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安田氏
一文字三つ星*
(大江氏流)
*一文字三つ星は大江一族の代表紋。


 大江広元の後裔で北条城主北条氏の一族。越後国刈羽郡鵜川庄安田条を領して安田氏を称した。
 安田氏の動向は、「安田文書」としていまに伝えられ、それらの文書から安田氏の発展をみてみると、南北朝の内乱期の応安七年(1374)安田道幸が、鵜川庄安田条地頭職を惣領朝広に譲ったことが知られる。ついで、永和三年(1377)丹波安国寺領鵜河庄安田上方について毛利宮内少輔が当知行と称して抵抗し、将軍足利義満が守護上杉憲栄に丹波安国寺雑掌に沙汰付することを命じた。
 憲栄は毛利宮内少輔の抵抗を排除して丹波安国寺雑掌に打渡すことを長尾景春に命じたが、宮内少輔はこれに抵抗を示し長尾景春からの注進を受けた上杉憲栄が奉行所へ披露したことが記録にみえている。翌年、将軍足利義満は、鵜河庄安田条地頭職の相続を宮内少輔から憲朝へ認めている。

安田毛利氏の発展

 安田憲朝の嫡子房朝は、父憲朝の命に従わず安田を飛び出し京都に出て、その後、関東公方足利氏に従って関東の戦乱に活躍、将軍足利義政から感状を賜ったこともあった。房朝が家を出たため、安田氏の家督は弟の道元が継いだ。ところが、その後房朝は越後に帰国し、守護に対して反抗的な姿勢を示したため、守護は道元の子重広に命じて房朝を討伐させた。房朝は抗戦したが敗れて重広に討ち取られてしまった。
 房朝はおそらく自己の領主としての立場を確立しようとし、一方の父・弟、甥たちは守護に属することで安田毛利氏の勢力保持に努めようとした。いいかえれば、房朝の行動は下剋上を内包したものであり、かれは早くに生まれ過ぎた人物であったのかも知れない。以後、毛利安田氏は守護上杉氏に属して次第に勢力を蓄え、安田城主として戦国時代に至った。
 道元のあとを継いだ重広は越中守を名乗り、守護上杉房定に仕えて現在の小千谷市の吉谷・土川・番匠免などの地と小国保のうち二ケ所を拝領するなどの功名を残している。ところで、越中守重広の時代、北条毛利氏にも重広がいた。北条の重広は丹後守を称したことが知られ、安田の重広とは僅か一世代上の人物であったことから、安田・北条のそれぞれの重広は混同されることが多い。
 重広のあとは清広が継ぎ、永正三年(1506)清広のあとを広春が継いだ。広春は安田五代城主であるとともに北条十代城主も兼任していた。北条八代城主は光広であったが北条城を逐われ、そのあとには上州大胡城にあった輔広が入城した。そして、安田城の広春が輔広の後見人として北条城に入ったものであろう。

安田広春の登場

 越後守護は南北朝期以来、代々上杉氏が世襲したが、なかでも房定は永享の乱で断絶した鎌倉府の再興に尽力し、享徳の乱には管領上杉房顕を援けて活躍。戦乱の中で房顕が死去すると二男顕定が関東管領職に迎えられ、房定は関東の戦乱に主導的立場で臨むようになった。そして、文明十四年(1482)「都鄙の合体」と呼ばれる幕府と古河公方の和睦を実現した。その一方で、越後の政治にも意を用い、検地などを行って守護権力の確立をはたし、越後守護上杉氏の全盛時代を現出した。その跡を継いだ房能も本格的な領国体制の確立を目指して諸政策を押し進めた。しかし、その政策は守護代長尾氏をはじめ、国人領主たちに不満を募らせる結果になった。
 永正四年(1507)八月、房能の養子定実を擁して守護代長尾為景がクーデターを起こした。このとき、守護方に加担する国人たちの数は少なく、房能は抗戦をあきらめ関東に逃れようとしたが、天水において為景軍に追撃され一戦のすえ討死した。越後の戦国時代は、この長尾為景の「下剋上」に始まったといわれる。かくして、定実を名ばかりの守護として戴いた為景が越後の実質的な最高権力者となった。
 その後、房能の兄で関東管領の上杉顕定が越後に攻め込んで為景と定実を駆逐したが、勢力を盛り返した為景は顕定の軍を破り顕定を討ち取った。ここに至って為景と定実の政権は幕府からの承認も得て、本格的な領国支配に乗り出した。しかし、実権は為景の掌中にあり、定実はこのような状況を打破するために実家の上条上杉定憲、柏崎琵琶島城主宇佐見房忠を味方にして為景排斥の挙兵行ったが、為景の前に破れた定実は幽閉の身となった。これにより、為景が越後の最高実力者となりその立場を明確に打ち出し始めた。
 このころ、安田・北条両城の城主を兼ね、安田・北条両氏の惣領職も兼帯していたいた広春は、為景に仕えて春日山の奉行職に列し、常に守護代長尾氏の側近くにあった。永正十七年(1520)、為景は越中守護畠山尚順の要請により、越中の神保慶宗らを討つために春日山城を出陣した。広春も為景に従って出陣し、翌年の正月、越中平定を終えた為景とともに無事越後に凱旋することができた。以後も広春は為景に仕えて、一向宗禁令の制札に奉行の一人として署名するなど、春日山で重きをなした。
 ところで、北条広春と安田広春を別人とするものもあるが、安田・北条両家の広春は同一人物である。また、広春が、越中の陣から家中に送った置文から、広春は生涯子宝には恵まれなかったようだで、子のないまま享禄三年(1530)ごろに死去した。広春のあとは北条城を高広が継ぎ、一方の安田城は景元が継いだ。

