越後斎藤氏は、上杉謙信に仕えて「越後の鐘馗」の異名をとった下野守朝信が有名である。 斎藤氏の出自に関しては詳らかではなく、越後守護上杉氏の被官として歴史に登場してくる。おそらく、上杉氏が越後守護となって越後に入部したときに関東から付いてきたものであろう。代々、現在の柏崎市にある赤田城主で下野守を名乗った。 斎藤氏が拠った柏崎の地は交通の要衝で、越後守護となった上杉氏にとってその地を領する斎藤氏、大江毛利氏一族の存在は無気味なものであった。そのため、上杉氏は斎藤氏・大江毛利氏らを奉行などに任じて守護の被官的国人領主として掌握していった。しかし、斎藤氏らの領地支配までは守護の干渉は及ばなかった。その意味では、守護に対してある程度の自立性を維持していたようだ。 残された文書における斎藤氏の初出は、寛正三年(1462)に斎藤定信が苅羽郡竹町の名田坪付注文を作成したものである。京都で「応仁の乱」が起った応仁元年(1467)に定信は寺領段銭の置文を作成している。そして、この年から翌年にかけて定信は武士にとって一所懸命の所領である苅羽郡竹町・天神堂の田地などを集中的に善照寺へ売却したことが知られ、応仁の乱に代表される当時の戦乱のなかで、戦費調達の必要に迫られた結果と想像される。 中世の戦乱 越後は南北朝時代に南朝方の新田氏が守護として勢力を振るったが、新田義貞が越前で戦死してのちは次第に南朝方の勢力は衰退し、上杉憲顕が越後守護に任ぜられると、以後、上杉氏が越後守護職を世襲した。室町時代の守護は将軍に近侍して在京することが多く、在国して領国の政務をとったのは守護代であり、越後上杉氏の守護代は長尾氏が世襲した。また、越後は関東に近いことから、鎌倉府の影響を受けることが多く、このことが在京の守護は親幕府派、守護代は鎌倉府寄りという政治状況を生むことになった。 室町時代の関東には、京都幕府の支社ともいえる鎌倉府が置かれその主として関東公方が政治の実権を掌握していた。しかし、関東公方はとかくとして幕府と対立姿勢をとることが多く、それを管領上杉氏がよく諌めた。しかし、公方の放埒によって「上杉禅秀の乱(1416)」「永享の乱(1438〜1439」などの戦乱が続き、永享の乱において持氏は幕府軍に敗れて自害し鎌倉府は滅亡した。 その後、持氏の遺児春王・安王兄弟を擁した結城氏朝が兵を揚げた。この「結城合戦」において守護代長尾邦景は越後軍を率いて出陣し、結城城落城のとき春王・安王兄を捕らえるという大手柄をたてた。このようにして、守護代長尾氏の権勢は絶頂となり、さらに将軍足利義教に接近してその権勢を極めようとしたが、義教が嘉吉の変で殺害されたことで、にわかに長尾氏の株は急落した。 そのような情勢下、守護職についた房定は帰国すると、長尾邦景を切腹させその子の実景を追放して守護権力を確立した。さらに、房定は関東の戦乱に対して管領上杉氏を支援して活躍、越後の名君とよばれる存在となった。 明応二年(1493)、揚北衆の有力者である本庄房長が守護上杉房定に謀叛を起こし、これに黒川頼実が加担した。房定は直臣の平子朝政・斎藤頼信、中条・発智氏らをもって叛乱の鎮圧に向かわせ、両軍は中条河原で激突、守護方は中条定資が討死するほどの苦戦であったが、戦いは本庄方の敗北に終わった。 越後の戦乱 房定は検地を進めるなどして領国体制の整備押し進め守護権力を強化したため、房定の代における越後は一応の平穏が保たれた。明応三年(1494)房定が死去すると房能が守護となり、房能もまた守護権力の強化をはかる政策を打ち出した。それは、守護代長尾氏や国人領主たちの既得権を脅かすものであり、長尾氏らは守護に対する不満を募らせていった。加えて、房能は気位が高く、打ち続いた関東の戦乱に出陣して疲弊した国人たちの窮乏を思いやる心に欠けていた。房能時代の守護代は長尾能景で、かれは守護に不満があるとはいえ、まだ守護に対して従順であった。