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上田長尾氏
(上杉氏)
九曜巴
(桓武平氏良文流)


 上田長尾氏は越後守護代長尾氏の一族で、上杉氏に属して越後守護代となった長尾景廉の嫡子で魚沼郡司の地位にあった新左衛門尉某の後裔にあたるという。また、六日町地方の伝承によれば、上田坂戸城を築いたのは長尾宗景であるという。古志長尾氏の祖に備中守宗景がいることから、これと系譜の上で混乱したものであろう。
 一方、『古代氏族系譜集成』にみえる「長尾氏系図」では新左衛門尉の弟にあたる豊前守景春の子孫となっているが、長尾新左衛門尉某の後裔とするのが妥当と考えられる。

上田長尾氏の勢力伸張

 越後守護は上杉氏が世襲し、越後国内の荘園と国衙領は越後守護領と関東管領家領とに分けられた。その後、関東管領家領は扇谷上杉氏に伝えられ、さらに越後守護上杉氏に伝えられた。その後、康暦二年(1380)、幕府の命によって魚沼郡妻有庄は関東管領上杉憲方に還された。このことが、上田長尾氏を信濃川流域の波多岐庄と妻有庄に勢力を拡大するきっかけとなった。
 このように上田長尾氏は魚沼を拠点に勢力を築いてきたが、もともとは守護上杉氏というよりは関東管領上杉氏の直属被官という性格をもっていた。その意味では関東長尾氏である白井・足利・総社長尾氏などに近い存在であったようだ。そして、永正の乱以前においては守護代である府中長尾氏との結びつきもそれほど緊密なものではなかった。
 上田長尾氏は、南北朝時代から上田庄の在地支配をゆだねられ、上田坂戸に要害を築いて、南魚沼地方を支配する魚沼郡司ともいうべき権限を掌握していた。これが上田長尾氏と称される所以ともなったのである。  上田庄は上杉氏が越後に入部した当初から重要な拠点であり、上田庄は越後国衙領の半分とともに南東管領家の所領であった。そして、貞治二年(1363)、上杉憲顕が越後守護に任ぜられたとき、長尾氏も上田庄に入部したものと思われる。
 室町時代中期以降、上田長尾氏は南魚沼地方の栗林氏、樋口氏などの近隣土豪の多くを被官として勢力下におさめていった。そして、これらの土豪衆は戦国時代に上田衆とよばれる上田長尾氏の家臣団を形成していった。さらに、広瀬郷の穴沢氏、波多岐庄の下平氏なども勢力下におき、それらの被官をも傘下におさめ、領主としての勢力を拡大していったのである。そして、永正年間までに、栗林・穴沢・発智氏などの被官化に成功している。