越後の争乱

 為景に従う国人領主たちにとって越中出兵などの軍役は多大な負担を強い、次第に国人たちの為景政権に対する不満が高まっていった。これを好機ととらえた上条定憲は、享禄三年(1530)為景打倒の兵を挙げた。この「上条の乱」に際して、毛利若松丸(安田景元)・毛利祖栄(北条輔広)・斎藤定信・本庄房長ら中・下越の諸将が連盟して長尾氏に抗したが、のちに為景と和睦して上条城を攻めた。天文二年(1533)、為景は安田景元に北条輔広と相談して上条城に備えるように命じている。
 広春のあとを継いで安田城主となった景元は、長尾為景・景虎に仕えて安田毛利氏の家運をあげた人物であるが、その出自に関しては不明な部分が多い。景元は十歳のころに、父の命で上州今村城主である那波信濃守に託せられ、永正十二年に越後に潜行し、安田城を奪い取って同城に居すわり、為景から安田毛利氏の家督を安堵された。景元の家督相続は傍流の人物が強引に奪い取ったような印象があり、加えて北条城主輔広の娘を娶ったとはいえ安田城には入らず長く北条城に同居していることも奇異な印象を与えている。おそらく、景元は毛利安田氏における下剋上的な人物で、勇将ではあったが安田城で自立するまでには至らず、北条城主輔広を後楯とする必要があったのではないだろうか。
 天文二年(1533)景元は北条勢を率いて上条勢と一戦を交え、為景から感謝の手紙を得ている。その翌年に安田城に移ったことが知られ、やっと、安田城主として一人立ちできる環境が整ったのであろう。以後も長尾氏と上条氏との対立が続くなかで、安田景元は北条勢と連携しながら長尾為景に味方して活躍、景元は為景にとってもっとも恃みとする武将となった。翌天文三年五月、上条定憲と宇佐美定満・長尾房景らが北条城に攻め寄せた。安田景元は北条城の北条輔広・高広とともに、上条勢と激しい攻防戦を展開し為景は北条勢の奮戦に対して激励の書状を送っている。
 上条の乱はほどなく鎮圧されるかにみえたが、幕府内で政権争いが起こり、為景に近かった細川高国が敗死した。為景の権勢はにわかに翳りをみせ、一方の上条方は勢いを盛り返し、再び兵を挙げ越後全土で為景方と上条方との合戦が繰り広げられた。やがて、為景に属していた揚北の国人、長尾一族の上田長尾房長が上条方に加担して為景に反旗を翻すと、為景方にとっては予断を許さない状況を呈した。情勢は次第に為景方不利へと傾いていったが、安田景元は為景に加担して奮迅の活躍をみせた。景元は一族の北条氏、信濃の高梨氏らと協力して、しばしば上条勢を破る戦功を上げ為景から感状を与えられている。しかし、天文四年(1535)に至ると上条方が攻勢に転じ、ついに四面楚歌に陥った為景は守勢に立たされ、天正五年、家督を晴景に譲って隠居した。
 為景のあとをついで新国主となった晴景は、定実を守護に奉じて事態を収拾していったが、定実の養子の一件を引き金として越後はふたたび内乱状態となった。この事態に対して、晴景は生来の病弱であり戦乱の越後を治める力量にも欠けていた。その兄に代わり栃尾城に拠って諸将と戦う弟景虎(のちの上杉謙信)が注目されるようになり、事態は晴景と景虎の兄弟の争いへと推移していった。結局、守護定実の調停によって晴景が景虎に家督を譲ったことで、越後の政局は新しい局面を迎えることになる。

