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三浦氏
●三浦三つ引両
●桓武平氏三浦氏流
『見聞諸家紋』には、輪のない「竪三つ引両」が「輪鼓引領 三浦介」として記載されている。
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三浦氏は桓武平氏良文流で、世にいう坂東八平氏の一である。良文の子忠通は源頼光に従い、その子為通は「前九年の役(1056)」に源頼義のもとで活躍し、その功で相模国三浦の地を与えられたという。「後三年の役(1083)」には為通の子為次が鎌倉権五郎景正とともに源義家に従い活躍した。
「保元の乱(1156)」に大庭・波多野・海老名ら相模武士とともに源義朝に従い、続く「平治の乱(1159)」には三浦義明の子義澄が源義平とともに参陣、敗れた義朝・義平らは討死し義澄らは帰国した。
鎌倉幕府の草創に尽くす
治承四年(1180)、源頼朝が伊豆で挙兵すると、三浦一族は結束して頼朝に応じた。緒戦の石橋山合戦で一族・岡崎義実の嫡子真田義忠が討死し、敗れた頼朝は真鶴から安房国へと脱出した。三浦一族が着陣する前に頼朝が敗れたため、三浦へ引き返す途中、平家方の畠山重忠らの追撃を受け、本城衣笠城を攻められ義明は討死し、その間に義澄らは安房へ向かい頼朝と合流した。その後、房総・武蔵の武士を麾下に加えた頼朝は鎌倉に入部した。この時点における三浦氏の力は、のちに最大の宿敵となる北条氏を大きく凌ぐものであった。
相模国府で頼朝が行った「論功行賞」で、義澄・義盛らは本領安堵、新恩拝領を受け、義澄は三浦介の名乗りを許された。そして、義澄は千葉常胤・上総広常・土肥実平らとともに「宿老」として頼朝のブレーンとなった。また、甥の和田義盛は侍所別当の要職に任じられ、頼朝の近侍の士に和田義茂・佐原義連らの三浦一族が選ばれた。その後、三浦一族は源義仲追討、西国の平家追討から壇ノ浦の戦いで活躍、義盛は梶原景時とともに「軍奉行」をつとめた。文治五年(1189)の奥州合戦にも義澄・義村父子、義盛・宗実兄弟、佐原義連らが活躍した。
建久十年(1199)、頼朝が死去し、子頼家の吉書始めに列席した北条義時・大江広元・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・梶原景時らのメンバーは以後、合議して幕府の政務を決裁した。同年、梶原景時弾劾の連署状を広元に持参したのは義盛と義村であった。
このように、三浦一族は頼朝の全国支配と幕政確立の過程で大きな功績をあげ、幕府の重職に列なったのである。とくに、義澄・義盛・義連とその一族がきわだっていた。
陰謀渦巻く鎌倉幕府
頼朝の死後、幕府内で抗争が繰り返され、梶原景時をはじめ比企能員・仁田忠常、さらに畠山重忠など武蔵・相模・伊豆の有力御家人があいついで失脚、滅亡し、さらに、実朝廃立をはかった北条時政も隠退に追い込まれた。この間、北条氏は頼朝の外戚、三浦氏は御家人の筆頭として幕府を支え、激動のなかで北条氏は時政の子義時が実権を握り、三浦氏では義澄の子義村が幕政の中央に登場した。
三浦一族の和田義盛は、京都では「三浦の長者」と称されていたが、北条義時との間に確執を生じ、建保元年(1213)、北条氏に対して兵を挙げ滅亡した。この乱は、和田一族が強力になることを警戒した北条義時が義盛を挑発し、早期弾圧を加えたものに他ならない。義盛の蜂起に際して、三浦氏は義村をはじめその一門もほとんど加わらず幕府内における地位を保持した。
承久三年(1221)、幕府は「承久の乱」に勝利し、政治体制を確立すると評定衆を設置した。義村はただひとり豪族的御家人として評定衆に加えられ、将軍頼経のもとで一頭ぬきんでた地位を築き北条氏と並ぶ有力御家人となった。
