ヘッダイメージ



志駄氏
竹に対い雀
(清和源氏為義流)
*「米府鹿子」より。


 志駄氏は、前九年の役・後三年の役で奥州を平定し、東国に源氏の基礎を築いた八幡太郎義家の子孫である。義家の嫡子為義の三男義広がその先祖となる。義広(のちに義憲)は、常陸国志駄に居住して志駄氏を名乗り、志駄三郎先生義広と称された。
 治承四年(1180)年十一月、義広は源頼朝の佐竹氏征伐の時、ちょうど以仁王の令旨をもて居合わせた弟新宮十郎行家とともに常陸の国府で頼朝に面会しているが、以後も鎌倉に出向かず、独自に勢力を保っていた。翌五年、鎌倉攻略を企て三万余騎の兵を率いて常陸国から下野国に至ったが、頼朝方の小山四郎・五郎らの攻撃にあい、あえなく敗走した。
 その後、義広は木曽義仲郡に合流して入洛した。寿永三年(1184)正月、頼朝方の範頼・義経の率いる義仲追討軍と戦って敗れ、義仲は近江国粟津の松原で討死した。そして、義広は同年五月、伊勢国羽取山において、頼朝方の波多野三郎・大井兵衛次郎・山口滝口三郎、ならびに大内惟義らと合戦、終日戦ったがついに敗死した。
 義広敗死後、子の義延は母とともに丹波国に逃れて上村に蟄居し、上村姓を名乗り丹波で成長した。そして、丹波上杉庄の領主である上杉氏に見い出され、武士として仕えた。その子義安は、上村小太郎と称し、父同様に上杉氏に仕えた。建長四年(1252)、鎌倉将軍藤原頼嗣が廃され、宗尊親王が将軍として迎えられた。このとき、上杉重房が宗尊親王に従って鎌倉に下向した。義安も重房に属して鎌倉に赴いた。そのとき、上村を改めもとの姓志駄氏に復し、志駄左近将監と称した。このように志駄氏は早くから上杉氏に属していたが、いつごろ越後に入国したのか、それを裏付ける史料は残されていない。

越後への入部

 志駄氏の系図によると、越後守護三代上杉房方が越後へ赴くときに景秀が供奉して、越後国夏戸を賜り、以後、代々夏戸に住んで上杉家に奉仕したとある。房方が守護として在任した応永二年(1395)から二十八年(1421)は、越後は平穏を保ち、上杉氏による越後支配の基礎が形づくられた時代で、越後各地の要所に上杉一族やその被官たちが次々と送り込まれた。志駄氏が越後国夏戸を賜ったのは応永七年ころであたと思われる。
 ところで、景秀の曾祖父にあたる定重は、応永二十二年(1415)十二月、大太刀を越後一の宮弥彦神社に奉納している。この大太刀は、備前国長船の刀工家盛の作である。長さ七尺二寸七分(2.204メートル)反り三寸一分(9.4メートル)という業物で、銘は表に南無八幡大簿菩薩右衛門丞家盛、裏に南無庵摩利支天 源定重 応永廿二年十二月とある。
 定重が大太刀を奉納した大太刀は、戦場で振り回せるようなものではない。おそらく、戦いが治まって世の中が平和になってから、神社奉納のために特別の大太刀を注文したと考えられる。そして、注文した背景は、南北朝時代の混乱の時代に定重は若いころから戦場を駆け巡った。つまり南北朝時代に生まれ、成人し、いくつかの内乱を経験した定重が、神仏の加護によって晩年に至ったことを感謝する心境が大太刀奉納となったものだろう。
 志駄氏の越後入国は、定重以前のことと推測されるのである。上杉重房の曾孫山内上杉憲顕は、足利尊氏の従兄弟として、北朝方に属し、関東管領として暦応三年(1340)から観応二年(1351)まで在職し、越後守護も兼ねた。そして、暦応四年、尊氏の命により越後南朝方を撃退のため越後に入国した。そして、各地に転戦してほぼそれを平定、その後国内整備に専念して、三年後の康永三年(1344)鎌倉に帰った。志駄氏も憲顕に従って越後入りをし、各地を転戦して南朝方を平定するのを助け、治安の確立に協力して越後にとどまったと考えられる。おそらく、定重の父義俊の時代であったと推測される。
 享徳二年(1453)九月、志駄房義は越後守護七代上杉房定から糸魚川西浜口における戦功を賞されて感状を賜っている。これは、守護の存在を半ば無視して、長年越後の実権を掌握していた守護代長尾邦景・実景父子を房定が攻め、邦景は自殺し息子の実景を信濃に走った。このとき、房義は房定方の武将として活躍し、勝利に大きく寄与したのである。