謙信に仕える

 天文二十四年(1555)、北条高広が武田信玄に応じて長尾景虎に叛いた。北条高広の謀叛を察した安田景元は、ただちに春日山に急報した。景元の報に接した景虎は景元に謝意を表すと同時に、柿崎景家・宇佐美定満らに北条城の動きを警戒させ、みずから兵を率いて出陣し北条城に迫った。北条高広は景虎の攻撃にたまらず春日山の軍門に降った。安田景元は、北条高広の謀叛に際しての行動を景虎からほめられ面目をほどこしている。
 永禄二年(1559)、二度目の上洛を果たした景虎の壮挙を祝って諸将が太刀を献上したとき、安田景広父子は金覆輪の太刀を献上している。『安田系図』によればこのころ景元の子顕元は景虎に供奉し、景虎から「顕」の一字与えられて顕元を名乗ったと記されている。
 話は前後するが、関東管領上杉憲政は小田原北条氏に圧迫され、関東を維持することができず景虎を頼って越後に逃れていた。景虎は憲政を庇護するとともに、その要請をいれて関東の秩序を回復するため、永禄三年、関東に出陣した。景虎の率いる越後軍はたちまち北関東を平定、翌年には小田原城を攻撃した。小田原城は落城にいたらなかったが武威を示した景虎は、鶴岡八幡宮において憲政から譲られた関東管領職の就任式をあげた。
 このとき、上杉名字も譲られ、長尾景虎を改め上杉政虎(以下謙信で統一)と名乗った。関東から越後に帰った謙信は、ただちに川中島に兵を進め武田信玄と雌雄を決せんとした。これが第四回目の川中島の合戦であり、もっとも激戦となった戦いである。このころになると、安田氏は顕元が謙信の軍役を担っており景元の名はみえなくなる。おそらく、顕元に家督を譲り隠退していたものであろう。そして、景元は永禄六年(1563)に死去したことが伝えられている。
 同十一年、謙信の命で信州防備のため飯山城の守りについた。天正三年(1575)の『上杉軍役帳』によれば、顕元の軍役数は九十五名と記されている。

御館の乱

 天正六年三月、関東出陣を控えた謙信が急死したことで、養子景勝と景虎との家督争いとなった。いわゆる「御館の乱」とよばれる内乱で、謙信の遺臣たちは両派に分かれて越後は大乱となった。
 安田城主の安田顕元は弟の能元とともに景勝派に属し、顕元は「正当な主君である景勝様を捨てて、諸人の景虎に走るは、侍のとるべき筋目ではない」といって、景勝に誓書を差し出したので景勝は落涙せんばかりにして喜んだということが『越後古実聞書』にみえている。このとき、同じ毛利一族である北条高広・景広父子は景虎派に加担し、安田氏と北条毛利氏とはその後の明暗を分けることになる。
 顕元は、景虎派に加担していた新発田重家・三条道如斎らを味方にするなど景勝方のための工作に奔走した。天正七年(1579)三月、上杉景虎が敗れて関東に逃れんとして堀江宗親を頼ったとき、顕元は宗親に通じて景勝方へ寝返らせた。これにより景虎は万事窮して自害、乱は景勝の勝利となった。また、この年の三月、乱の調停を試みようとした前関東管領上杉憲政は景虎に降服を進めその嫡子道満丸を人質として春日山に送り届けようとした。しかし、景勝の密命を受けた春日山兵によって道満丸は斬られ、憲政も自害して果てた。憲政の首はさらし首となったが、これを憐れんだ安田顕元は憲政の遺骸を引き取って後日丁重に葬ったといわれる。
 顕元は景虎方の武将五十公野重家・長沢道寿斎・毛利秀広らを戦勝後の恩賞を約束して味方に引き入れ、景勝もこのことを了承していた。戦後の論功行賞のとき、五十公野らは合戦のたびに先陣を駆け粉骨の働きは数ある忠臣功将のなかでも抜群である、ぜひ一城を与えてほしいと言上した。景勝も内々そのように思っていたので顕元の言に賛成を示した。ところが、奉行の山崎秀仙・直江信綱らは、五十公野らはいずれ降参する者たちでありそれは遅速に過ぎないとして顕元の意向を無視した。
 これは論功行賞をめぐって、譜代の旗本を支持する側と、外様の国衆を支持する側との間で激しい争いがあり、景勝にとっても乱後の論功行賞は、譜代の部将・旗本たちを厚く遇するか、外様の武将らを厚く遇するかの選択を迫られるものであった。その結果は以後の領国経営に大きく関わるところであり、景勝は譜代の部将・旗本を採り、外様の武将を退けたのである。この決断は、景勝が戦国大名として成長しようとする以上、みずからの政権を強化するためには当然の選択であった。
 一方、外様の国衆を評価する顕元は鎌倉御家人大江毛利氏の系譜をひく国衆の出身であり、妻は同じ国衆の竹俣慶綱の娘であった。乱に際して、顕元に呼応した五十公野重家は竹俣と同族であり、長沢道寿斎は重家の妹婿であった。このように、顕元はこれら国衆の代表的立場にあり、顕元が五十野重家らへ約束した恩賞は履行されなかった。その結果として、責任を感じた顕元は切腹して果てた。安田顕元は、御館の乱において景勝に加担した動機、憲政の遺骸の取り扱い、乱後にみずからの約束を守れなかったことへの進退など、戦国武将には珍しく律儀で責任感の強い人物であったといえよう。また、一方で顕元の自害は、いわゆる新生上杉氏家中における旧族国衆の勢力衰退の象徴でもあった。
 その後、毛利秀広は春日山城中において山崎秀仙・直江信綱らを殺害し、みずからもその場で討ち取られた。これにより、山崎氏は断絶し直江氏には樋口氏から兼続が入って家名を継いだ。この兼続こそ、のちの直江兼続その人である。さらに、新発田重家(五十公野改め)の叛乱を誘い、天正九年の重家の挙兵以後、七年にわたる重家との戦いに時を費やす結果を景勝にもたらした。