戦国時代の幕開け

 南北朝の内乱以後、日本国内は慢性的な戦乱が続いていた。関東では「上杉禅秀の乱」「永享の乱」「結城合戦」と、関東公方足利氏と関東管領上杉氏を軸として合戦は止むことがなかった。応仁元年(1467)に起った「応仁の乱」をきっかけとして世の中は下剋上の風潮が吹き荒れる戦国時代になり、それは越後にも影響を及ぼしてきた。
 一方、関東では応仁の乱に先立って「享徳の乱(1454)」が起り、これが関東における戦国時代の幕開けとなった。越後守護上杉房定は管領上杉氏を応援し、管領房顕が戦死するとその後継として二男の顕定を入れるなどして、関東の戦乱に主導的立場でのぞんだ。この房定の命によって、越後の国人領主たちは関東に出陣し諸処の戦いで勇名を挙げている。また、房定は領国の支配強化をはかるため検地を行うなどして、越後守護上杉氏の全盛時代を築いた。
 房定のあとを継いだ房能も守護権力を強化するための施策を打ち出したため、守護代長尾氏との対立を生み、長尾為景は永正四年(1507)守護権力無力化闘争を挑んだ。房能の養子定実を擁して挙兵した為景は、守護の検地に不満を抱いていた国人衆らを味方にして、たちまちのうちに守護勢を敗り房能を討ち取るという下剋上をなしたのである。この「永正の乱」によって、越後の戦国時代が幕開けしたとするのが定説である。その後、房能の兄にあたる関東管領上杉顕定が弟の仇討ちと越後の所領を確保するため越後に進攻してきた。このとき、古志長尾房景は顕定軍に属している。敗れた為景と定実は越中に逃れたが、佐渡に渡り態勢を立て直すと蒲原に上陸した。
 為景の進攻に対して蔵王堂城主の長尾房景が立ちふさがり、房景軍は為景方の主な武士百余人を討ち取り、残る者を信濃川に追い落としたという。戦況は為景にとって不利だったが、次第に巻き返し作戦が効果をあげ、信濃口では高梨政頼が動き、さらに定実の実家である上条上杉氏の定憲が挙兵したことで為景軍は大きな力をえて椎谷に陣を布いた。これに対して顕定の子憲房が軍勢を集めようとしたが、顕定の占領地政策の苛烈さによって国人衆らは憲房に応じるものは少なかった。
 為景方有利に動くなかで顕定方にたっていた長尾房景が為景方に転じ、越後府中では土一揆が起り、さらに関東では小田原北条氏が台頭するなどしたため、ついに顕定は関東を目指して軍を引き上げることに決した。上田長尾氏の拠る坂戸城はその退路にあたっていたが、長尾房長も為景に転じてこれを遮断したため、顕定は追いすがる為景軍と長森原で一戦を交えたが敗れた顕定は討ち取られてしまった。ここに至って関東管領家領は越後から消え、そららの所領はすべて上田長尾氏の直領と化したのである。

越後、永正の乱

 かくして、越後は定実を擁した為景が権勢を振るうようになる。この事態に際して定実は為景に抵抗を示し、実家の上条定憲・琵琶島城主の宇佐美房定らの協力を頼んで兵を挙げた。しかし、為景によってたちまち鎮圧され定実は幽閉の身となり、為景の権勢はさらに強固なものになった。
 上条定憲は為景に敗れたもののその後も抵抗を止めず、虎視眈々と為景のすきを狙っていた。そして、享禄三年(1530)に至って「上条の乱」を起こした。この乱に、長尾一族の上田城主長尾房長は為景の統制強化に反発する揚北衆らとともに上条方に加担して為景に対抗した。初めは、幕府権力を後楯にする為景によって揚北衆らの足並みも揃わなかったが、幕府内の権力争いによって為景に近い細川高国が失脚したことで、にわかに為景の権勢に翳りがみえた。この情勢を捉えた上条定憲は天文二年(1533)巻き返しに出た。これに、為景の権力後退をみてとった長尾房長・揚北衆らが加担したことで上条方は中越・下越を制圧する一大勢力となった。
 越後国内は為景方と上条=守護方とに分かれて対峙していたが、翌天文四年の夏になると上条方の諸将は上条城に集結し、為景方との決戦を期しつつあった。対する為景は上田領に侵攻して領内に放火するなど、房長の背後を脅かす示威活動を展開した。
 その後、上条定憲は揚北衆の結束を図り、さらに庄内の砂越氏維らに支援を依頼するなどして、為景勢の攻撃を受ける宇佐美救援に駆け付け、長尾房長も攻勢に転じた。上田勢は為景に対して激しい対抗意識を燃やして、為景方の下平ら数百人を五十沢口で討ち取り、上条勢とともに下倉山城を包囲し猛攻撃を仕掛けた。
 戦線は次第に為景方の不利へと推移し、天文五年四月になると上条方の宇佐美・柿崎らは府中をめがけて進攻し、為景は高梨政頼の応援をえて上条勢を三分一原で迎え撃ち、数千人を討ち取るという大勝利をえた。三分一原を突破されれば、春日山城に立て籠るしか手はなくなるだけに為景勢も必死であった。しかし、この合戦の勝利も府中の防衛を果たしたものに過ぎなかった。ついに万事窮した為景は家督を嫡子の晴景に譲って隠退、その年の暮れに波乱の生涯を閉じた。