戦国時代の志駄氏

 志駄氏の領地を示す史料として、明応六年(1497)十二月、夏戸城主志駄春義が、父景義から譲渡された領地を明記した「志駄景義譲状」がある。この領地譲状には、越後守護上杉房能の花押と、裏判に守護代長尾能景の花押がある。そして、西古志郡内、吉竹・夏戸、同郷北曽根村、夷守郷の内三分一村などを譲られている。また同年の『国衙之帳』によれば、志駄氏の領地は遠く名木野方面まで及んでおり、志駄氏が単に夏戸地域だけの武将でなかったことが知られる。
 明応七年(1498)五月、越後守護上杉房能は「守護使不入之地」破棄の宣言をした。守護代長尾氏は「七郡の代官」として、府内・上田・栖吉・三条などの守護領に一族が割拠し、在京することの多い守護に代わって、一国の支配を推進してきた。これに対して、守護が領国の直接支配を強行しようとすれば「国中の御内・外様」の抵抗を受けざるを得なかった。
 永正四年(1507)八月、守護房能は守護代長尾為景の急襲をうけた。合戦に敗れた房能は、兄が関東管領を務める関東へ逃れようとして府内を出発した。しかし、追手に包囲されて東頚城郡天水で自害、一族郎党も残らず討死した。越後における戦国争乱の幕あけであった。この合戦に志駄春義は長尾方として活躍し、戦後、為景はその労をねぎらう書状を与えている。
 守護房能を滅ぼした為景は、その従兄弟定実を守護に戴いた。永正四年、春義は定実から「知行宛行状」をもらっている。
 永正五年十一月、定実は幕府より越後国守護職家督の相続を認められた。そして、翌年七月、房能の兄で関東管領顕定が越後へ攻め込み、上田長尾氏の地盤を拠点として、国内の過半を制圧し、いっきに府内を攻め落とした。為景は定実とともに越中へ逃げ落ちた。顕定は、為景に味方して弟房能を討った者を捜し、所領を没収したり、死刑に処すなどした。これは、国中の御内・外様の反発を招いた。
 一方、越中へ逃れた為景・定実は、徐々に反撃態勢を整え、翌七年四月、佐渡を経て蒲原津へ上陸、寺泊に進出して顕定軍に決戦を挑んだ。この為景の寺泊進出を許したのは、定実の甥である上条定憲の裏切りであたように、顕実の勢力は不安定であった。顕定は子の憲房に為景軍の先陣へ攻撃を敢行させた。しかし、敗北し、勢いにのる為景かたは府内を目指した。顕定は府内を引き払い上野へと向かったが、途中上田荘長森原で長尾為景と信濃の高梨政頼軍の追撃を受けて敗れ討死した。憲房は、妻有庄で敗残兵の収容にあたっていたが、父の死の報を受けて上野国白井城へ引き返した。この合戦において、志駄春義は、顕定方の要害であった黒瀧要害を攻略する戦功を挙げ、為景から賞賛の書状をおくられている。

