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越後中条氏
酢漿草
(桓武平氏三浦氏流和田氏族)
初めは三浦氏の代表紋である三つ引両を 用いたが、南北朝のとき足利尊氏に属し て功があり、酢漿草をその証しとして賜 り、以後、それを記念して酢漿草に替え たという。


 中条氏は越後の中世武家で、鎌倉時代から奥山荘を領した三浦和田氏の惣領家である。和田氏は三浦大介義明の孫で、杉本太郎義宗の子義盛が相模国三浦郡和田に住して和田を称したのに始まる。三浦一族は源頼朝の旗揚げに参加して活躍、鎌倉幕府が開かれると幕府の有力御家人となった。義盛の弟義茂は木曽義仲追討に功があり、その恩賞として越後奥山庄の地頭職を与えられた。義茂は弟の宗実に地頭職をゆずり、宗実のあとは義茂の子重実が奥山庄を領した。
 和田一族の惣領義盛は左衛門尉・侍所別当に任じるなど、鎌倉幕府の功臣として重責を担い一族繁栄の基礎を築いた。ところが、北条氏と対立するようになり、建保元年(1213)の「和田氏の乱」で一族のほとんどは滅亡した。そのなかで、一人幕府に味方して奮戦したのが重茂で、豪勇の誉れ高い朝比奈義秀と組み打ちして戦死した。重茂の死後、奥山庄の地頭職は妻の津村尼に安堵され、のち三男の時茂に譲与した。時茂は奧山庄に赴いて所領の経営にあたり、仁治元年(1240)には地頭請を行なっている。
 宝治元年(1247)、「三浦氏の乱」が起り、三浦泰村をはじめ三浦一族はことごとく討死し、三浦氏に加担した和田氏の主流も滅亡した。その中で、時茂は三浦一族に味方することなく、「赦免の教書」を与えられ、奥山庄地頭職を維持するとともに名字を後代に伝えることとなった。
 建治三年(1277)、時茂は三人の孫に所領を分割して讓与した。嫡孫茂連に奥山庄中央、茂長には北部、義基には紫雲寺潟東岸の平地を分け与えたのである。以後、茂連の子孫は中条氏を、茂長の子孫は本拠を黒川に移して黒川氏を、義基のあとは関沢氏をそれぞれ称し、それぞれ惣領制的支配を展開した。ここに奥山庄は大きく三つに分けられ、三家は幕府に対しては独立の御家人として対等の存在となった。そして、築地氏、長橋氏、羽黒氏、高野氏、金山氏などの庶子家が分出して、三浦和田一族は下越に繁衍した。