三浦氏は北条氏の陰謀事件にことごとく関わり、義時・泰時ら北条一門と血縁を結んだ義村は、幕府内に確固たる地歩を築きあげた。しかし、両雄が並び立つこことはなく、結局、北条氏による三浦氏討伐の謀略が進められることになる。かくして、宝治元年(1247)宝治合戦が起こった。三浦一族は手強く戦ったが、北条方が泰村邸の隣家に火をつけ、その煙が三浦一党をとりまくに至って、さしもの三浦一族も煙にむせび頼朝を祀る法華堂に逃れた。そして、頼朝の絵像の前で一族は、主な者二百六十人、都合五百余人が自害を遂げ三浦氏は滅亡した。
宗家滅亡後、三浦氏の名跡は一族で北条氏に味方した佐原氏一族の盛時によって再興された。しかし、盛時以後の三浦氏は、北条得宗の一被官として続き、盛時の勢いとは程遠い存在であった。
三浦氏の復活
元弘元年(1331)、北条高時が楠木正成討伐の軍を上洛させたとき、そのなかに三浦時継が加わっていた。その後、幕府に反旗を翻した足利尊氏に属し、幕府滅亡後、その功により、武蔵国・相模国などに地頭職を与えられた。また、時継の子高継は三浦介となって在京し、建武新政下で活躍した。
建武二年(1335)の「中先代の乱」に際して、父の時継は北条方に、息子の高継は足利尊氏に味方して戦った。北条方の敗北により時継は斬られたが、高継は父の本領を与えられるとともに相模国大介職も安堵された。乱を征圧した尊氏は、後醍醐天皇の召還命令を無視して鎌倉に留まり、ついには建武新政権に反旗を翻した。そして、新田義貞を大将とする討伐軍を箱根竹ノ下で破ると、その勢いを駆って上洛、京都を制圧した。しかし、北畠顕家・新田義貞の連合軍に敗れ、再起を期して九州へ逃れた。
尊氏は多々良浜で菊地氏と戦い、勝利を得ると体制を立て直し、ふたたび京をめざして軍を発した。このとき、高継は尊氏から備中・美作の兵を率いて、美作の南朝軍を討つように命じられている。尊氏は摂津で楠木軍と戦い正成を討ち取り、新田義貞を逐い京都を回復した。後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を立て、尊氏は光明天皇を奉じて北朝を立て幕府を開いた。以後、六十年にわたって南北朝の内乱が展開されることになる。
このころ、三浦高継は関東に下向したようだ。その後も尊氏に仕えて忠勤を励み、南朝方の北畠軍に鎌倉で敗れた義詮を半年間にわたって護るなど、足利氏からの信頼をかちえた。長男高通は中先代の乱において祖父時継とともに北条方に味方したが、新田氏によって匿われ危うく命拾いをしたという。高継の死後、高通が相模三浦に下り父の跡を継いだ。
関東大乱
やがて、尊氏と弟の直義との間で対立が起こり、幕府内は二派に分かれて相争う「観応の掾乱」が勃発した。この乱に三浦高通は直義方の有力者である上杉方に属し、その先陣となり活躍した。擾乱は直義方の優勢に推移し、窮地に陥った尊氏は南朝と和睦し後顧の憂いを断つと、直義を追って東海道を下った。直義方は駿河国薩(土垂=た)山で尊氏軍を迎え撃ったが敗北、ここで高通は尊氏に降った。その後間もなく、直義が死んだ(毒殺ともいわれる)ことで掾乱は終結した。
正平七年(1352)南北両朝の和睦が破れると、旧直義派の武士たちとともに高通はふたたび尊氏に背き南朝方に合流した。しかし、尊氏の前に敗れ高通らは山中へ逃れた。このとき高通は相模守護職を奪われたようだが、旧直義党の上杉憲顕が鎌倉府に復帰して関東管領に就任したことで相模守護に復活している。高通死後は高連が継ぎ、父と同様に相模国守護に任ぜられた。この高連の代に南北両朝合一が成り、南北朝の内乱時代は終わった。
ところが、十五世紀のはじめ関東には新たな戦乱が起った。応永二十三年(1416)、前関東管領上杉氏憲(禅秀)が、鎌倉公方足利持氏に背いて兵を挙げた。「上杉禅秀の乱」であり、乱は関東を二分し、鎌倉を中心として激しい合戦が展開された。この時期の三浦氏の当主は高明で、高明は持氏方に属し、相模守護として相模の武士を率いて乱に参戦した。持氏は緒戦に敗れはしたが、駿河守護今川氏の応援を得て鎌倉に復帰し、幕府軍の援助も受けて、ついに禅秀一党を自害に追い込み、乱は持氏方の勝利に終わった。
