山本寺氏
五三の桐
(藤原北家上杉氏流) |
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山本寺氏は、越後守護上杉朝方の子朝定が山本寺を称したことに始まるという。『不動山由来記』によれば、永正三年(本当は永正四年=1507)守護代長尾為景が守護上杉房能を討って春日山城に入った。為景の横暴を見た不動山城主の三本寺直長の子景貞は、房能のあとを継いだ定実に味方しようとした。新守護定実を傀儡化して実権を握ろうとしていた為景は、定実=景貞の連携が成っては不利と考え、永正九年に不動山城を攻撃し、敗れた三本寺景貞は越中に落ちたと記している。
もっとも、この『不動山由来記』は長尾を永尾、定実を房政とするなど、その内容も作者も成立した年代も不明の合戦記で、傍証もないひどい戦記物語だが捨て去るには惜しい内容をもっている。記述された内容を『上杉将士書上』に求めれば、「山本寺伊予守は、上杉定実の下知により、不動山に要害を築いて」能登・越中の勢と戦う、ということに比定されるのかも知れない。
謙信麾下の山本寺氏
不動山城が落ちたとき、景貞の子定景は、わずか六歳で、家来によって密かに養育され謙信に見い出されたという。しかし、これは年代的に無理があり、おそらく為景に見い出され、その妹と結婚し、不動山城主に返り咲いたとする方が妥当なようだ。為景に反抗した景貞の子ではあったが、上杉一族の高家であったことが、為景に優遇されることにつながったものと考えられる。
不動山城主は、代々「度々戦功あり」と『上杉将士書上』にみえ、弘治元年(1555)の川中島の合戦には、山本寺伊予守常孝が活躍した。常孝は定景の別名で定景の子とされる。『川中島五箇度合戦之次第』には「山本寺ら、一度にドウと突いてかかりければ、信玄の本陣、破れて敗軍なり」とあり、『北越軍談』では、信玄軍に前後をはさまれた謙信軍はまさに敗走という危機に陥った。そこへ、定長は新発田長敦らとともに春日弾正の備えに突っ込み、散々に武田軍を蹴散らして、味方を救出し犀川をさして引き退いた、と記している。
永禄二年(1559)、謙信は二度目の上洛を果たした。帰国した謙信に諸将は祝儀を贈ったが、山本寺定長は金覆輪の太刀を直接、謙信に渡した。このときのことを記録した『侍衆御太刀之次第』という記録には、直太刀の衆として、長尾景信・桃井清七郎に次いで、第三位に定長の名が記されている。謙信麾下における定長の地位の高さがうかがわれる。
元亀元年(1570)、越相同盟のときに人質として越後に送られた北条氏康の八男氏秀が謙信の養子となり景虎を名乗ると、定長はその守役を命じられた。これが、謙信の死後に起った景勝と景虎の家督争いである「御館の乱」に定長が景虎について、景虎の敗北後に越後を出奔することにつながった。
定長には弟孝長がおり、孝長は永禄四年(1561)の川中島の合戦に出陣し奮戦したことが『北越軍記』にみえ、ついで天正四年(1576)の越中攻めには謙信の旗本として従軍した。そして、翌五年の関東出兵にも従い厩橋城を経て関東の地で戦った。
孝長、魚津城に散る
天正六年三月、上杉謙信が死去するとともに養子である景勝と景虎とが家督をめぐって争った「御館の乱」が起った。定長は景虎の守役という関係から景虎に味方し、孝長は兄定長と袂を分かって景勝に加担し、乱後、出奔した兄に代わって不動山城主となった。
その後、織田信長の北陸進出が急になってくると、孝長は魚津城の守将に派遣され、天正十年(1582)六月三日、魚津城の戦いにおいて玉砕した。
魚津城の戦いは、富山城の攻防をきっかけに始まり、富山城を落した勝家らは上杉方の魚津・松倉の両城を攻囲したのである。四月、柴田勝家を総大将に前田利家、佐々成政、佐久間盛政、不破光治ら錚々たる織田の将領が率いる織田軍は猛攻撃をはじめ、魚津城将中条景泰らはただちに景勝に救援を求めた。しかし、景勝は信濃方面で織田軍と対峙していて援軍を出すことができなかった。
ようやく景勝がみずから援軍を率いて魚津城の救援に向かったのは五月も中旬を過ぎたころであった。ところが、魚津城を包囲攻撃している織田軍は四万を数える大軍で、景勝の率いる上杉勢は三千五百に過ぎなかった。しかも、景勝が春日山城を留守にしたことを知った信濃・上野の織田軍が越後に攻め込む気配を見せていた。ついに、景勝は魚津城兵を救出できないまま、兵を春日山城に帰すことに決した。
景勝は魚津城将たちに開城も止むなしと伝えたが、山本寺孝長をはじめ中条景泰・竹俣慶綱・吉江信景・同景資らは開城を潔よしとせず、徹底抗戦の道を選んだのである。やがて兵粮も尽き、落城が近いことを悟った城将たちは、自らの耳に穴をあけそれに自分の名前を書いた木札を鉄線で結わえ付け一斉に切腹して果てたのである。二ケ月に渡った魚津城の籠城戦は、戦国史上でも特筆される戦いであったといえよう。
ところで、魚津城が落ちた前日の六月二日に織田信長は京都本能寺で明智光秀の謀叛によって死去していた。あと一日、魚津城が織田軍の攻撃を防いでいたらその後のことは大きく変っていたものと思われるが、まことに歴史とは非情なものといえよう。
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・写真:孝長ら上杉勢が奮戦のすえに玉砕した魚津城址
その後の山本寺氏
孝長戦死後の山本寺氏の動向は詳らかではないが、江戸時代の米沢藩家中に山本寺氏の名がみえており、山本寺の家名が伝えられていたことが知られる。
ところで、上杉氏系図にみえる山本寺氏の初代朝定の子に定長と定種が記され、定種は為景のクーデターのとき、房能に従い天水越において房能とともに戦死した。しかし、のちに定実に味方して為景に敗れて越中に逃れ去ったたという景貞の名は、上杉氏の系図からは見出せない。山本寺氏は上杉氏一族であったことは間違いないようだが、その出自に関しては不明な部分が多いといえよう。
■参考略系図
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