南北朝の内乱

 元弘元年(1331)の「元弘の乱」は、越後の三浦和田一族にも大きな影響を与えた。鎌倉幕府が滅び建武新政成立後に続いた混乱のなかで三浦和田氏の宗家中条茂明は所領を失い、その子茂継は必死に所領回復に動き回り、宮方と武家方の双方に出仕するという離れ業をやってようやく本領復帰を果たした。すなわち中条茂継(三浦和田三郎)は、元弘三年の大塔宮護良親王の令旨によれば忠功を賞され本領の安堵を受け、その一方で正慶二年(1333=元弘三年)の関東御教書によれば、幕府からも所領を安堵されている。まさに、中条茂継は家名と所領回復のために宮方・武家方の双方に二股をかけていたのである。しかし、それは一所懸命の土地を守るための行動であり、当時における武家の一般的な姿でもあった。
 元弘の乱のとき、黒川氏の当主は茂実で、茂実は新田義貞に属して鎌倉攻めに従軍し、その功により奥山庄中条・金山を恩賞として与えられた。これは茂実が越後守護新田義貞に宛てた訴状からうかがえるが、中条の地は三浦和田氏惣領である中条氏の重要な領地であった。当時の宮方の恩賞の濫発・混乱ぶりはよく知られているところだが、和田氏惣領中条氏は幕府色が強く、黒川氏は宮方色が強いというように、三浦和田一族として統一された行動をとっていなかったことがもたらした結果でもあった。しかし、これが同じ和田一族である黒川氏と中条氏とを対立関係におく要因となったのである。
 その後、「中先代の乱」制圧のために鎌倉に下った尊氏は、後醍醐天皇の召還命令を無視して鎌倉に居坐り続け、ついに新政に対して叛旗を翻すに至った。幕府滅亡後、宮方として行動していた中条氏が足利尊氏方に転向したのもこのころのことであった。
 延元三年(1338)新田義貞が越前藤島で討死すると、越後守護は上杉憲顕となった。そして、興国三年(1340)越後の新田義宗が兵を挙げたとき、中条氏は黒川氏・色部氏らとともに蒲原の南朝方小国一族を討っている。このころ、三浦和田一族は内部の対立があったとはいえ、越後守護上杉氏のもとで統一行動をとり南朝方に対した。以後の南北朝の内乱期に中条氏は一貫して足利方に立ち、戦乱を通じて庶子に対しての軍事指揮権を強化していった。すなわち、所領相続を惣領制から嫡子による単独相続を目指し、庶子を被官に組込んでいったのである。そして、南北朝の動乱が終結する十四世紀の末期ころには単独相続制をほぼ確立し、下越の有力国人領主に成長した。
 とはいえ、鎌倉期に分立した中条・黒川・関沢の三家はそのままで再編成されず、惣領制的御家人であった三浦和田氏は、各家とも別個の在地領主として成長していくのである。

越後の戦乱

 南北朝の内乱期、越後の国人領主たちは守護上杉氏の指揮に従ったとはいえ、たとえば守護上杉氏の被官のようにその支配下に置かれたわけではなく、独立した地域権力者として存在していた。なかでも、揚北地方の国人領主は鎌倉時代の地頭の系譜を引いており、あとから入ってきた守護上杉氏・守護代長尾氏よりも古くから越後に勢力を築いていた。それだけに、もっとも支配が及びにくく、守護権力にとっても看過できない問題であった。そのような揚北の地に、守護権力の楔が打ち込まれたのは、憲顕から三代目の守護房方のときで、一門を白河山浦に配置し拠点を築いたことによる。
 十五世紀になると、この地域を中心にして越後を二分する大乱が起きた。いわゆる応永三十年(1423)から数年間にわたって続いた「応永の乱」で、守護房方の死後に起こった後継者争いに端を発したものである。一方は山浦出身で幕府寄りの守護房朝の名代上杉頼方であり、方や鎌倉公方に通じる守護代の長尾邦景と実景の父子であった。山浦では、上杉頼藤と長尾朝景が守護方として挙兵した。
 この乱に際して、揚北衆の一員である中条房資は、本庄・色部・加地氏らとともに守護方に加担した。かれらは、阿賀野川を渡り邦景方の山吉久盛が籠る三条島城を攻めた。同時に、護摩堂山城、大面城にも攻撃を加え、一時、三条以北の諸将を守護方のもとに従属させたかにみえた。しかし、邦景は黒川氏や加地氏、さらに新発田氏や白河荘の国人たちを懐柔し寝返らせることに成功した。黒川氏らは突然に陣を払い、笹岡城に出張していた房資の退路を遮断しつつそれぞれの居城を固めた。一転、房資は窮地に陥り、頼藤はやむなく三条島城の包囲を解いて掘越要害を落し房資を救出した。そして、翌年、邦景方に寝返った黒川・加地・新発田氏らを攻めて降参させた。
 三十三年、房資は三条城の攻略にかかったが、ふたたび加地や新発田らが裏切ったため兵を退き川間城に籠った。そこへ、築地に陣を置く長尾定景と邦景の子実景が押し寄せ、それに加地や新発田の軍勢が加わり、さらに北方からは黒川らの勢が押し寄せ房資の命運は風前の灯となった。ところが、同年十月、中条氏の包囲網は突然に解かれた。これは、幕府が邦景を赦免したからで、房資は危地を脱することができ応永の内乱も終熄した。

