武兼備の武将で、『梅花無尽蔵』を著した万里集九も孝忠の館を訪れている。孝忠は房定のあとを継いだ房能に仕えてよく守り立てていたため、房能に対して謀叛を企てた守護代の長尾為景は、孝忠の死をまってクーデタを起こしたともいわれる。
長尾氏の下剋上
越後守護上杉氏は、守護代長尾氏の専横を排除し、関東の戦乱に活躍した房定の時代が全盛期であった。明応三年(1494)房定が死去すると子の房能が守護職を継ぎ、房能は検地や守護不入の特権を見直すなど守護領国支配体制の確立を目指した。このような房能の施策と姿勢は、守護代長尾氏らに大きな影響をおよぼしたが、時の守護代能景は初め房能の出す政策に従った。しかし、徐々に態度を変化させ、守護に背を向けて自己の権力を拡大・強化する道を歩み出そうとしたが、永正三年(1506)、越中において戦死した。
守護の強引な政策に対し、武力をもって反旗を翻したのが能景の子為景であった。為景は父能景が越中で戦死したあとを受けて守護代になると、五十嵐氏らの反乱をたちまち平定してその武威を示した。そして、永正四年(1507)八月、守護房能の養子定実を擁して房能排斥のクーデタを起こした。為景の挙兵に房能は国人らに参陣を呼びかけたが応じる者は少なく、関東に逃走しようとした。しかし、為景勢の追撃を受け、天水で捕捉された房能は一戦のすえに討ち取られてしまった。越後の戦国時代は、この為景による「下剋上」で始まったとされている。
房能を滅ぼした為景は上杉定実を守護の地位につけ、為景・定実政権が発足したが、永正六年七月、房能の実兄で関東管領上杉顕定と憲房の父子が越後に攻め込んできた。顕定・憲房の率いる関東軍は一気に府中を制圧し、定実と為景は越中に逃れるという事態になった。
翌年、為景は勢力を挽回し、顕定軍と戦い顕定を討ち取り、憲房は関東に逃走した。この間、為景がもっとも頼りとしたのが宇佐美房忠と斎藤昌信ら柏崎周辺の領主で、宇佐美らも一貫して為景に味方し定実と為景が逃亡中は為景方の中心勢力となっていた。
顕定を討ち取り、憲房を関東に逐った定実と為景はふたたび政権の座に返り咲いた。そして、幕府から正式に定実は守護に為景は守護代に任じられたのである。しかし、定実は守護とは名ばかりの存在で政治の実権は為景が掌握していた。
越後の争乱
定実がこのような状態に納得するはずもなく、永正十年(1513)、定実は為景打倒の行動を起こした。定実は房能・顕定を倒した「永正の乱」以来の味方である宇佐美房忠と、実家である上条城主上条定憲とを語らい反為景の兵を挙げた。宇佐美房定は定実方の中心勢力となり、揚北の国人領主安田但馬守を攻め、中条・黒川氏ら有力国人層に軍事協力を要請して兵を挙げたが、守護方の牢人衆が為景勢に敗れ、ついで春日山城を占拠していた定実が為景に捉えられて府内に幽閉され、形勢は為景方有利に展開した。宇佐美房忠は定実方として孤軍奮闘を続けたが、翌永正十一年正月、小野要害を攻略され、ついで岩手要害が陥落し房忠は一族とともに討死して果てた。このとき、男子の一人が城から逃亡したのがのちの定満であるという。
こうして、定実の挙兵は為景の前に失敗し、為景は越後の最高実力者としての立場を確立したのである。その後、為景は越中侵攻を開始し、越後の領主たちは越中出兵に動員され、かれらは次第に為景政権への不満を募らせていった。享禄三年(1530)、この機を捉えた上条定憲はふたたび為景打倒の兵を挙げた。
しかし、柏崎周辺の毛利・斎藤といった領主だけでなく、揚北の本庄・色部・中条・黒川・新発田といった有力国人層は軒並み為景方の旗色を示し、定憲の思惑はまったく外れてしまった。かれらは、為景が室町幕府を後楯にしており、特に管領細川高国と密接な関係をもっていたことで、為景のもとへ引き付けられていたのである。ところが、細川高国が政権抗争に敗れ自害して果てたことで、為景は後楯を失うことになり情勢は一大変化を見せることになる。この変化を捉えた上条定憲は、天文二年(1533)三たび挙兵し、以後、数年にわたって越後国内は戦乱が続くことになる。
揚北の国人領主らは、高国死後の為景の実力を測りかねて動かず、長尾一族の上田長尾房長は為景方の下倉山城を攻撃し為景に反旗を翻した。形勢は為景の不利で、天文四年(1535)、宇佐美一党の居城を攻めた為景方はもろくも敗れ、ついに守勢に追い込まれた。さらに会津の葦名も上条方となり、小千谷地方をおさえる平子氏も上条方に加担した。まさに、周りは敵だらけという状況に為景は陥った。