しかし、永正三年(1506)、越中において能景が戦死して子の為景が守護代になると様相は一変した。 為景は父能景のように守護に従順ではなく、また、守護の検地などによって自己の権限を脅かされることを危惧した国人たちの心をつかみ、永正四年房能の養子定実を擁して謀叛を起こした。赤田城主の斎藤昌信は為景=定実方に属して守護勢と戦い、結果として為景の下剋上に加担したのである。 房能を討ち取った為景は越後の最高実力者となったが、永正六年、房能の兄にあたる関東管領上杉顕定が越後に攻め入り、敗れた為景と定実は越中に逃れた。この時も斎藤氏は為景方に属して関東軍と戦い、為景が佐渡に渡って態勢を立て直して越後に攻め入り顕定を討ち取るまで、よく為景方として関東軍と対峙した。 その後、守護定実が実家の上条定憲、琵琶島城主の宇佐美房忠を恃んで為景に抵抗したものの一蹴され、定実は守護の座を逐われ幽閉の身となった。いよいよ為景の権勢は絶頂となり、斎藤昌信は北条高広らとともにその政権の中枢を構成した。やがて、為景は越中に兵を進め、多くの国人がそれに従軍した。しかし、為景政権のもとで軍役を担わされる国人たちは財政を圧迫され、次第に為景に不満を抱くようになっていった。為景に対して抵抗を繰り返していた上条定憲はこのような国人らの気配を背景として、享禄三年(1530)兵を挙げた。この「上条の乱」に際して、斎藤定信は同じ刈羽の領主である毛利氏・安田氏、揚北の中条氏・本庄氏らと連盟して長尾氏に対抗したが、乱の途中で長尾方に転じている。 上条氏の乱は、幕府の仲介もあって和睦に終わったが、その後も上条氏は抵抗を止めず、そこに幕府の権力争いの影響などもあって、天文二年(1533)三たび定憲は打倒為景の兵を挙げた。今度は、揚北衆・長尾氏一族の多くが上条方に加担したため、次第に為景方の守勢となり、ついに天文五年(一説に天文十一年ともいう)万事窮した為景は家督と守護代職を嫡子晴景に譲って隠居し、その年の暮れに波瀾の生涯を閉じたのである。 上杉謙信の登場 新守護代となった晴景は、定実を守護に復活させるなどして事態を収拾していった。ところが定実の養子の一件をきっかけに越後はふったび内乱となった。このような越後の情勢に対して晴景は病弱のうえに越後一国を治める器量にも欠けていたため、国人衆らは長尾氏に対して反抗的な姿勢を崩さなかった。晴景は僧籍にあった弟を還俗させ景虎と名乗らせて、長尾氏の軍事力の一翼を担わせたのである。これが長尾景虎(のちの上杉謙信)の歴史への登場で、のちに晴景から家督を譲られて越後国主となった。この景虎に仕えて活躍したのが、定信の子朝信であった。 永禄二年(1559)朝信は長尾藤景・柿崎景家・北条高広と連署して景虎の命令を執行している。朝信ら四名は謙信政権下の政務奉行を務め、軍制上では七手組の隊頭でもあった。七手組の隊頭は四名のほかに、直江景綱・本庄慶秀・中条藤資であり、錚々たる武将ばかりであった。のちに、上条政繁・北条景広・柿崎景家・斎藤朝信・山本寺定景・竹俣慶綱・本庄繁長に定められ、上条・北条・柿崎、そして斎藤朝信の四名は奉行職を兼務した。 まさに、斎藤朝信は謙信麾下にあって、政軍事の両面で大きな信頼を得ていたことが知られる。また、永禄二年に謙信(当時は景虎)が上洛して帰国したとき、越後の諸将はそれを祝して春日山に進物を献上して忠誠を誓ったが、そのなかに斎藤朝信の名もみえている。永禄三年、謙信は越後に逃れていた関東管領上杉憲政の要請を容れて関東に出陣したが、この陣に斎藤朝信も加わり、翌年に憲政から上杉名字と関東管領職を譲られた謙信が鶴岡八幡宮で就任式を行ったとき、朝信は柿崎景家とともに名誉の太刀持ちをつとめた。 永禄四年の川中島合戦のときは、不穏な動きをする一向一揆に備えるため山本寺定長とともに越中に出陣して上杉本隊の川中島入りを助けた。 