しかし、これで平穏が訪れるることはなく、公方持氏の恣意的政策によって関東はますます乱れていった。応永三十三年、相模守護は一色氏が任ぜられ、三浦氏は相模守護職を奪われてしまった。一色氏は公方持氏の近臣であり、持氏の母は一色氏の出であった。つまり、近臣を重用して権限の独占をはかった持氏によって、三浦氏は相模守護職を解任されたのである。以後、三浦氏が相模守護職に復帰することはなかった。
・右:『見聞諸家紋』にみえる「竪三つ引両」紋
争乱の続く関東
高明の跡を継いだ時高の代、「永享の乱」が起こった。鎌倉公方持氏はとかく幕府に対立姿勢を示し、それをよく管領上杉氏が抑えていた。やがて将軍足利義持が死去すると、持氏は将軍職を望んだ。しかし、くじ引きによって僧籍にあった義教が新将軍になると持氏は義教に抵抗を繰り返すようになった。それを管領上杉憲実が諌め続けたが、永享十年(1438)八月、持氏は憲実追討の兵を挙げたため、上杉氏を支援する幕府により持氏討伐が実行された。これが「永享の乱」で、このとき、三浦時高は持氏から鎌倉警固を命じられた。
この時高に対して将軍義教から誘いの手がのび、時高は幕府方に寝返った。時高は一旦兵を鎌倉から退き、改めて鎌倉へ攻め入り御所に放火した。この時高の裏切りは、持氏にとって決定的誤算であり致命的打撃となった。持氏方は壊滅し、捕えられた持氏は自害し鎌倉府は滅亡した。その後、持氏の遺児春王丸・安王丸らが結城氏朝に擁されて結城城で挙兵したが、結城城は落城し持氏の遺児は京都に送られる途中の美濃で斬られ関東公方家は断絶した。この「結城合戦」に三浦時高は、幕府方として鎌倉の警固に務めた。
義教は「悪将軍」と呼ばれ恐れられたが、嘉吉元年(1441)、播磨守護赤松満祐によって殺害された。この「嘉吉の乱」後の混乱を鎮めるため、幕府は持氏の遺児のうち唯一人残っていた永寿王丸を赦し鎌倉府を再興した。永寿王丸は成氏と名乗り関東公方に復活したが、次第に幕府寄りの管領上杉憲忠と対立するようになり、享徳三年(1455)、成氏は憲忠を殺害する挙に出た。「享徳の乱」であり、この乱をもって関東は戦国時代になったとするのが定説となっている。京都で起る「応仁の乱」に先立つこと十二年前のことで、三浦氏は上杉方として行動した。
三浦氏の勢力拡大
打ち続く関東の戦乱のなかで、三浦氏は上杉方として活躍し、やがて時高の代になると大森氏・曾我氏らとともに扇谷上杉氏の重臣に数えられる存在となった。一方で三浦時高は幕府からの信任も厚く、その勢力は三浦郡はもとより鎌倉郡へと支配領域を広めていった。
時高には男子がなかったため、主家筋にあたる扇谷上杉持朝の次男高救を養子とし、三浦介を名乗らせた。その後、高救は上杉氏に復したため、その子義同を養子としていたが、晩年に至り実子が生まれた。時高は実子可愛さから、これに家督を譲ろうとし、ついには養子義同を殺害しようとした。
義同はなかなかの人物であったようで、『北条記』には、義同について「彼義同、器量雙なく才覚人に越ければ、郎党共を初め三浦の一門、是を持賞ける処に、時高晩年に及ひて実子一人出来しを、時高夫婦大に悦ひ、是を養立て家督を継せ、猶子新介義同を追出はやと思けれは、折付触れて面目なく当りけれ共、義同は少も色不出」と伝えている。
その後、三浦を逃れた義同は足柄下郡の総世寺において剃髪し道寸と称した。義同の母は小田原城主大森氏頼の娘で、大森氏や箱根別当らと親しい関係にあった。そして、明応九年(1500)九月、義同は家中の同心者に加え外戚の大森氏らの支援もえて、時高の拠る新井城を攻め時高を殺害し、三浦氏の家督を自らの力でかちとった。その後、義同は長子義意を新井城主とし、自らは岡崎城主として領国の拡大を図った。
早雲との抗争
ちょうどこの頃、駿河国から伊豆・相模へと勢力を伸ばしてきたのが伊勢長氏(のちの北条早雲)であった。明応五年(1495)、小田原城主大森氏を逐って小田原城を奪った北条早雲は、永正七年(1510)越後・上野の長尾氏と和睦して武蔵・相模方面に出陣し武蔵椚田城を攻略した。そして、逗子住吉にあった古要害に着目して堅固な山城に整備するなどして着々と陣容を固めていった。