守護上杉氏の全盛

 内乱を乗り切った守護代の長尾邦景は、在京の守護房朝をなかば無視して国政を壟断するようになった。そして、いままでの鎌倉公方よりの姿勢を改めて、将軍足利義教に急接近しようとした。
 このころ、鎌倉公方の足利持氏は反幕府の姿勢を強め、幕府と通じて京都と鎌倉の融和をはかろうとする関東管領上杉憲実との対立が決定的となった。そして、永享十年(1338)「永享の乱」が勃発し、敗れた持氏は自害して鎌倉府は滅亡した。持氏の遺子春王と安王は常陸に逃れて再起を図り、結城城主結城氏朝は兄弟を結城城に迎え入れて公然と兵を挙げた。これに、持氏恩顧の関東武士たちも加担して、鎌倉府再興の兵を挙げた。
 この「結城の乱」に対して、幕府は関東管領上杉憲実の弟清方を大将に命じ、幕府と守護による連合軍を結成して結城城を攻撃した。長尾実景も越後の国人を率いて出陣し、信濃の小笠原氏とともに城の東南に布陣した。結城方の抵抗は頑強であったが、翌嘉吉元年(1441)春、攻囲陣の総攻撃の前に城は陥落した。この結城合戦で、長尾実景は持氏の遺児らを捕らえるという抜群の功をたて、将軍足利義教から褒賞を得た。このころが、守護代実景の得意絶頂期であった。
 やがて宝徳元年(1449)、守護房朝が死去し房定が跡を継いだ。翌年、房定は越後に帰り、専横をふるっていた邦景と実景の父子を攻め、邦景を自殺させ実景は国外に追放した。この房定の登場により、越後国内の政治状態は安定するようになり、上杉家は繁栄の時代を迎えることになる。
 ところが、関東では新しく鎌倉公方になった足利成氏と管領上杉憲忠の対立が深まり、ついには合戦沙汰となった。そして、享徳三年(1454)憲忠は成氏によって殺害され、主を失った山内上杉家では越後にいた憲忠の弟房顕を呼んで管領職を継がせた。この「享徳の乱」に際して房定は、宗家の危機を救うため越後の有力国人を動員して出兵した。戦局は一進一退を繰り返したが、戦乱のなかで管領房顕が死去したため、房定の子顕定が後継に迎えられ管領職と山内上杉氏の家督を継承した。この関東の戦乱に対して幕府は管領方を支援して乱に介入、公方成氏は鎌倉を失って下総国古河に奔り「古河公方」と呼ばれるようになった。その後、房定が仲介の労をとり成氏と顕定を和睦させ、さらに古河公方成氏と幕府の和解(都鄙の合体)も実現した。ここに至って、関東にも平穏が訪れたが長くは続かなかった。
 今度は関東管領山内上杉顕定と、扇谷上杉定正の対立(長享の乱)が始まったのである。長享二年(1488)、両者は合戦におよんび、以後、十年間にわたって抗争が繰り返された。長享二年の戦いに房定は、子息の顕定を援助するため出陣したが、中条定資を上野白井に在陣させてみずからは帰国している。翌年八月、本庄時長の子房長が房定に反旗を翻すと、房定はただちに中条定資に命じて房長を鎮圧させた。房長の叛乱の原因は不明だが、このころになると、越後国内にも混乱の時代が訪れようとしていた。
 明応二年(1493)、本庄房長はふたたび房定に反抗した。守護房定は発智・平子・齋藤など中越の諸将に命じてこれを討たせた。このころ、本庄氏領である小泉庄に隣接する奥山庄では三浦和田一族である中条氏と黒川氏とが不和の状態となり、黒川頼実は房長に応じて共同戦線をとるようになった。両軍は市川氏らの説得もむなしく、胎内川の河原において衝突した。平子・齋藤の側には中条定資も加わって黒川を攻め、戦いは守護方が優勢で本庄へ進撃したが、黒川・長橋らによって後陣と遮断された定資は進退が窮まって討死してしまった

