小国氏は中世越後の豪族で、清和源氏から出た。すなわち源頼政の子である頼連(頼継)が鎌倉時代の初期に越後国国小国保の地頭となって、小国氏を称したことに始まる。頼連は無双の精兵として知られた強者であった。『吾妻鏡』によれば、「建暦二年正月十一日の弓始めに、射手十人のうち先ず小国頼継が召され。当日弓を帯びていいので、諸国から進納された強弓を与えられた、そして十五度射たのに毎回弦が切れた。射術も巧みで、将軍実朝は感心して、当座の褒美として越前稲津保地頭職を与えたた」とある。 『吾妻鏡』には続いて、承久三年の承久の乱に際して、北条朝時が北陸道大将として進発したとき、小国頼連もこの軍に参加したとある。朝時は越後国府で越後の御家人を糾合した。頼連はこのとき小国保から出陣合流したものであろう。 越後は関東の背後をつく位置にあるため「関東御分国」といわれるように、幕府の知行国となり、剛勇の御家人が配された。すなわち、荒川保・小泉荘・奥山荘などの地頭に補任されて越後に乗り込んだのは武蔵・相模の御家人であり、それらの子孫が本庄・色部・中条・河村・黒川の諸氏となって、南北朝・戦国時代の越後の豪族となった。小国氏が小国保地頭に補任されたのもこの頃であろう。 南北朝時代には小国政光が、天神山城を拠点に越後南朝方として活躍した。政光は建武二年(1335)蒲原津に築城し、足利尊氏方の加治景綱と松崎や沼垂で戦い、翌年には奥山庄に攻め込んだ。しかし、南朝方不振の情勢のなかで、政光も次第に押され、暦応四年(1341)六月、蒲原津城も落城した。三か月後に、再度挙兵するが、間もなく戦死したらしく、以後、政光の名は見えなくなる。 以後、小国氏の故地小国保は北朝方に制圧されて、かつて支族の出城であった天神山が小国氏の本拠となった。 小国氏の系譜 小国氏の系図については『尊卑分脈』に、源仲政から南北朝期に活躍した政光までの系譜が出ている。およそ、系図というものは、よほど吟味してかからなければならない史料である。とくに戦国武将の系図は、野武士野盗の類から成り上がった者が多いので、ほとんどの者が家系を飾った偽系図を作成している。それにくらべると、小国氏は、一級の系図書「尊卑分脈」に記載された名門といえる。とはいえ、所載されているのは政光までで、政光以後の系図はあてにならない。 「源姓大国氏系図」によれば、戦国期に上杉氏に属した小国氏は政光の子孫ではなく、その祖父頼村の弟頼景から出ている。そして、天神山城主であった。鎌倉末期にあっては、惣領頼村は小国保小国の本城に、末弟頼景が庶子家として弥彦荘の所領を守って天神山に在城したものと考えられる。 とはいえ。このことは系図を全面的に信用した場合の推論である。南北朝期に小国氏の本宗は没落し、天神山にあった支流小国氏が、その後四、五代を経て戦国時代に小国氏の名をふたたび世に出し、天神山が本城となったのである。 戦国時代の小国氏 戦国時代になって最初に登場してくる小国氏は「小国入道」である。永禄二年(1559)冬、上洛した上杉謙信が、足利将軍義輝から関東管領に補されて帰国したとき、祝儀を献じた者のなかに小国入道の名がみえる。この小国入道は修理頼秀と同一人物と思われ、頼久とも称した。「上杉将士書」に「此頼久は謙信公幼少の時より軍功あり、場数の大将にて、一生押付を人に見せ申さず候」とある。 天正三年のころの刑部少輔は、小国入道の子三河守実頼と考えられる。さきの「上杉将士書に「頼久嫡男三河守も勇将なり、さりながら景勝公主のときに至って病死して嗣なし。三河守男子なく直江山城公弟養子に申付けられ候」とある。 また、謙信記・北越軍談・北越太平記などの軍紀物を見ると、天文十四年修理亮頼久が佐渡征伐に加わり、天文二十二年同人が川中合戦に後詰を勤め、翌年の越中攻めにも遊軍として活躍して感状を受け、永禄三年にも上野国に出陣した。同七年の関東攻めで主水が活躍、同十三年頚城関山で武田勝頼と対陣などの記事がある。 軍紀物の常として、虚実は交えているだろうが、小国一族が、上杉氏に従って、関東・信濃・越中へと転戦して殊勲を挙げたことは間違いない。「越後野志」には「世代々武功あり」とうたわれ、戦国時代頼連の血をひく小国氏は、まぎれもない武功の家柄として越後一円に知られていたことがわかる。 天正初年の「軍役帳」には、小国刑部少輔の名と馬上十騎・鉄砲十挺・槍八十丁・大小旗十本など、合計百二十五人の軍役が記されている。ちなみに、慶長二十年(1615)江戸幕府が諸大名に課した軍役高からみると、鑓・旗の数からは五万石大名に、騎馬武者の数からは一万石の大名に匹敵するものである。 天正六年(1578)、謙信没後に始まった御館の乱には景勝方についたが、この乱をめぐって一族の間に内紛があったらしく、戦後景勝は、腹心の樋口与七を入れて強引に小国家を継がせた。これが小国実頼で、直江兼続の弟であり、のちに姓を小国から大国に改めた。 天正十一年、新発田重家攻めに参加して新潟津を焼き打ちし、同十五年には景勝の賀使として秀吉に会った。その際に小国を大国と改め、従五位下但馬守に任ぜられた。文禄三年(1594)の知行定納高は九千四十一石で、そのうち三千九百石は、岩船郡にあった本庄氏の遺領であった。慶長三年(1598)上杉氏が会津移封の際、南山城代となって二万一千石を与えられた。 関ヶ原合戦後、実兄直江兼続と不和を生じてしばらく高野山に逃れ、家は断絶となったが、兼続の死後に出羽に戻って 元和八年(1622)六十一歳で没した。その後、大国の家は樋口氏から光頼が入って再興された。その後、 上杉氏が百二十万石から三十万石、さらに十万石を減知されるにつれ、大国氏の知行高も減少するが、藩内では 家老・中老といった重職を世襲している。 ・参考:小国町史/新潟大事典 ほか ■参考略系図 |