道寸と義意父子はこうした早雲の動向を見極めながら、住吉城を攻略して支配下においた。この三浦氏の動きに対して早雲は、これまで対立していた上杉朝良と和睦し上杉氏を三浦半島から遠ざけることに成功した。こうして、三浦氏と早雲との対立は最終局面へと向かっていった。
永正九年(1512)、北条早雲は大軍をもって岡崎城を攻撃、道寸は懸命に防戦したが敗れ、住吉城に逃れて抗戦を続けた。しかし、住吉城の攻防も弟の城主道香が戦死、逃れた道寸は大崩れを食い止めようと必死に戦ったが、小坪・秋谷・長坂など三浦方の要害は次々に落されやむなく新井城へ後退していった。新井城を攻める後北条勢は六千とも七千ともいわれ、迎え撃つ三浦勢は二千足らずであったという。新井城は三浦氏にとって最後の拠点であり、引橋を引いて籠城すれば四方は海に囲まれる堅固をきわめた要害であった。
早雲は力攻めを避けて、三浦氏の力が弱まるのを待つ持久戦をとり、以後、三年間にわたって両軍は対峙をつづけた。その間、道寸は上杉軍の来援を待ったが、頼みの上杉勢は鎌倉郡玉縄城付近で後北条勢に敗れ、その望みは絶たれた。
・写真:三浦道寸が北条早雲と死闘を演じた新井城址
2003/05
三浦新井城址点描
新井城址の碑 ・城址に残る堀切道 ・静かな油壺の風景
・三浦道寸の墓 ・墓に刻まれた三つ引両の紋
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三浦氏の滅亡
新井城が三年間にわたって籠城することができたのは、三崎城を拠点とした三浦水軍の存在があったからである。籠城戦の間、早雲は筏を組みあるいは漁船などを挑発して新井城への上陸を試みようとしたが、その都度三浦水軍によって撃退された。三浦水軍はまた、上杉家、安房の里見家との連絡、兵糧や武器などの補給にも大活躍した。しかし、上杉勢を玉縄に破った早雲は、ついに永正十三年(1516)、後北条勢の全軍をあげて新井城を急襲した。
三崎城との連絡も絶たれた道寸は万策尽き、「落ちんと思う人あらば落ちよ、死せんと思う人は討ち死にして後世に名おとどめよ」と言い放つと城門を開いて切って出た。死を覚悟した城兵の勢いはすさまじく、後北条勢を打ち崩し追い立てたが、多勢に無勢、次第に後北条軍に切りたてられ主従ともに帰城し思い思いに切腹した。道寸も義意のすすめで、
「討つものも 討たれるものもかわらけよ
くだけて後は もとの土くれ」との辞世の和歌を残して自刃した。
嫡男の義意は八十五人力の勇士といわれ、後北条軍を相手に奮戦したが、二十一歳の若さで討死した。義意の首の目は逆さまに裂け、三年の間、死ななかったという。こうして、平安中期以来、三浦半島を本拠に勢力を振るった三浦氏は滅亡した。三浦氏は、二度にわたって北条氏に滅ぼされたことになる。
新井城の合戦で、義同・義意父子は討死にしたが、義意の弟時綱が三浦を脱出し、房総の里見氏を頼って落ち延び、里見氏の部将正木義時の養子となって正木氏を名乗ったという。その子孫は、里見家中で豪勇の名をはせたが里見氏改易後、徳川氏に仕え姓を三浦に復して紀伊家重臣として明治維新に至った。・2004年11月10日
【資料:日本の名族/神奈川県史/逗子市史/三浦郡史 ほか】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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そのすべての家紋画像をご覧ください!
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、
鎌倉時代は東国武士の名字・家紋が
全国に広まった時代でもあった。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
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