安田氏のその後

 顕元の死によって安田氏の家督は弟の弥九郎が継いだ。弥九郎も兄顕元とともに謙信に仕えて、弥九郎の名は元亀三年に謙信からを授けられたものである。その後、安田兵庫頭元兼とも称したが、のちに父景元と同じく上総介を称し、景勝から本領の安田と堀江宗親跡を安堵され、弥九郎を改め能元と名乗り景勝政権下の重臣として遇された。
 御館の乱後の恩賞に不満をもった五十野改め新発田重家は景勝に対して謀叛を起したが、この「新発田氏の乱」は強烈で景勝を何度も危機に追い込んだ。とくに、天正十年の「放生橋の合戦」は景勝の散々な敗北で、この合戦に能元も景勝に従って出陣し悪戦苦闘をしたことが毛利家譜に記されている。
 その後、豊臣秀吉の天下統一がなり、上杉景勝も豊臣大名に列して豊臣家五大老の一人となった。そして、慶長三年(1598)越後から会津への移封を命じられた景勝は会津に移り、能元も住み慣れた居城安田城をあとにして会津に移住、会津時代には安田上総介順易を称した。慶長四年、豊臣秀吉が病没すると実力者徳川家康と豊臣家奉行である石田三成が対立するようになり、景勝は三成に加担した。そして、伏見城にあった景勝は国元の重臣に城郭・道橋の普請・浪人の召抱・武具の整備を命じたが、その宛先は直江兼続執政下の会津三奉行でありその筆頭には安田上総介が記されていた。
 能元らの重臣は景勝の命を実行し、神指城の新築、あれやこれやの修復工事などを急ピッチで推進した。このような会津の情勢を上杉氏後の春日山城主となった堀秀治が家康に密告した。そのころ、景勝は執政直江兼続とともに国元会津に帰国し、以後、再三にわたる家康の上洛の命令を無視し続けたためついに家康は会津征伐の軍を起したのである。これが関ヶ原の合戦の引き金となり、上杉軍は執政直江兼続を大将として、東軍に属する最上領へ侵攻した。そして、北の関ヶ原と称される長谷堂城の合戦を展開したが、関ヶ原における東西両軍による会戦は徳川家康率いる東軍の勝利に終わった。
 関ヶ原合戦後、上杉氏は会津百二十万石から米沢三十万石へ減封となった。当時、伏見城にあった景勝は国元の安田能元に宛てて書状を送り、留守を厳重に頼むと申し送っている。能元は景勝に仕えて篤い信頼を受けた人物の一人であった。かくして景勝に従って安田能元も米沢に移り、子孫は代々米沢上杉藩士として続き鎌倉以来の越後毛利氏の血脈を後世に伝えたのである。

●毛利氏の家紋─考察


■参考略系図



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