天文五年(1536)四月、宇佐美・柿崎軍は府中へ進撃し、為景軍と三分一原で戦ったが、為景軍に一敗地にまみれた。しかし、上条方の優勢は変わらず、為景にとっても三分一原の勝利は防衛をしたに過ぎないものであった。ここに至って、百余度の合戦に身をおいた猛将為景も四面楚歌のうちに家督を晴景に譲り隠退した。
長尾景虎の登場
為景のあとを継いだ晴景は定実を守護に戴いて事態の収拾を図り、上田長尾房長の嫡子政景に妹を嫁がせて和解するなどの手をうったことで、越後の乱は自然に下火となっていった。ところが、定実の養子の一件を引き金にふたたび越後は内乱となった。晴景は生来の病弱であり、越後の戦乱をおさめる器量にも欠けていた。そこで、弟の景虎(のちの上杉謙信)を栃尾城主として長尾氏の軍事力の一翼を担わせた。景虎はたちまち中越地方の反対勢力を掃討し、その武名をあげた。
景虎の武名が上がるにつれて、景虎を晴景に代わって国主にしようとする国人たちがあらわれた。その中心となったのは、養子の一件で晴景と対立関係にある鳥坂城主の中条藤資で、それに北信濃の高梨氏らが加担した。かくして越後は晴景派と弟の景虎派とに分かれて戦いとなり、劣勢となった晴景が守護定実の調停を入れて景虎に家督を譲ったことで内乱は終熄した。とはいえ、晴景に加担して景虎と戦った上田長尾政景は依然として反抗的姿勢を示し、政景は父房長以来の盟友である宇佐美定満・平子房政らを恃んだ。宇佐美定満は父房忠が為景に敗れて戦死したのち、上条の乱などに際して琵琶島城を回復しようと奔走したが果たさぬまま戦乱が終結したため、同志上田長尾房長を頼っていた。
定満は上田長尾氏から知行を与えられたが、定満にとってその状態は到底満足できるものではなく、晴景と景虎が対立するようになると景虎方に加担して栃尾城に駆け付け晴景勢と対峙した。当然、その後の政景の反乱に際しても、景虎派として進退し父房忠以来の盟友関係であった政景には与しなかった。
かくして天文二十年、政景は景虎に屈したため越後国内における景虎への反対勢力は消滅した。以後、宇佐美定満は景虎の麾下となり、永禄二年(1559)に景虎が上洛して帰国したとき、越後の諸将とともに太刀を献じてその壮挙を祝賀した。そのときの記録によれば「琵琶島殿」としてみえ、外様・譜代衆の第十二位の序列にあったことが知られる。
永禄七年、上田の長尾政景と野尻湖で船遊びを楽しんでいるときの事故で、政景とともに水死した。一説には、野尻湖事件以前の永禄五年、武蔵上尾原における後北条氏との戦いで戦死したとも伝えられている。
伝説の人、宇佐美定行
越後宇佐美氏では、宇佐美定行の名が知られている。定行は上杉謙信の参謀として、上杉二十五将の一人に数えられ、『北越軍記』にもその活躍が記されている。そして、かれを有名にしているのが、永禄七年七月、信州野尻湖において謙信の姉婿にあたる政景を殺害し自らも死んだ、という事件である。これは、政景が謙信に対して異心を抱いていることを察した定行が、事の起こる前に政景を亡きものにしたというものである。
たしかに、政景は謙信と永年対立していた。そして、居城に近い野尻湖で水死したという事実がある。とはいえ、謙信と和解してから以後の政景は忠節を尽くしており、その子の景勝は謙信の養子にもなっている。政景が殺されねばならない理由はなかった。しかし、父房長以来景虎に反抗的な上田長尾政景をなき者とするため、定満が謙信の意を汲んで政景を暗殺したのだという説も一笑に伏せないものがある。事実、景勝が上杉氏の家督を継承したのち、宇佐美氏は景勝から冷遇されているのである。
もっとも宇佐美定行は、鬼小島弥太郎らと同様に架空の武将であったようだ。定行を創作したのは『北越軍記』『越後軍記』などを書いた宇佐美定行の子孫と自称する宇佐美定祐であった。おそらく自己の出自を飾るために宇佐美定行なる人物を創り出したのであろう。
現実の宇佐美定満の子勝行は、上杉氏を去って小西行長に仕えたり、関ヶ原の合戦のときに起った上杉遺民一揆に加わったりしたことが知られている。
ところで、宇佐美定祐は定満の孫にあたる人物といわれ、祖父定満をモデルに謙信の参謀宇佐見定行をつくりあげ、ついでに何人かの豪傑も創作し、もっともらしい軍記物語を紡ぎ出したものといわれている。定祐は、上杉二十五将の選にも関わったといわれ、二十五将の伝記が長尾政景に薄く宇佐美定行に厚いのも、推して知るべしといえようか。
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