長尾景虎の登場

 長尾晴景は為景が幽閉していた定実をふたたび守護に迎え、揚北衆ら国人領主と和睦した。長尾房長も晴景の妹を嫡子政景に迎えて晴景と和睦した。このようにして内乱も次第に終熄していった。守護に帰り咲いた定実は男子がなかったため、外曾孫にあたる伊達稙宗の子時宗丸を養子に迎えようとした。時宗丸の母は揚北衆の有力者中条藤資であったことから、他の揚北衆が中条氏が強力になることを嫌って養子の一件に反対姿勢を示した。これに晴景も同意を示したことで、ふたたび越後国内は戦乱が起り、晴景は弟の景虎(のちの上杉謙信)を栃尾城に入れて事態の収拾にあたろうとした。
 景虎は栃尾城にあって、よく対抗勢力を制圧しその武名をあげ多くの国人が景虎に心を寄せるようになり、ついには晴景に代わって景虎を国主にしようとする動きになったのである。以後、晴景と景虎派に分かれて内乱となり上田政景は晴景方に加担して景虎方と対立した。このとき、古志長尾景信は景虎擁立の中心人物として活躍、上田長尾氏と戦いを交えた。その後、内乱を憂いた守護定実が調停に立ち晴景に隠退を進め、景虎に家督を譲らせたことで内乱は終熄した。
 長尾景虎が家督を相続したことで、苦境に追い込まれたのは政景であった。おそらく、政景は病弱の晴景に代わって守護代の地位を望んでいたと思われ、景虎に対立した身の始末もつけようがなかった。さらに、上田衆と称される政景の臣下は府内上杉氏というよりは関東管領上杉氏に結びつく伝統があった。加えて、妻の実弟である若い景虎を侮る気持ちもあり、政景は府内に対する自立的立場に固執し府中参勤も行わなかった。

長尾政景の反乱

 政景は父房長以来守護代長尾為景と対立し、ついには為景を隠退に追い込んだこともあり、上田長尾氏の実力を過信して客観的な情勢判断も見誤ったといえよう。春日山城に入って守護代となった長尾景虎は守護を奉じた越後国内の最高権力者であり、かつて守護方を標榜したころの盟友であった中条藤資は景虎の無二の忠臣となり、他の揚北衆である黒川治実と色部勝長とは交戦中で協力を頼める状況にはなかった。いままで守護方の有力者として行動してきた上田長尾房長・政景父子の立場は、すでに越後の一地方領主に過ぎないものとなっていた。そのような状況下にあって政景は父房長以来の盟友である宇佐美定満と平子房政を恃んだが、宇佐美氏は景虎派に気脈を通じており、平子氏は政景の家臣金子尚綱と宇賀地をめぐって争っていた。
 天文十八年、関東管領上杉憲政は小田原北条氏に圧迫されて、平子房政を通じて越後に救援を依頼してきた。景虎はこの救援をいれたが、関東に出るには上田庄の存在が問題となり出兵にまでは至らなかったようだ。その後、さらに上杉憲政は北条氏康の攻勢にさらされ、平子房政のところへ助けを求めてきた。房政はこれを景虎・定実に報告した。
 関東出陣を決した景虎は、越後諸将に出陣の用意を命じた。これに対して上田長尾政景は景虎の命令を承知すれば配下の精鋭を関東に送ることになり、何よりも景虎に臣従することになる。ここにおいて、政景は諸軍勢の上田庄通行を阻止し、景虎に対する抵抗姿勢を明確にしたのである。ここに、景虎は上田討伐の絶好の機会をつかむことができた。いいかえれば、景虎に反抗的姿勢を続けてきた政景は、巧妙な景虎の計略にはめられたのである。
 天文十九年春、上杉定実が死去したことで景虎は名実ともに越後の国主となった。翌天文二十年、景虎方は上田長尾方の発智長芳の居城を攻撃した。古志長尾氏も行動を起こし、政景方の佐藤彦八郎父子を討ち取った。上田勢も上野城に押し寄せたが、中条氏らによって撃退された。戦いは景虎方の優勢に進み、八月にはみずから出陣することを平子房政に通報している。ここに至って、ついに政景は父房長とともに景虎に誓紙を出してその軍門に降ったのである。
 景虎は代々府中長尾氏に対立していた上田長尾氏を赦す気はなかったようだが、姉が政景の室であったことからついに政景を赦した。そして、無条件降服した政景の所領は削減されて、宇佐美・平子氏などに与えられた。こうして、政景は景虎に仕えてその一武将となったのである。

