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宍戸氏
洲 浜
(宇都宮氏流小田氏支流/
桓武平氏相馬氏流)


 宇都宮宗綱の子八田知家(源義朝の子ともいう)に始まる。知家は源頼朝の厚遇を得、鎌倉幕府で長老として重んじられた。知家は常陸・下野及び安芸高田郡に所領を給与され、常陸守護職に補せられた。そして、本拠地の小田に嫡子の知重を入れ、四男家政を宍戸荘に配した。宍戸に住した家政は宍戸氏を称し、し宍戸氏の粗となったのである。
 以後、鎌倉時代の百五十年間、宍戸氏は無難に進退したようである。しかし、鎌倉幕府が滅亡し、南北朝対立の時代になると、戦乱に明け暮れる時代の激動にゆさぶられて、宍戸氏も南朝方に味方したり、あるいは北朝方に転じたりせざるをえなかった。
 南北朝初期の宍戸氏の当主は宍戸四郎安芸守朝里であった。「太平記」にも宍戸城主は宍戸安芸守朝里とみえている。太平記によれば、朝里は、鎌倉幕府を攻略した新田義貞に従軍し、鎌倉の合戦で戦功を挙げたことが記されている。
 朝里には、四人の男子があり、宍戸氏は嫡男の氏朝が継いで安芸守となった。三男の家里は園部村真木に分家、四男基里は宍戸荘一木に分家し、それぞれ真木氏・一木氏の粗となった。氏朝の孫、持里のとき、嘉吉元年(1441)結城合戦が起こり、持里は佐竹義憲に従って結城氏に加担した小栗氏の居城を攻撃している。持里のあと、持久─政里─政家─通綱と続いた(諸系図によって異なる)ことが系図から知られるが、持里のとき、「是ヨリ四世宍戸城主タリ」と「和光院過去帳」に記されるばかりで、宍戸氏に関する史料は乏しい状態となっている。

関東の戦国争乱

 一般的に戦国時代は「応仁の乱(1467)」をもって始まるとされるが、関東の戦国争乱は、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏が争った「享徳の乱(1455)」で幕を開けたとするのが定説である。  宍戸氏は室町期、鎌倉府の奉公衆として活動していたことが諸記録から知られ、鎌倉公方と管領上杉氏との争いに宍戸氏も巻き込まれざるをえなかった。
 他方、宍戸氏の宗家である小田氏は、小田孝朝の乱によって勢力を大きく失墜していた。しかし、成治・政治の代に勢力の回復が図られ、勢力を大きく拡大した。宗家でもある小田氏の勢力拡大をみて、宍戸氏は自領の安泰を求めてその勢力に属するようになり、その後、小田氏の与党として、各地の合戦に出陣するようになる。しかし、小田氏に属しているとはいえ、自領の保全を図るうえで、水戸城を本拠として次第に強大化する江戸氏への対応は宍戸氏にとって重要な案件であった。
 そのため、宍戸氏は江戸氏との親近関係づくりに腐心したようで、宍戸政里の妻は江戸通雅の女であったと「常陸史料」にみえる。さらに政里のあとは、江戸氏の一族鯉淵氏から義綱が迎えられている。二代にわたる江戸氏との親近関係は、宍戸氏に対する江戸氏の影響力を必然的に高める結果となった。
 享徳の乱後、世の中は次第に戦国時代へと様相を変えつつあった。室町時代の関東の情勢は、鎌倉府を頂点に在地領主がひしめくというものであった。しかし、小田原後北条氏の台頭と、古河公方・関東管領あ伝統的勢力の影響力低下が加速し、次第に隣接領主間の単純な対立、抗争という図式ではおさまらなくなってきたのである。

