笹竜胆紋

Contents
●鎌倉の主-征夷大将軍
●鎌倉幕府の執権-北条氏

鎌倉武家政権を担った武家(52家)
●武将家割拠地図
●源平時代から鎌倉幕府へ
(年表)
●抗争の鎌倉府-北条氏の謀略
●鎌倉武士のユニット-惣領制
●リアリズムの鎌倉-新文化の勃興
●鎌倉の権力者-執権抄伝
●北条氏の宿敵-三浦一族
●鎌倉の鎮守-鶴岡八幡宮

系図は、尊卑分脈を基本として、系図綜覧・古代豪族系図集覧・戦国大名系譜人名事典・ 歴史読本-戦国大名系譜総覧・日本史小百科-家系、その他出版物のものを参考にして作成しました。
[家伝資料:前記に同じ]
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鎌倉武家政権を担った─武家。

波多野氏/八田氏/比企氏/北条氏/三浦氏/三善氏




波多野氏
●竪二つ引に鳳凰●秀郷流藤原氏 

秀郷流藤原氏。相模国波多野荘が本領。保元の乱には義通が義朝の家令だったが、その子義常は石橋山合戦で頼朝に敵対して、のち自刃。その子有常以降は幕府御家人だったが、鎌倉中期以降は丹波などに移住し、戦国末期に織田信長の部将明智光秀に滅ぼされた。庶家に八上・氷上・多紀・松田などがあり、江戸幕府の旗本になった家もある。なお「泰」というところから渡来氏族泰氏の後裔とする説もある。
【氏族リンク】 ・越前波多野氏 ・丹波波多野氏
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八田氏
●洲浜●秀郷流藤原氏 

関白藤原道兼の三世の孫宗円が宇都宮氏を起し、子の宗綱は八田権守を称した。宗綱の子・知家は源義朝の落胤説があり、頼朝の旗揚げに早くから参加して、下野国茂木に地頭職を与えられている。以後、平家との戦い、奥州合戦などに出陣、頼朝に重く用いられた。曽我兄弟の仇討ちをきっかけに、常陸大掾多気義幹を謀略で失脚させ、常陸守護職に補任された。あとを継いだ知重の流れは「小田」を称した。
【氏族リンク】 ・八田小田氏 ・常陸宍戸氏 ・安芸宍戸氏 ・茂木氏

比企氏
●剣花菱●秀郷流藤原氏? 

武蔵国比企郡から起こった。出自は藤原秀郷流、阿保朝臣の後裔などといわれる。比企掃部允遠宗は源義朝に仕え、妻の比企尼は源頼朝の乳母となった。頼朝が伊豆に流されると、物質的援助を続けた。その子能員は旗揚げから頼朝に従い、幕府の創設に尽くした。妻が頼朝の嫡男・頼家の乳母となり、娘はその側室になり一幡を生んだ。有力御家人として重きをなしたが、北条氏の謀略によって一族滅亡した。生き延びた子孫がいるといわれるが、その真偽は不詳。
※清月山元光院金剛寺「比企氏墓所」の家紋。徳川旗本比企氏の家紋は「丸に割菱」
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北条氏
●三つ鱗●桓武平氏直方流 

伊豆北条郷が名字の地。桓武平氏直方流。源平合戦期に時政の娘政子が頼朝室になったことから、一躍して将軍家外戚となり、以降の歴代は執権として鎌倉幕政を領導。鎌倉幕府を私物化して得宗専制政権を樹立したが、後醍醐天皇の倒幕活動が発端となり、ついには元弘三年滅亡した。しかし、鎌倉に建長寺・円覚寺など、多数の文化遺産を残し、辺境の鎌倉を中心に東国の文化レベルの上昇に貢献したところは見逃せない。
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三浦氏
●丸に三つ引●桓武平氏良文流 

相模三浦荘が本領。桓武平氏良文流。坂東八平氏の一。平安時代の後三年合戦以来、清和源氏の譜代相伝の家臣家で、源平合戦の初期から頼朝方として活躍。壇ノ浦合戦では源家軍の先陣となるなど、早くから「海の豪族」として有名。鎌倉時代には全国に所領を拝領したが、惣領家はあくまで「相模三浦一族」であり続けたため、鎌倉での覇権をめぐって北条氏と対立。建保元年には有力支族和田氏が倒れ、宝治元年に三浦氏も北条時頼に倒された。生き残った佐原流が宗家を嗣立して三浦氏を名乗り、北条氏の被官となって生き続けたが、南北朝・室町期にいたって家運を挽回した。しかし、再興三浦氏も、義同の代になって小田原北条氏に倒された。 【氏族リンク】 ・三浦氏 ・駿河三浦氏 ・美作三浦氏 ・周防三浦氏 ・葦名氏 ・越後中条氏
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三善氏
●違い鷹羽●帰化系氏族後裔 

三善氏は、いわゆる帰化系氏族後裔という。三善康信は朝廷内で能吏として認められたが、母方の叔母が源頼朝の乳母であったためか、平家全盛の時代には不遇な立場にあった。一方、伊豆に配流されていた頼朝に京都の動静を知らせ続けた。源氏追討の危機を逸早く知らせ頼朝の挙兵の契機をつくった。関東を制した頼朝の請いにより鎌倉に下向し、大江広元らと頼朝の政務の補佐を行った。政所・侍所・問注所が整備されると、問注所の初代執事に任じられた。
【氏族リンク】 ・三善氏一族 ・問注所氏 ・布施氏 ・佐波氏 ・赤穴氏 ・善氏
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