このように朝信は謙信に忠実に仕えて、謙信の重臣となり厚い信頼を受けた。天正三年(1575)の「上杉家軍役帳」によれば、「鑓 百五十三、手明二十、鉄砲十、大小旗十二、馬上十八で計二百十八」の軍役を担っていた。また、天正五年十二月、謙信は関東出陣にあたり上杉軍団動員名簿である「上杉家家中名字尽手本」を作成したが、これにも朝信の名前が記されている。 朝信は謙信に仕えて二度の越中攻めや下総佐野城攻めにも出陣するなど、武将としての勇猛ぶりはもとより内政にも有能であった。このような朝信の存在は、は武骨者の多い上杉謙信にとって頼もしいものであり、敵城を奪取した謙信が決まってその城将に朝信を任命したことは、政軍事の両面をそつなくこなす朝信を見込んでの人事であったといえよう。 謙信後の斎藤氏 謙信麾下の勇将・能吏として活躍を示した朝信は、謙信死後に起った上杉氏の家督争いである「御館の乱」には景勝方に属して、謙信同様に景勝から厚い信頼を受けるに至った。 「御館の乱」とは、天正六年(1578)三月に上杉謙信が急死したとき、謙信は後継ぎを決めていなかった。謙信には景勝と景虎の二人の養子があり、越後の諸将は景勝派と景虎派との両派に分かれて争った内乱である。景勝は謙信の姉が長尾政景に嫁いで生んだ人物で謙信には甥にあたっていた。一方の景虎は小田原の北条氏康の七男で、越相同盟のとき人質として越後に送られ謙信の養子となった人物で、その妻は景勝の妹という関係であった。 景勝には、斎藤朝信をはじめ直江景綱・本庄繁長・上条宜順ら長尾家譜代の諸将が付き、景虎には本庄秀綱・河田長親・上杉景信・北条景広・柿崎一族らの諸将が加担した。まさに、謙信遺臣を二分しての戦いとなったのである。戦いは、春日山城をいち早く押えた景勝の勝利に終わったが、越後国内を二年間にわたって戦乱に巻き込んだ乱の影響は大きかった。 乱にあたって朝信は、本庄秀綱が与板に浸入すると与板に加勢として出陣。さらに景虎派を支援する立場を示した甲斐の武田勝頼に対して、景勝の意を受けて勝頼と交渉し友好関係を築いた。乱後の天正八年(1580)三月、斎藤朝信は景勝から刈羽郡の六ヶ所と景虎派に加担して滅亡した三条城主神余親綱の旧領を与えられ、併せて嫡子乗松丸にも北条氏の旧領から恩賞地が与えられた。御館の乱で景勝を助けて活躍した斎藤朝信に、景勝は厚く報いたのである。 以後、朝信は景勝に仕えて越中へ侵攻してくる織田軍と対抗するべく武田家との同盟実現のために奔走、天正九年(1581)から越後侵攻をはじめた織田家の柴田勝家軍を越中魚津城で迎え撃ちこれを退けた。翌天正十年、景勝は織田軍の侵攻を受けた武田勝頼への加勢として竹俣・水原・松本・新津を出兵させたが、朝信は出兵を拒んでいる。おそらく、朝信の目には武田家は滅亡の道しかないと映っていたのであろう。同年四月、景勝は織田軍の進攻を阻止している魚津城将らの働きを賞し、能州衆および上条五郎・斎藤朝信を援軍として進発させた。以後、斎藤朝信の動向は記録から途絶えている。おそらく、その年のうちに死去したものと思われる。 戦国時代の終焉 朝信のあとは嫡子の乗松丸が家督を継ぎ、天正十二年景勝より一字を賜り景信を名乗った。このことは、斎藤氏に対する景勝の厚い信頼がうかがわれる。 その後、勝頼は豊臣秀吉に服し豊臣大名に列して豊臣家五大老の一人に任ぜられた。慶長三年(1598)、景勝は会津に転封されたが、景信はそれに従わずに越後に残ったようだ。そして、越後の領主となった堀家に仕えたとされる。景信が越後に残ったのは、一説にはその後の関ヶ原の合戦に対する景勝の深慮遠謀であったともいわれるが、その真偽はいまとなっては知り得ない。 景信の子の代に米沢に移り、上杉定勝から三百石を与えられ子孫は米沢藩士として明治維新に至った。 ■参考略系図 *詳細系図は不祥、古文書の記述から仮に作成。 |