長尾為景の下剋上

 房定は、守護全盛の時代を現出した越後の名君であった。しかし、明応三年(1494)房定が死去して、房能が跡を継ぐと様相は一変する。すなわち、永正三年(1506)長尾能景の戦死により守護代を継いだ長尾為景が、領国の統制を強める房能に対して守護無力化闘争を挑んできたからであった。
 房能は男子がなかったため、上条上杉家から定実を後継者として迎えていたが、双方の仲は決して良好ではなかった。それにつけこんだ為景は定実に近付き房能の孤立化を露骨に推進したため、房能は両者を除くことを決心し、ひそかに諸将に令を発した。これを察した為景は手兵を率いて守護館を急襲し、関東に逃れようとした房能を追撃し天水において自害させた。永正四年八月のこのクーデターによって、越後の戦国時代が始まった。
 以後、越後国内は定実を擁する為景方とそれに反対する勢力とに分かれて熾烈な戦いが繰り広げられることとなる。同年九月、さっそく本庄・色部・竹俣の諸氏が定実・為景に反抗した。このとき、かれらと同じ揚北衆である中条藤資は為景方に属し、築地忠基・安田長秀らとともに本庄城へ押し寄せ猛攻のすえ城を落した。この合戦で本庄時長は嫡子弥次郎を討ち取られ、城を後に退去していった。この功で、藤資は定実から奥山庄荒川保のうち上条分を恩賞として与えられている。
 本庄氏が敗れたあとも、色部氏は頑強に抵抗を続けており、さらに色部氏は関東管領上杉顕定に援を求めた。しかし、顕定の越後侵攻は、遅々として進まなかった。その間に定実方は中条・築地・毛利氏らに命じて色部氏の立て籠る平林城を攻撃した。色部氏はなおも抵抗を続けたが、次第に追い詰められ、ついに永正五年五月、定実方に降伏した。関東管領上杉顕定が越後に攻め込んだのは、その翌年七月のことであった。そして、越後国内を蹂躙する勢いを示し、定実と為景は国内に逃亡した。翌年、態勢を立て直した為景は攻勢に転じ、兵を分けて手薄になっている顕定の中枢に猛攻を加え、ついに顕定を長森原に追い詰めて討ち取った。

越後の戦国時代

 こうして、為景・定実の政権が発足したが、実権は為景が掌握し定実はお飾りに過ぎない存在であった。定実は為景の横暴に対して、実家の上条上杉氏の上条定憲、琵琶島城主宇佐美房忠を味方にして為景排斥の兵をあげた。しかし、為景によって一蹴され守護の座を逐われ幽閉の身となった。以後、為景が越後の絶対権力者となったが、上条氏らは為景に対する反抗を止めず、享禄三年(1530)に「上条の乱」が起った。
 越後は為景方と上条方とに分かれての内乱となり、中条藤資は色部・本庄・黒川氏らとともに為景の下を離れて上条方に与した。上条氏と為景の闘争は熾烈を極め、揚北衆は定憲を支えて活躍した。かれらは、さらに陣容を固めるため、羽前国砂越城主砂越氏維に来援を要請している。また、本庄房長・色部弥三郎・鮎川清長・水原政家・新発田綱貞・黒川清実・中条藤資らが連名で砂越氏に送った文書がある。
 そのなかで、藤資だけは花押がないのである。このことについて「藤資こと歓楽の故に判形(花押)能わず候」との断り書が残されている。おそらく、諸将が集って上条定憲応援態勢を固める作戦を練った。当然、そのあとには酒が出た。その酒に藤資は酔っぱらってしまい、判形することができなかったというのである。藤資の風貌と、会議の臨場感が伝わり興味深い。
 上条氏の乱は、翌享禄四年に幕府の調停もあって為景方の勝利に終わった。ところが、為景が後楯とする幕府内部で政権争いが起り、為景に近かった管領細川高国が敗死した。この政変によって、定憲は天文二年(1533)三たび為景打倒の兵を挙げた。この挙兵に際し、これまで為景に属していた国人領主・長尾一族のなかから為景を見限り上条方に加担するものが続出した。そのような状況のなか、藤資は節を変えることなく毛利一族らとともに為景方として奮戦したが、為景は次第に追い詰められていった。
 天文五年、為景は府中に進撃する上条方の宇佐美四郎右衛門尉と頸城郡の三分一原で戦って撃退したが、ついに四面楚歌に陥り家督を嫡子の晴景に譲って隠退、その年の暮れに波乱の生涯を閉じた。為景の死によって反対勢力も相手を失ったかたちとなり、乱は自然に終熄していった。

