布施氏
総角
(三善氏族/置始氏後裔?)

 戦国時代、大和国葛下郡に布施城を築いた布施氏は、平田荘の荘官より成長した有力国人で、西山内においては楢原氏と並ぶ筒井党の雄であった。布施氏の出自は、通説によれば三善氏の後裔という。伝えられる系図などによれば、三善清行の子浄蔵貴所の後裔となっている。浄蔵貴所とは平安時代の僧侶で、大峯や熊野で修行をして、祈祷や易筮に優れていた。安倍清明のような陰陽師ではないが、八坂の塔をまっすぐに直したり、父を蘇生させた戻り橋の伝説などに彩られ、密教僧としてなかなか法力に優れた人物であったようだ。
 寛平法皇(宇多天皇)に従い雲居寺に住していた浄蔵貴所は、醍醐天皇の疾を得意の祈祷で治した。浄蔵貴所を賞した帝は御簾の総角を賜い、大和国葛下郡寺口郷二塚山廿八ヶ村を布施した。これが布施郷のはじめといい、総角は布施氏の家紋となった。

浄蔵貴所が父三善清行の葬列にあった一条戻り橋、晴明神社の境内に移築されている。 浄蔵貴所をご神体とする祇園祭の山伏山、山伏姿は浄蔵の大峰入りを現している。


●布施氏の出自を探る

 たしかに、布施氏の系図をみると浄蔵貴所の子に布施と飯尾が記され、三善氏の系図などにも布施氏が見え、鎌倉幕府、室町幕府のもとで奉行人をつとめている。また、室町時代、足利義政の代に成立したという『見聞諸家紋』を見ると、布施下野守貞基「総角(あげまき)」紋と和州布施の「総角」紋が記されている。下野守貞基は幕府奉行人の筆頭である公人奉行に任じられ、侍所開闔・各奉行を歴任し、式評定衆となった幕府の官僚であった。
 幕府奉行人の布施氏は三善氏の流れであるが、大和の布施氏も三善氏の流れとするのは、いささか無理があるようだ。というのは、大和布施氏の菩提寺という置恩寺に残る文亀二年(1502)刻銘の石燈籠には置始行国の名が残っている。さらに、平安時代の永久六年(1118)の記録に置始久行・行吉がみえ、ついで承安三年(1173)に多武峰と興福寺の間に抗争が起こったとき、 布施行弘が楢原・北隅氏らとともに興福寺方として出陣している。この布施行弘は置始氏と思われ、このころに置始氏は布施を称するようになっ たようである。
 このように大和布施氏とみられる人物は、名乗りに「行」の字を通字としているのに対して、幕府奉行人の三善布施氏は「連」「基」を通字としている。このことは幕府官僚布施氏と大和国人布施氏とが、まったく別の流れであったことを示している。加えて、残された記録や金石文、状況証拠などから推して、大和布施氏は古代豪族置始氏の子孫とするのが妥当なようだ。
 他方、『国民郷士記』によれば「布施家(応神天皇の皇子大山守意我は、布施の祖なり。また、平城天皇の後、定基の末とも云う)。布施出羽(出口村に城跡あり、本北條家に仕う)、布施下野守英基、云々、布施安芸守、布施但馬守運秀、云々、布施太郎右衛門春行(筒井順慶幕下にて、数度手柄を顕わす。後、豊臣秀長に仕え、慶長二十年には大阪に篭城す)、布施春次(伯父春行と一緒に大阪に篭城)」と記されている。
 滅亡した武家に共通することとはいえ、布施氏の出自、系図は断片的なものしか伝わらず、いまとなってはその歴史を明らかにすることは難しい。とはいえ、平安時代から鎌倉時代、室町時代の諸記録にあらわれ、布施氏が大和武士として一定の勢力を築いていたことは疑いをいれないものだ。