上杉謙信の時代

 景虎に服してからの政景は謙信が出陣したのちの春日山を留守するなど、一定の信頼を回復して「上杉二十五将」にも数えられた。弘治三年(1557)、景虎が突然に出家するため高野山に上ると言いおいて春日山城を出奔するという事件が起った。当時、景虎は越後の国主になったとはいえ、上杉氏の被官、国人領主、長尾氏の被官らの間で対立があって、すっかり嫌気のさした景虎は一国の政治を投げ出す気持ちになったようだ。
 この事態に際して、政景は古志長尾氏から後継ぎが入っては一大事でもあり、何よりも、越後国内が分裂してしまうことを恐れてただちに景虎を追い掛けその翻意を求め、景虎に忠節を尽す旨の誓紙を差し出している。この出奔事件は、景虎が家中の不穏分子を粛正するための芝居とする説もあり、事実、旧上杉氏被官に属する大熊朝秀は謀叛の兵を起こして敗れ、甲斐に逃げ落ちている。いずれにしろ、この事件によって景虎政権は磐石となったのである。
 永禄二年、関東管領職となることが内定して上洛した景虎が帰国したとき、越後の諸将は景虎に太刀を献じてこれを祝賀した。その目録である「侍衆御太刀之次第」によれば、「直太刀の衆」として上杉・長尾氏の一門、続いて「披露太刀ノ衆」とされる外様・譜代の国人、最後に「御馬廻年寄分ノ衆」とされる旗本幹部の順が付けられていた。そして、古志長尾景信は一門の筆頭にあり、上田長尾政景は国人衆の第七位におかれていた。政景は景虎にもっとも近い一族でありながら、一門ではなく国人衆のしかも七位に位置付けられていたのである。政景は一族の扱いからも外され、国人衆の筆頭にも置かれなかった。景虎に抵抗した代償は、上田長尾氏にとって大きなものであった。
 このことは、のちに景虎の養子となった政景の子景勝ともう一人の謙信の養子景虎とが家督争いを演じた「御館の乱」において、古志長尾景信が景虎方に加担し景勝に滅ぼされる遠因となったといえよう。いいかえれば、「御館の乱」は上田長尾氏と古志長尾氏の対立という背景もあった。

政景の死とその後の上田長尾氏

 永禄七年(1564)、政景は宇佐見定満と野尻池で船遊び中に溺死した。一説に暗殺されたともいうが、景虎に仕えてからの政景は忠実にその軍役をつとめていることから、純粋に事故であり暗殺のことは後世の妄説であろう。しかし、父為景のとき以来ことあるごとに対立を繰り返してきた上田長尾氏の勢力を殺ごうとしたとする説も否定しきれないものがある。
 政景の死によって子の顕景は上杉謙信の養子となり、謙信死後の家督相続争い「御館の乱」を制して上杉氏を継いだ。その後、豊臣大名となり豊臣家五大老に列したが、関ヶ原の敗戦によって米沢へ移り米沢藩主上杉氏の祖となった。この意味では、上田長尾氏の血脈が近世大名米沢上杉氏として生き残ったといえよう。

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