上条氏の乱

 この勝利により、為景は越後の実質的な国主として振舞うようになった。それに対して定実は、実家の上条定憲を恃んで為景排斥の兵を挙げたが、為景は宇佐美房定を敗死させ、上条家を孤立させるなどして戦いを有利に進め、ついには自ら擁立した守護上杉定実を幽閉して乱を制圧した。
 しかし、その後も上条氏は為景と対立を続け、享禄三年(1530)、ふたたび兵を挙げた。為景は上条定憲を討つため柏崎に出陣した。この「上条氏の乱」は幕府の調停もあって、いったん鎮静化したが、幕府の政変などにより天文二年(1533)定憲は三たび挙兵した。
 志駄氏は上条方に与して九月、秋山氏らとともに上条城にほど近い刈羽郡北条城を攻めたが、為景方の安田景元・北条光広らの軍勢に撃退された。その後、越後の戦乱は上条方の優勢に推移し、三年後の天文五年四月、上条軍と為景軍は頚城郡夷守村三分一原で対峙した。合戦は為景方が勝利したものの頽勢は変わらず、ついに為景は嫡子晴景に家督を譲って隠居した。
 家督を譲られた晴景は定実を守護に復活させて上条氏らと妥協するなど事態の収拾を図り、次第に乱は終熄していった。ところが、今度は定実の養子の一件が引き金となってふたたび越後は内乱状態となった。晴景は生来の病弱のうえに戦乱の越後を治める器量にも欠けていた。そこで、晴景は僧籍にあった弟を還俗させ、景虎(のちの上杉謙信)と名乗らせて栃尾城に入れて軍事力の一端を担わせた。栃尾城主となった景虎は、中越の対抗勢力をたちまち平定し武名を大いに上げた。
 この景虎に着目したのが養子の一件で晴景と対立関係にある中条藤資で、それに高梨氏らが加担して景虎を国主にしようとする動きとなった。それを察した晴景と景虎との間が対立関係となり、双方に加担する国人らの間で合戦が繰り返された。事態の収拾のために定実が動き、その調停によって晴景が家督を景虎に譲ったことで越後の内乱もようやく終熄を告げ、越後の戦国史は景虎を軸に回転していくことになる。  その後、春義は病気勝ちとなり隠居し、家督を義時に譲った。義時の妻は本与板城主直江景綱の娘で、直江山城守兼続の妻と姉妹にあたる女性であった。
 義時は岳父景綱に従って川中島の合戦にのぞんだ。前後五回にわたって戦われた川中島の合戦のうちでも、永禄四年九月の第四回の戦いは最も激しい戦いが展開された。この激戦で武田方は信玄の弟信繁・両角豊後守らが、越後方では大川忠秀、そして志駄義時らが討死した。このとき、義時十九歳の若さであった。

その後の志駄氏

 義時の子義秀は二歳にして父を失った。志駄家は義秀が家督を継いだが、祖父春義が後見人となって志駄家を采配し、戦場へも春義が病をおして出陣した。しかし、春義も永禄六年(1563)に死亡した。義秀四歳の時であった。その後、義秀は直江景綱の妻に養育され、のちに景綱の養女と結ばれた。
 ところで、幼い義秀の後見人となった春義は、謙信に従い関東へも出陣した。謙信の関東出兵は、永禄三年(1560)九月、北条氏の勢力拡大を抑え、古河公方、管領上杉氏の支配復活を図るためで、北条方の諸城を攻略した。永禄六年、謙信は騎西城を攻略し、志駄春義が城代として城を預かった。このことは、春義のいままでの業績・力量が高く評価されたためと考えられる。
 謙信の関東における軍事行動は、永禄三年から十年の間、冬に出陣しては合戦をし、春になると帰国することが常となっていた。春義もそれに従って帰国し、永禄六年八月に他界したのである。家督を継いで六十六年、最後まで老骨に鞭打って活躍した武将であった。春義没後、家督を継いだ義秀は四歳であり、それから当分の間、志駄氏の戦場での活躍はおあずけとなった。
 天正六年(1578)、謙信が急死し、越後国内は大混乱となった。謙信は後継者を明かにしないまま死んだことから、二人の養子=景勝・景虎が家督争いとなったのだる。世にいわれる「御館の乱」である。志駄氏の御館の乱における動向は詳らかではない。しかし、上杉景勝家臣団の編成をうかがうことができる「文禄三年定納員数目録」によれば、志駄修理義秀が与板の在番として、篠井弥七郎と並んで筆頭を占めている。つまり、志駄氏は直江兼続の家臣団=与板衆の一員となっていた。
 志駄氏と直江氏との関係は深く、義秀の母は直江氏の女であり、幼くして孤児となった義秀は直江氏育てられ、景綱の養女を妻としていた。天正十八年(1590)、豊臣秀吉から上杉景勝に任せられた庄内支配は、直江兼続を中心に進められた。そして、志駄修理は与板衆の一人として兼続から庄内支配を担当していた。そして、庄内支配を担当しながら、本領地である「夏戸・吉竹・北曽根」も領地として存続していたようである。


■参考略系図
    



バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