定実の守護復活

 為景のあとを継いだ晴景は生来の病弱であり、戦乱の越後を統轄する能力にも欠けていた。晴景は反抗する国人衆らと妥協するため、為景に幽閉されていた定実をふたたび守護に奉じて事態を収拾しようとした。一方の定実にとっては思い掛けない事態の転変であった。しかし、守護に返り咲いた定実には男子が無かったため、定実は自分の死とともに守護上杉氏が断絶することを憂いて養子を迎えようとした。そして、定実が白羽の矢をたてたのは、みずからの曾孫にあたる伊達稙宗の子時宗丸(のちの伊達実元)であった。
 この時宗丸の母は藤資の妹であったことから、藤資は中心となって養子縁組を押し進めた。しかし、時宗丸が定実の養子になると中条氏の勢力が強化されることは必然であり、それを嫌った本庄・色部氏ら他の揚北衆は養子の一件に反対した。守護代長尾晴景も定実に後継者のできることは、みずからの不利につながることになり養子反対の立場を示したのである。
 この養子の一件を引き金として越後はふたたび内乱状態となり、藤資は伊達氏と連合して本庄房長の本庄城を攻めたて、伊達・上杉両家の養子縁組を熱心に推進した。ところが、伊達家中においてもこの養子縁組に反対する動きが出てきた。その中心人物となったのは稙宗の嫡子晴宗で、稙宗は晴宗に捕らえられて幽閉されてしまった。これをきっかけとして伊達氏は稙宗と晴宗の二派に分かれて内乱状態となり、これに勢いを得た色部・黒川・鮎川氏らは養子縁組の中心人物である中条藤資を攻撃した。一方、伊達家中における内紛も泥沼化し、父子骨肉の争いは以後十年間に渡って続いた。この乱は「天文の乱」と呼ばれ南奥州の諸将を巻き込み、奥州戦国時代における歴史的事件となった。その結果、時宗丸養子の一件も沙汰止みとなり、落胆した定実は引退しようとしたほどであった。
 養子の一件によって守護代晴景と対立関係になった藤資は、晴景に同調する黒川氏らと合戦を繰り返した。この間、晴景は抵抗する国人らに対抗するため、僧籍にあった弟の景虎を還俗させて栃尾城主とし、長尾氏の軍事力の一翼を担わせた。このとき景虎は十四歳であり、周辺の豪族は若輩と侮って戦いをしかけたが、景虎はただちに周辺を平定してその武名を高めた。
 この景虎に着目したのが晴景に抵抗していた藤資とその舅である高梨政頼らで、かれらは景虎を越後の国主に擁立しようと動き出した。これに、本庄実乃・大熊朝秀・直江実綱・長尾景信らが加担した。この動きを察知した晴景との間で合戦となり、晴景方には藤資と対立する黒川清実、上田長尾政景らが加わり戦いが繰り返されたが、次第に景虎方の優勢となっていった。この事態を憂いた守護定実が調停に立ち、晴景に隠退を進め景虎に家督を譲らせたことで内乱は終熄していった。

