柿崎氏
九曜/かぶら
(桓武平氏城氏流大見氏族)
・清和源氏新田氏後裔?
*「米府鹿子」より。
蕪は柿崎景家が旗印に用いた。後裔屋代柿崎氏はこれに因み三葉大根を家紋にしたという。
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柿崎氏は、清和源氏新田氏の流れを汲み、新田義貞の子義宗の後裔と伝える。しかし、義宗の子孫が柿崎に拠って柿崎氏を名乗ったとする確証はない。
とはいえ、越後には鎌倉時代から新田一族が勢力をもっており、新田義貞が建武政権下で越後守護に任じられたものそういった背景からであろう。義貞敗死後も、子の義宗は応安元年(1368)守護上杉憲顕に討滅されるまで、越後南朝方の柱石として活躍した。そして、観応の擾乱に際して、直義側に与し南朝に降った上杉氏が、文和四年(1355)柿崎城に籠ったことがあり、当時の柿崎城が南朝方勢力の支配下にあったことはうかがえ、新田一族がここを拠点としていた可能性は否定できない。このことが、柿崎氏が新田氏後裔を称する因となったものかも知れない
柿崎氏の出自考察
一方、米沢柿崎家の系図によれば、柿崎氏は桓武平氏城氏から出た大見氏の後裔となっている。大見氏は鎌倉時代に、柿崎宿の地頭職であったことは古文書からも知られ、柿崎十六家の一に数えられていた。
米沢柿崎家系図には、城兵衛太郎維繁の子に家信・政光・実政がみえ、政光の子に家秀があり、いずれも大見氏を称している。そして、政光の養子に実景がいて、実景が蒲原安田の大見氏の祖となり柿崎の地頭職を勤めた柿崎氏につながるという。そして、鎌倉時代を通じて頸城に勢を振るったが、鎌倉幕府滅亡後の南北朝内乱のなかで、新田氏の一族里見氏に圧迫され、さらに上杉憲将に与したことで、柿崎城に敗れて没落したとされている。
ところで、大見氏は古くから伊豆国大見郷に定着した族と思われ、桓武平氏を称していた。平将門を討って威勢をあげた平貞盛は、平家繁栄の基礎を築くため、一族の子弟を引き取って自分の子とし、育てて各地に定着させた。大見氏も大見郷に入ったか、または土着の豪族と結びついて大見氏を称したもののようだ。
大見氏の名前が初見されるのは、大見平三家政である。また、『保元物語』の中に、狩野健介茂光の下命によって伊豆大島に源為朝討伐の武士たちのなかに大見平次家秀の名が記されている。大見氏と伊東氏は姻戚関係にある。すなわち、大見平三家政の娘が狩野四郎に嫁ぎ、祐親・祐継ら多くの子女をもうけている。さきの茂光もその一人であった。 『吾妻鏡』には、大見氏の名が多く記述されている。
『吾妻鏡』で、大見平次実政は初め大見氏と記述されているが、のち宇佐美平次実政と書かれている。後半になると、ほとんど宇佐美氏である。これは、宇佐美の地を与えられ、住して宇佐美を氏としたものであろう。いずれにしても、大見氏と伊東流の宇佐美氏とは同族関係でもあったようだ。
このことは、文和四年に上杉憲将が旗揚げしたことを記した村山文書ならびに村山系図に「御敵上椙武庫、宇佐美一族巳下去三月四日於佐味庄顕法寺城旗揚」とあって、柿崎氏が宇佐美氏の一族であったことをうかがわせている。
のちに柿崎景家に連なる大見氏は宇佐美氏とともに上杉氏に従って越後に移住し、柿崎地頭職を回復し、ともに柿崎近辺に拠って勢を振るうようになったものと考えられる。さらに、その系譜や安田文書などにより、柿崎宿と大見氏、柿崎氏の三者は一体のものであり、新田氏の後裔とする説には根拠もなく、まず大見氏の分かれと考える方が自然であろう。
柿崎景家の活躍
その後、南北朝内乱の結果、柿崎氏は旧領を回復したようで、戦国時代にいたって、柿崎に居館を構えて越後守護上杉氏に仕え、さらに、守護を圧倒して越後を実質的に支配するようになった守護代長尾為景に属して威勢を振るうようになった。
天文年間(1532〜54)上条上杉氏の乱に際して、柿崎景家は長尾為景に属して戦功をたて、柿崎一族の惣領となり和泉守を称した。景家の居城は、猿毛を詰城として米山寺に控えの城を築き、下越と上越の喉元を扼する要所をおさえていた。その館は柿崎木崎山に構え、春日山城に屋敷を賜って、為景没後に越後国主の座に就いた上杉謙信の側近くに仕えた。
景家は剛勇をもって知られ、謙信麾下に並ぶもののない勇将と称えられた。しかし、謙信いわく「柿崎もし分別あらば七郡に手に合ふ者あるまじ」と。これを、みる限り、剛勇無双の勇将ではあったが、思慮分別に欠けるところがあったものであろう。
とはいえ、治下にあっては重臣として政治に参画し、戦にあっては七手組の旗頭となって常に先陣を務めた。当時、柿崎景家の剛将ぶりは、遠く中国地方にまで聞こえていたという。絶頂時における景家の所領は三万貫といわれ、保倉川以北一円をほとんどその勢力下に収めていた。
系図では、景家は天正二年(1574)没とされているが、『上杉家年譜』などには、天正五年十一月織田信長に内通したとの疑いで景家父子が上杉謙信に滅ぼされ、弟三四郎が召し出されて家督を継いだとある。
しかし、天正三(1575)年の『上杉家軍役帳』や、同五年十二月『上杉家中名字尽手本』には息晴家の名が記され、系図は晴家の没年を天正六年(1578)とする。さらに同年八月景家の遺児千熊丸(憲家)に名跡復活が認められたことも確実であるから、景家父子誅伐の年代や事実そのものにも疑問が残る。
景家は上杉二十五将のひとりで、永禄初年のころから内政を担当したが、その本領は勇猛な武人にあった。謙信の初の上洛では先駆をつとめる。小田原城攻撃に参加し、これにつづく鶴岡八幡宮拝賀では謙信の警固にあたった。戦闘では先陣を命じられることが多く、永禄四年(1561)の川中島合戦でも真っ先に妻女山を駆け降りて武田勢に突入するなど、目覚ましい働きをした。さきの信長内通云々は、後年の『北越軍記』などの創作であろう。
その後の柿崎氏
景家没後、柿崎氏は没落を余儀なくされたようで、しばらく雌伏の時代が続いている。これは、『北越軍記』などにあるように、景家が信長にい内通したとする結果と解釈するものが多い。それによれば、天正六年の没落に際して、千熊丸は乳母に抱かれて上田に逃れて隠れていたが、家臣等の活躍によって、同年柿崎家再興が許されその名跡を継いだ。
そして、天正十二年八月、千熊丸は景勝より憲の字を賜って憲家と名乗った。以後、上杉景勝の麾下の将として活動したが、慶長二年(1597)、豊臣秀吉の命による伏見舟入の普請に落度があっって改易処分を受けた。
その後、寛永元年(1624)三月、景勝の一周忌に際して赦免となり、ふたたび上杉氏に仕えて、子孫は米沢藩士として明治維新に及んだと伝える。
■参考略系図
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