笹竜胆紋



Contents
●鎌倉の主-征夷大将軍
●鎌倉幕府の執権-北条氏

鎌倉武家政権を担った武家(52家)
●武将家割拠地図
●源平時代から鎌倉幕府へ
(年表)
●抗争の鎌倉府-北条氏の謀略
●鎌倉武士のユニット-惣領制
●リアリズムの鎌倉-新文化の勃興
●鎌倉の権力者-執権抄伝
●北条氏の宿敵-三浦一族
●鎌倉の鎮守-鶴岡八幡宮

系図は、尊卑分脈を基本として、系図綜覧・古代豪族系図集覧・戦国大名系譜人名事典・ 歴史読本-戦国大名系譜総覧・日本史小百科-家系、その他出版物のものを参考にして作成しました。
[家伝資料:前記に同じ]
ヘッダイメージ




源平時代から鎌倉幕府へ─時代の潮流


西暦年号事件
1156保元元年保元の乱。崇徳上皇敗れて、讃岐に配流。
1159平治元年平治の乱。藤原信頼、源義朝敗れる。
1160  二年源義朝、尾張で没。源頼朝伊豆に流される。
1167仁安二年平清盛、武臣として初めて太政大臣となる。
1179治承三年清盛、院政を停止し後白河法皇を鳥羽院に幽閉する。
1180  四年以仁王の令旨、源頼政挙兵。清盛福原遷都。
源頼朝挙兵、石橋山の合戦(8月)。源義仲挙兵(9月)。頼朝鎌倉入り、富士川の合戦。頼朝、和田義盛を別当として侍所を設置。
1181養和元年平清盛没。
1184寿永三年源義仲、源範頼・義経に敗れて敗死。二月、一の谷の合戦。頼朝、大江広元を別当に公文所、三善康信を執事に問注所をおく。
1185文治元年屋島の戦い(2月)。三月、壇ノ浦の戦で平氏滅亡。諸国に守護・地頭設置の勅許、兵糧米の徴収を勅許。
1189  五年藤原泰衡源義経を殺害。七月、頼朝奥州征伐出発、九月泰衡を討つ。
1190建久元年11月、頼朝上洛して参内、後白河法皇と会見。
1191  二年公文所を政所と改称する。
1192  三年後白河法皇没。七月、頼朝征夷大将軍に就任。
鎌倉幕府の成立
1193  四年守護・地頭職の確立。
1196  七年九条兼実が関白を追われ、九条家一門失脚、源通親が朝廷の実権を握る。
1199正治元年一月、源頼朝没、頼家が家督を相続。四月、頼家独裁をやめ、北条時政ら13人の合議制となる。
1203建仁三年頼家、病のため地頭職等を子一幡と弟千幡(実朝)に譲る。九月、実朝が将軍に就任、頼家は伊豆修善寺に幽閉される(翌年、暗殺される)。北条時政、執権に就任。
1205元久二年北条義時、執権に就任。
1219承久元年源実朝、公暁に殺される。義時、公暁を殺し源氏の嫡流断絶。九条道家の子頼経が鎌倉に下りる。
執権政治の確立
1221  三年五月、承久の乱 起こる。
乱に勝利した鎌倉政権は京に六波羅探題を置く。七月、後鳥羽上皇を隠岐、順徳上皇を佐渡に配流。十月、土御門上皇を土佐に配流。
1224元仁元年北条泰時、執権に就任。
1225嘉禄元年六月、大江広元没。七月、北条政子没。北条時房、初めて連署となる。12月、評定衆を設置。
1226  二年藤原頼経、将軍に就任。
1232貞永元年御成敗式目(貞永式目)制定。
1247宝治元年宝治合戦 起こる。敗れた三浦氏は滅亡する。
1249建長元年幕府、引付衆をおく。
1252  四年宗尊親王、将軍となる(親王将軍の初め)。
1267文永四年九月、高麗使節、モンゴルの国書をもって来日。
1268  五年一月、モンゴル使節、大宰府に来着。北条時宗、高麗使を返す。
1269  六年モンゴル使、返書を要求。
1271  八年鎮西に所領のある御家人を下国させ、海防にあてる。モンゴル使節筑前今津に来着。
1274 十一年十月、文永の役
大風雨により、元・高麗軍撤退。
1275建治元年幕府、元使を斬殺。
1276  二年幕府、博多付近の海岸に石塁を築かせる。
1279弘安二年幕府、元使を博多で斬殺。
1281  四年七月、弘安の役
大風雨により、元・高麗軍撤退。
1284  七年北条時宗没。

いま中年以上の方の場合、西暦1192年に鎌倉幕府が成立したと学び、 受験勉強では「イイクニ(1192)つくろう鎌倉幕府」と覚えたのではないでしょうか。 ところが、鎌倉幕府成立に関しては何処に視点を定めるかで、異論が続出しているのが現状です。 果たして、鎌倉幕府の成立は何年に落ち着くのでしょうか?
●お奨めサイト鎌倉幕府の成立はいつか?
 

バック index 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