●布施氏の台頭

 大和国は古来、藤原氏の勢力が強いところで、氏寺の興福寺、氏神の春日神社が多くの荘園を有していた。そして、他国のように鎌倉御家人が入ってくるということもなく、興福寺が大和随一の荘園領主として、また守護職に任じられて、興福寺の衆徒(坊人)や春日社の国民を支配下においていた。そのような興福寺の荘園のひとつである平田荘は在地の八荘官によって分割支配されていたが、そのひとりが布施氏であった。こうした興福寺の在地の庄司に任じられた衆徒や国民らが、次第に荘内に勢力を蓄え武力を持つ集団へと発展しそれぞれ武士団に成長していった。
 かれら大和武士が興福寺の支配から脱するようになるのは、南北朝の内乱がきっかけとなった。そもそも興福寺は、一乗院と大乗院が二大勢力で、両者は源平時代より対立関係にあった。そのことがあって、一乗院が北朝方に、大乗院が南朝方に味方して、その支配力が急速に弱体化していったのである。
 南北朝の内乱は、興福寺を二分しただけでなく、大和武士をも二分した。すなわち北和の興福寺一乗院門跡の衆徒である筒井氏と南大和の越智氏とを軸とする武士の抗争であった。布施氏は一乗院門跡方の国民に列していたことから、同じ坊人同士の誼で筒井氏とは早くから交流を保ち筒井党として行動した。
 南北朝の動乱が終わったのちも大和の錯乱は続き、永享元年(1429)、井戸氏と豊田氏の抗争をきっかけとして「大和永享の乱」が勃発した。乱世のなかで、南大和の越智氏が台頭してくると、布施氏はその下に属して筒井氏と対立するようになった。そして、布施氏は苦難の時期に遭遇することになる。
 永享七年に永享の乱が終わったのも束の間、今度は幕府の重臣で河内守護をつとめる畠山氏の内部抗争が大和を戦乱に巻き込むことになる。布施氏も否応なく河内へ参陣させられたり、近隣の万歳氏や高田氏と合戦を繰り広げた。あげくのはてには、越智氏に攻め寄せられて布施郷は全滅し城も落城するという惨澹な状況に陥った。布施郷を逃れた布施氏は箸尾氏をたよって再起を図ったが、つづく万歳氏との合戦にも大敗を喫してさらに勢力を失った。
家紋図:『見聞諸家紋』に見える三善氏奉行布施下野守貞基の「総角」紋】

総角は「あげまき」と読み、古代の子供の髪の結い方の一つで、死者の霊魂から子供を守る象徴結び、魔除けの徴表として呪詛的要素を反映するものであった。それが、大鎧や兜、幔幕や御簾などの結びに用いられるようになり、いまでも祭礼などにおいて見ることができる。総角の結び方は中心の紐の重なりによって「人型」と「入型」の二種類に分かれ、武具では「人型」が使われる。このように、呪詛的要素と武具の飾り結びに用いられることから家紋として採用されたのであろう。いずれにしても、珍しい家紋の一つだ。

ポピュラーな総角結び


兜の総角結び


●大和の戦国時代

 応仁・文明の乱は大和も戦乱に巻き込んだが、布施氏は雌伏の時を余儀なくされていたようだ。時の当主は布施左京亮で、やがて、筒井氏と和睦することで再起をはたした。さらに、筒井順盛とともに越智氏を撃破し布施城へのに帰還もはたした。その後、布施氏は万歳氏を破り、高田氏を城から追い、三好長慶軍に参加して河内を転戦した。
 やがて、松永久秀が大和に進出してくると、筒井方は各所で敗走を重ねて勢力を失墜していった。国人の多くが松永方に屈するなかで、布施氏は筒井氏への誼を捨てず、久秀に頑強な抵抗を続けた。そして、福住氏、山田氏、秋山氏らと抵抗戦線を結び、筒井城を失って没落した筒井順慶を布施城に迎えて筒井党の主力として活躍したのである。
 
布施氏の故地をさすらう




布施氏が割拠していた新庄界隈には布施氏ゆかりのスポットがそこかしこに残されている。神亀年間に行基が開基したという置恩寺は、奈良時代から平安時代はじめに置始氏の氏寺として建立されたようだ。中世には「布施寺」ともよばれ、布施氏と栄枯盛衰をともにした。境内の一角に置始行国が寄進した石燈篭が立っている。置恩寺の後方の山には布施氏の詰め城であった布施城址が静かに眠り、新庄の中心にある前方後円墳である屋敷山古墳の一帯は、中世、布施氏が居館として利用したところである。布施氏が没落したのちは、桑山氏が陣屋を築き、周囲に屋敷を構えたことから屋敷山と呼ばれるようになったといわれる。また、屋敷山北方にある慶雲寺の墓地には布施氏三代の五輪塔が残されている。

 布施氏は松永方の高田氏を撃破することもあったが、松永氏の勢力は強盛で、布施城に攻め込まれて焼かれたこともあり、苦しい戦いが続いた。再三にわたって布施郷は松永方の攻撃に晒され、その都度、楢原氏とともに防戦につとめてよく松永勢の攻勢を凌いだ。やがて、信長の登場で大和一国は松永久秀に安堵され、筒井順慶ら大和の諸将は久秀の下風に立たされた。しかし、信長に反抗した久秀が滅亡すると、順慶が大和支配を任された。
 かくして、布施氏は筒井順慶の内衆に連なって布施一党は筒井氏の家臣になり、織田信長に仕えるようになった。そして天正八年、布施氏の拠ってきた布施城は、信長による破城令を受けてその使命を終えたのである。天正十三年豊臣秀長の郡山城入城で、布施氏は筒井定次の伊賀国替に同行し、筒井氏の改易で浪人となった。その後、布施に蟄居した布施春行は、大坂の陣で大坂城に籠城し没落していったのである。 ・2007年05月30日

参考資料:奈良県史/大和高田市史 ほか】

■参考略系図
・詳細系図不詳。
 
  


●布施氏と吉川氏の系図