混迷を深める戦国時代

 時代の変化を象徴する事件として、弘治二年(1556)に起こった山王堂の合戦があげられる。合戦そのものの原因は、小田氏に奪われた海老ケ島城を結城政勝が奪還しようとしたものであった。しかし、その軍事行動は、下野国の壬生・佐野氏や武蔵国の遠山・太田氏、常陸国では、小山・真壁・多賀谷・水谷・山川氏らが参加するなど大規模なものとなった。これら大軍が組織された背景には、古河公方と北条氏康の結城氏支援があり、その影響力によって下野や武蔵からも軍勢が動員されたのである。すなわち、それまでの合戦とは違い、より大きな政治状況の下で行われた合戦であった。
 この戦いで敗退した小田氏の勢力下に入っていた宍戸氏にとって、他人事ではすまされない問題となり、同じく小田氏の勢力下に入っていた真壁氏も小田氏攻撃に加わっていたことも、宍戸氏に大きな動揺を与えたことは疑いない。ここに、宍戸氏も新たな政治状況の波にさらされることになったのである。
 永禄三年(1560)、関東を追われた管領山内上杉憲政の要請を受けた越後の長尾景虎が関東出兵を行った。このとき作成された「関東幕注文」は、景虎(上杉謙信)に参陣した関東諸将の幕紋を記したものだが、そのなかに「宍戸中務大輔 すはま」とみえ、宍戸氏も佐竹氏・小田氏らと同じく謙信の軍事行動に参加していたことがわかる。
 この時期、佐竹氏は「佐竹氏の乱」を克服して徐々に勢力を拡大させていた。そして、天文年間には江戸氏をその勢力下においた。佐竹氏は、謙信の関東出兵に積極的に加担し、後北条氏と対立した。宍戸氏も、江戸氏が佐竹氏の勢力下に入ったこともあって、佐竹氏と接点を持つようになった。その後、小田氏は後北条方へ属するようになり。宍戸氏は苦境に立たされたが上杉方への帰属を選択したようだ。以後、宍戸氏が小田氏に属することはなく、佐竹氏と軍事行動をともにしている。
 佐竹氏に属したとはいえ、依然として宍戸氏は自立的な領主支配を維持しておいて、佐竹氏の家臣化することなく、一定の自立性を保ち続けた。

戦国時代の終焉

 永禄五年(1562)以降、佐竹氏の勢力下に属した宍戸氏は、永禄七年の小田城攻略に参加、永禄十二年の手這坂の戦いで小田氏が没落すると、佐竹氏の勢力圏が成立し、宍戸氏は佐竹氏の勢力に随従することで自領を保った。天正六年(1578)小川台合戦、天正十二年の沼尻合戦など、佐竹氏の重要な軍事行動に宍戸氏は参加している。とはいえ、自立性を失うことはなかったようで、上杉謙信は宍戸氏宛に書状を送っていることが確認できる。
 天正十三年、江戸氏と大掾氏が戦ったとき、江戸氏方として大掾氏と戦い、十六年には大掾氏に宍戸領に侵入されることもあったが、一貫して江戸氏方として行動している。その後、江戸氏家中に「神生の乱」が起こり、宍戸氏は、神生方として参戦したことが知られる。このようなことから、宍戸氏は、江戸氏の一族的な印象を与えている。
 天正十八年(1590)、豊臣秀吉による小田原北条氏征伐の軍が起こされ、佐竹氏は小田原に参陣して秀吉に謁見した。このとき、宍戸四郎が真壁氏らとともに参候し、太刀・馬・金を秀吉に献上している。小田原開城後、佐竹氏は常陸一国の安堵を受けた。この安堵によって、それまで佐竹氏の勢力下に属しつつも自立性を保持した領主は、佐竹氏に属する領主として秀吉政権から認定されてしまった。江戸氏・大掾氏・額田小野崎氏、そして宍戸氏らも自動的に佐竹氏の家臣として組込まれることになった。その結果、諸氏と佐竹氏との間に緊張関係が生じたのである。
 佐竹氏は秀吉の常陸一国安堵の朱印状をてこに、強圧的な国内統一を押し進め、江戸氏の拠る水戸城も攻撃の対象となった。江戸氏は抵抗したが、結局、敗れて結城晴朝を頼って落ちていった。このとき、宍戸宗家の義綱は江戸氏との関係から佐竹勢を迎え撃ち討死し、嫡子の義長は鹿島の大弥宜中臣氏を頼って亡命した。ここに、宍戸氏の領主としての立場は奪われたのである。
 ところが、庶子にあたる義利が佐竹氏と親近な関係にあったことから宍戸名跡の継承を赦され、宍戸氏は形のうえで存続することになった。その後、義利は佐竹氏に従って朝鮮にも出陣した。その陣中で、義利は「宍戸殿」と尊称され、衰えたりとはいえ、鎌倉府の奉公人を務めた家格にたして敬意を払われていた。

茂木氏、近世へ

 文禄三年(1594)太閤検地が実施され、佐竹義宣は秀吉から五十四万五千八百石を安堵された。義宣はこの安堵を受けて、家臣たちの所領安堵・宛行を行った。宍戸氏は、鎌倉以来の宍戸領から海老ケ島へ配置替を行われ、六千七百石余を充行われた。この石高は秀吉から安堵された六万石の十分の一であったが、江戸氏滅亡のとき義綱を失った宍戸氏にとって抵抗するべくもなく、義利は海老ケ城に移っていった。義利は海老ケ島城で死去し、そのあとは義綱の子義長が継ぐことを許された。
 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、佐竹氏は旗色を曖昧にしたことから、慶長七年に国替えを命じられ常陸から出羽久保田へと移っていった。このとき、宍戸氏は常陸に残る道を選んだ。その結果、鎌倉初期より連綿と常陸で威勢を振るった領主としての宍戸氏の歴史は幕を閉じたのである。

●小田氏の家紋─考察



■参考略系図
 


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