義盛失脚
頼朝の死後、将軍の後継をめぐり幕府内で抗争が惹起した。梶原景時の失脚、滅亡につづき、比企能員・仁田忠常さらに畠山重忠など武蔵・相模・伊豆の有力御家人があいついで失脚、滅亡し、さらに、実朝廃立をはかった北条時政も隠退に追い込まれた。この間、北条氏は頼朝の外戚、三浦氏は御家人の筆頭として幕府を支え、激動のなかで北条氏は時政から義時が実権を握り、三浦氏は義澄の子義村が幕政の中央に登場した。
三浦一族の和田義盛は、京都では「三浦の長者」とされ、将軍実朝への年頭の"おう飯"を広元、義時・時房兄弟についで献じている。
その後、義盛は北条義時との間に確執を生じ、建保元年二月、一族のなかで三人が幕府に検挙されるという事件が勃発。この事件で面目をつぶされた義盛は決起し、突如幕府を襲った。戦局は義盛に有利に展開したが、本家の三浦氏が幕府方に寝返り、急を聞いた御家人らがかけつけるにしたがい、義盛軍は頽勢となり、結局敗れて自刃した。
義盛の蜂起に際して、三浦氏は義村をはじめその一門もほとんど加わらず、義盛の甥重茂も義村と行動をともにした。この乱は、和田一族が強力になることを憂いて、北条義時が義盛を挑発し、早期弾圧を考えたからに他ならない。義村は、いったんは義盛に同意しながら、結局北条義時に与し、やがて「御家人事」の奉行、侍所所司となった。さらに頼家の子公暁が将軍実朝を暗殺したとき、乳母夫の義村を頼ろうとする公暁を家人長尾定景に殺害させた。
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北条氏と結ぶ
承久元年(1219)、三浦義村は駿河守に任ぜられ、娘は北条泰時に嫁し、さらに嫡子泰村は泰時が、
泰時の弟政村は義村がそれぞれ烏帽子親となった。
翌年、承久の乱が勃発、幕府は最大の危機に直面した。この乱でも三浦一族は双方の主役クラスの役割を担った。京方の大将となったのは、当時検非違使の判官として大番役のあとも在京していた義村の弟胤義で、後鳥羽上皇からもっとも頼りにされていた。胤義は兄の義村へ決起をうながす使者を送った。しかし、義村はこれをただちに義時へ知らせ、北条義時・泰時・時房、大江広元・安達景盛、それに義村が加わる軍議で軍勢の上洛を決した。泰時・時房、足利・千葉両氏それに義村が東海道軍の大将軍として上洛、京方を破り、敗死した三浦胤義父子の首は義村によって泰時に送られた。
元仁元年(1224)北条義時が病死、その後家伊賀氏は後継の執権に実子の政村を、将軍に女婿一条実雅を立てようとした。政村の烏帽子親でもあった義村を伊賀氏は頼んだが、義村は北条政子がすすめる泰時の執権就任を推した。
翌年、評定衆が設置されるとともに、義村はただひとり豪族的御家人として加えられた。さらに、幕府法制の確立を示す『御成敗式目』の制定にも、泰時・時房とともに署名した。
義時・泰時ら北条一門と血縁を結んだ義村は、将軍頼経のもとで三浦一族のうちで一頭ぬきんでた地位を築き、北条氏と並ぶ有力な御家人となった。とくに頼経の側近であった子光村は検非違使に任ぜられ、大夫判官さらに壱岐・河内両国守を歴任した。
延応元年(1239)義村が死去したとき、嫡子泰村はすでに父とともに評定衆に加えられており、若狭守に任官していた。仁治三年(1242)北条泰時も病没、その子時氏は義村の娘を母としていたがすでに若死、泰時嫡孫の経時がわずか十九歳で執権となった。経時と弟時頼の母は安達景盛の娘(松下禅尼)であった。
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将軍頼経の失脚
寛元二年(1244)頼経は将軍を辞して、経時が烏帽子親となって元服した七歳の子頼嗣が将軍に就任した。将軍職奏請の使者は得宗家の執事平盛時がつとめ、頼嗣の行始めは甘縄の安達邸であった。一方、泰村に加え、弟光村が評定衆に加えられた、翌年、頼経は出家し、頼嗣の室に経時の妹が迎えられた。
そのころ、経時は重病に冒され、翌四年弟時頼に執権職を譲り病没。これを契機として時頼に対する謀反が発覚、首謀者は北条一族の名越光時で、前将軍頼経を擁護し自ら執権になろうと企てたものであった。光時は伊豆へ追放され、同意した評定衆四人は罷免、頼経は京へと追われた。世にいわれる「宮騒動」である。
帰洛する頼経に供奉した三浦光村は、同行の御家人のうちただ一人頼経のそばに残って、二十余年にわたって仕えた名残を惜しんだという。