景虎政権の発足に尽くす

 かくして景虎の擁立に活躍した藤資は景虎から篤い信頼を得て、無二の忠臣として仕えた。天文二十三年夏の川中島合戦には小荷駄奉行を命じられて出陣、武田氏に通じた百姓らの攻撃を受けたが撃退して職責をまっとうした。つづく弘治三年(1557)の川中島の戦いには、宇佐美・斎藤氏らとともに、武田方の小笠原・穴山らの備えを撃破する功をたてている。
 ところが、弘治の川中島の戦いから凱旋した景虎が突然出家して高野山に上ると言い出す大事件が起こった。景虎は越後の国主となったとはいえ、上杉氏の被官、国人領主、長尾氏の被官らの間で対立が止まず、すっかり嫌気のさした景虎は一国の政治を投げ出す気持ちになったようだ。これを知った長尾政景らの越後諸将は景虎を追い掛けてその翻意をうながし、景虎もこれをいれたため一件落着した。このとき、藤資は景虎に対して人質を差し出し、今後とも無二の奉公を誓う起請文を差し出した。
 これに諸将もならったことで、越後一国は景虎の支配に帰したのである。この事件における藤資の行動を景虎は一番の功とし、以後、藤資は越後諸将の首座に置かれたのである。ところで、『上条家記』によれば、景虎出家の一件は景虎が密かに藤資と示し合わせた計り事であったと記している。そのようなこともあったかも知れないが、結果として景虎体制は磐石となり、中条氏も上杉・長尾一族を除けば家臣筆頭の地位を得たことはまぎれもない史実である。
 永禄二年(1559)四月、景虎は二度目の上洛を決行し、正親町天皇・将軍足利義輝に拝謁して越後の武威を高からしめた。謙信は約六ヶ月間京都に滞在して十月に帰国した。謙信のこの壮挙を祝って配下の諸将が太刀を贈呈した。その目録である「侍衆御太刀之次第」によれば、まず直太刀の衆として、一門の古志長尾・桃井・三本寺(山本寺)の名があり、次に披露太刀の衆として越後諸将の名が列記され、その第一位は中条藤資・第二位は本庄繁長で、藤資が景虎麾下にあって家臣筆頭の地位にあったことを示している。

上杉謙信麾下の勇将

 話は前後するが、天文二十一年、関東管領上杉憲政が北条氏に逐われて景虎を頼ってきた。景虎は憲政を庇護し、その要請をいれて関東に兵を出した。永禄三年から四年にかけて北関東を平定、ついで小田原城を包囲、攻撃した。そして、憲政から上杉名字と関東管領職を譲られ、鶴岡八幡宮において就任式を執り行った。この間、藤資は越後軍の先陣をつとめ、就任式にも供奉、同年六月の沼田城攻めにも参陣、一番乗りの手柄を立てている。
 越後に帰国した長尾景虎改め上杉政虎(以後謙信と表記)は川中島に兵を進め、もっとも激戦となった第四回の川中島の合戦に臨んだ。藤資は謙信旗本の後陣をつとめ、武田軍を相手に奮戦した。はじめは越後勢の優勢であったが、信玄の嫡子義信の攻撃によって謙信軍は苦戦に陥り乱戦となった。
 藤資は武田軍に囲まれ悪戦苦闘したが、よく謙信を助け戦った。そこへ、武田の別働隊に備えていた宇佐美らが駆け付け、越後勢は武田勢の攻勢を退けた。ところが、今度は武田の別働隊が戦場に駆け付けたため、ついに越後勢は兵をひき武田勢も追撃には及ばなかった。この戦いにおいて、中条氏の被官・家人らの多くが討死、戦後、藤資は謙信から「血染の感状」を受けている。
 謙信が何人に感状を与えたかは明らかではなく、現存する感状そのものも『甲陽軍鑑』の創作に基づいて、江戸時代に作られた偽物であろうとする説もあった。しかし、現在では「血染めの感状」は真実のものであることが、史料的に裏付けられている。そして、『上杉年譜』には、中条藤資に宛てられたものが載せられれている。
 永禄八年、藤資は七手組の隊頭の一人に任ぜられ梅波斎を号した。そして、同十一年二月、病をえて波乱に富んだ生涯を閉じた。享年七十七歳。藤資の活躍は、謙信の生まれる二十数年も前から始まっており、「血染めの感状」をもらったときは八十歳前後の老武将であった。まさにその生涯を戦陣に明け暮れた人物といえよう。