事件処理をめぐる時頼邸での「寄り合い」には、北条政村・実時と安達義景、三浦泰村が加わった。時頼は泰村と治世の重要事(理世の眼目)を語ったが、そのころ高野山から鎌倉の本宅へ帰った安達景盛は、武門を誇り傍若無人な三浦一族に、安達一族は後れをとるなと義景・泰盛父子を叱咤。事態は景盛リードのうちに進むこととなった。
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三浦一族の滅亡
宮騒動からほぼ一年後、宝治合戦が起こった。この合戦で、相模・武蔵・駿河・伊豆の御家人は北条方につき時頼邸を警固。三浦勢は時頼方に押され、一族五百余人は頼朝法華堂に籠り自害し、戦いは幕を閉じ三浦氏へ滅亡した。
ここに至るまで、三浦一族は北条氏の陰謀事件にことごとく関わってきた。その勢力の大きさから、三浦氏の動向によっては北条氏の存続も危うかったほどである。北条氏による三浦氏討滅は、いずれ時間の問題であったのだ。
北条氏の三浦討伐は、宮騒動の翌年、安達景盛が甘縄の邸に入ったところから具体化した。景盛は時頼と内々に相談した後、子の義景、孫の泰盛父子を叱咤したことは先にも記した。景盛の娘松下禅尼は時頼の生母であり、時頼は安達氏の実家で育ったことから、外祖父景盛の北条本家に対する擁護意識は絶大なものがあった。また、三浦氏に対する対抗意識も大きかった。景盛のことばを伝え聞いた三浦氏も安達氏を警戒したかと思われる。
ところが、時頼は泰村の次男を養子に迎える約束をしたりして、三浦氏に対して異心がないかのように装っている。その後、時頼は妹で将軍頼嗣の御台所であった檜皮姫が亡くなったが、この時も服喪のために泰村邸に渡って、三浦氏に何の警戒心も持っていないかのように振る舞っている。
しかし、鶴岡八幡の鳥居の前に「三浦泰村が幕府の厳命に背くので誅伐の沙汰がある。よくよく謹慎あるべし」との立て札が立てられた。また、土方右衛門次郎という泰村方の者が一通の願書を社頭に納めて逐電してしまった。それで、時頼が願書を調べたところ、三浦一族の謀反に与しない代わり、神の加護を願ったものであった。これによって、三浦一族の謀反はあきらかとなったが、時頼は妹の二十七日の服喪のために泰村邸に泊まっている。この時、泰村は時頼を喜んで迎かえ入れたが、三浦一族の誰も時頼の前に出て挨拶をしなかった。そのうえ夜になって、鎧腹巻の音が聞こえた。
ここに至って、時頼は警戒し、これまで人々が告げた一連の報告は強いて信じてはいなかったが、なるほど符合すると思い、急に泰村邸を出て本宅へ帰ってしまった。これを知って、泰村は仰天し、陳謝をしているが、時頼があらためて調べると、もはや隠密の企てではないとの報告がなされた。こうして時頼は決心を固め、御家人を集めた。雲霞のように集まった御家人のなかに三浦佐原兄弟も馳せ参じていた。
その後、時頼は和平の使者として平盛綱を泰村邸に派遣。これを受けた泰村は大喜びし、安堵の思いで湯漬けを一口食べたが、たちまち吐いてしまったという。
一方、和平の使者の一件を知った安達入道覚地(景盛)は、子の義景、孫の泰盛に向かって「和平が成ると今後、彼の氏族は一人奢りを極め、ますます当家を軽蔑するだろう。そうなってからでは遅い。ただ、運を天にまかせ、今朝、雌雄を決せん」と命じた。それで泰盛以下、大曾禰長泰・武藤景頼・橘公義らが泰村邸に殺到した。不意を衝かれた泰村は今さらながらに仰天したが防戦につとめた。
時頼は北条実時に幕府を守らせ、弟の時定を大手の大将として攻めさせた。このとき、毛利季光は、初めは御所に参じようと思っていたが、泰村の妹である妻に請われて義兄の泰村のもとへ馳せ参じた。
三浦一族は手痛く戦ったが、やがて、北条方が泰村邸の隣家に火をつけ、その煙が三浦一党をとりまくに至って、煙にむせびさしもの三浦一族も頼朝を祀る奉華堂に逃れた。そして、頼朝の絵像の前で一族は、主な者二百六十人、都合五百余人が自害を遂げた。自害した者のなかには毛利西阿(季光)、美作前司宇都宮時綱、甲斐前司春日部実景、関政泰らがいた。
この宝治の乱の結果、北条氏の専制支配はより強固なものとなり、幕府創業以来の有力な御家人は安達氏のみとなってしまった。
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・合戦のたびに武者たちが往来したであろう鎌倉の切り通し道
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