景資・景泰の奮戦

 藤資のあとは嫡子景資が遺領相続を果たし、中条氏家督となった。同年、本庄繁長が謙信に謀叛を企て中条景資にも誘いの密書を送った。景資は密書の封をそのままに謙信に送り届け、謙信の征伐軍に加わって本庄城攻撃に出陣した。以後、謙信に従って越中・関東に出陣したが、天正元年(1573)、働き盛りの四十二歳をもって死去した。景資には男子が無かったため、謙信はその女子に吉江氏から景泰を迎えて中条氏を継がせた。
 景泰は剛毅な性格で胆略にもすぐれ、謙信から篤い寵愛を受けた。天正二年、謙信は加賀攻めを行いその陣に景泰も加わった。そして、矢玉を恐れず常に先途を走ったため、謙信は景泰の剛毅が過ちにつながることを憂いて訓戒を与えたが、景泰は承知しなかったため、ついに押し込めとなった。このことは、謙信の景泰に対する思い遣りであり、実父の吉江氏にその深意を書状で書き送ったことが『中条氏家譜』から知られる。
 天正六年三月、上杉謙信が急死した。謙信は後継者を決めていなかったため、ともに養子である景勝と景虎の間で家督争いが起こった。この「御館の乱」に際して景泰は景勝派に属して活躍、反景勝派の同族黒川氏に本城鳥坂城を奪われるということもあったがのちに復した。翌七年、御館落城後の三条・大茂・栃尾などの攻略に従軍して数々の功をあげた。それらの功により、戦後、本庄美作守の遺領などから加増を受けている。
 天正十年、織田軍が加賀・越中へ侵攻してきた。景勝はただちに景泰に命じて越中魚津城へ加勢に向わせた。このとき、実父吉江織部・竹俣三河守・山本寺伊予守らも同行し、越中魚津城を固めた。勢にまさる織田軍は魚津城を猛攻し、景泰らの籠城軍は必死に戦った。その攻防は三月から五月に至るまでの九十日間におよんだ。しかし、兵粮、矢玉も尽き越後からの後詰めもなく、景勝からは開城も止むなしとの書状がきた。しかし、籠城諸将は敵に降ることを潔しとせず織田軍への抗戦を続けたが、ついに六月三日、景泰以下の越後諸将はことごとく討死した。
 戦死した景泰には三人の子供があったが、長子一黒丸(のちの三盛)はわずかに五歳の幼児であった。しかし、景勝は景泰の忠死を憐れんで、一黒丸に中条氏の家督を継がせた。とはいえ、成人するまでの家政は中条氏重臣の羽黒信濃・西若狭・東名左衛門らに預け、築地修理を名代後見と定めた。
………
写真:景資・景泰ら上杉勢が奮戦のすえに玉砕した魚津城址


会津へ、そして米沢へ

 天正十年、武田氏を滅ぼした織田信長は着々と上杉氏包囲網を締め付けていったが、同年六月、本能寺の変で横死した。信長の天下統一の事業は羽柴秀吉が継ぐかたちとなり、九州の島津氏を屈服させ天正十八年、小田原北条氏討伐の軍を発した。七月、北条氏も屈服させた秀吉は「奥州仕置」を行い、天下統一事業を完成させた。
 この間、上杉景勝も秀吉に属し、小田原征伐、奥州仕置にも従った。豊臣政権下において五大老に列した上杉景勝は、慶長三年(1598)、越後から会津への転封を命じられ、中条氏もそれに従った。そして、米沢鮎貝城主に任ぜられ一万石を賜り、外に同心分として三千三百余石を預けられた。ここにおいて中条氏は、三浦和田宗実より四百三十余年を数えた奥山庄領主としての歴史に幕を閉じたのである。
 慶長五年、関ヶ原の合戦が起こると上杉氏は西軍に加担し、執政直江兼続を大将に最上攻めの軍を起した。このとき、中条三盛も兵を率いて杉原常陸守・色部修理大夫らとともに最上に侵攻、三盛は八ツ沼城を攻めまさに山形盆地に入ろうとした。そのとき、関ヶ原における西軍敗北の報が伝えられ上杉軍は最上領から撤収した。この撤収戦の殿は直江兼続がつとめ、その用兵の妙は追い討ちをかける最上勢の舌をまかせる絶妙のものであったと語り伝えられている。
 関ヶ原の敗戦により、翌年、景勝は会津から米沢へ減封処分となり、中条氏も米沢に移り知行三千三百三十余石を与えられ、引き続き鮎貝城代を務めた。翌年、弟や叔父に分知し三盛自身は千八百石となった。その翌年、最上陣で受けた傷が悪化して鮎貝城で死去した。そのあとは嫡子で五歳の一黒丸が継いだが、叔父資種と家老の築地資豊との間で争いがあり、一黒丸は米沢城に引き取られた。一黒丸はのちに盛直を称し、子孫は上杉家の侍大将・執権を務め上杉家の重臣として明治維新に至った。
 中条氏は三浦和田氏の惣領として、鎌倉時代から戦国時代まで奥山庄に勢力を維持し、米沢藩士として近世に至った。戦国時代は、中小国人の大勢力に対する向背は状況に左右されて必ずしも一定しなかった。しかし、中条氏は概ね節操を通してよく時勢を見極めて進退した。それは一族である黒川氏の向背が一定しなかったことと比べるまでもなく、賞賛に値するものである。そして、房資・藤資らの動きは、名将と呼ばれにふさわしいものであり、中条氏中興の人物と賞されよう。

中条氏氏余禄

 中条氏と黒川氏とは同じ三浦和田一族でありながら、南北朝期から戦国時代まで対立を続けた。『庶子黒川家家譜』に興味深い話が記されている。それは、黒川・中条両氏の確執に関するもので、黒川氏が中条氏の領地を侵して合戦となったとき、黒川氏は色部氏に支援を求めた。その結果、中条氏と色部氏との戦いとなり、中条氏は合戦のとき「山」という文字を紋に用いたことから、色部氏は山の森林を剪るという意味で「山刀」の字を紋に用いたという。そして、中条・色部の両氏はこれを隠紋にしたと伝えている。
   また、あるときの合戦で黒川氏は中条氏から攻められ、危難に陥って大豆畑に身を隠したところ、鳩が飛び立ったので、中条氏は鳩のいるところには軍勢はいないと、引き揚げたため黒川氏は一命を拾った。あとで、刀の目貫を見ると目貫に彫ってあった鳩が一羽なくなっていたので、その目貫を家鳩と名付けて家宝にしたという。
 このように、黒川氏と中条氏は仲が悪く確執を続けた。しかし、両家の進退を見比べてみると、中条氏は概ね時勢を見極め節操を通したが、黒川氏は守護、守護代に反逆することが多かった。なかでも黒川氏実は所領および境界について訴訟を起こし、中条氏を苦しめた。そのような中条氏と黒川氏の生きざまの結果は、中条氏が米沢上杉家の重臣に、黒川氏は一時上杉氏の禄を離れて浪人しのちに帰参して中堅藩士として続くというこことにつながったといえよう。三浦和田氏の動向は、「中条家文書」「三浦和田文書」が比較的よく保存され、中世越後の状況をよく伝えている。

●鳥坂城 (埋もれた古城)

■参考略系図

●三浦和田氏系図

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