白抜き紋



Contents
●鎌倉の主-征夷大将軍
●鎌倉幕府の執権-北条氏
●鎌倉武家政権を担った武将家
(45家)
●武将家割拠地図
●源平時代から鎌倉幕府へ
(年表)
●抗争の鎌倉府-北条氏の謀略
●鎌倉武士のユニット-惣領制
●リアリズムの鎌倉-新文化の勃興
●鎌倉の権力者-執権抄伝
●北条氏の宿敵-三浦一族
●鎌倉の鎮守-鶴岡八幡宮

系図は、尊卑分脈を基本として、系図綜覧・古代豪族系図集覧・戦国大名系譜人名事典・ 歴史読本-戦国大名系譜総覧・日本史小百科-家系、その他出版物のものを参考にして作成しました。
[家伝資料:前記に同じ]
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鎌倉の権力者─執権抄伝




北条氏は源頼朝の旗揚げに際しては一族をあげて最初から従った。しかし、その勢力は小さく、同じく頼朝に従った三浦氏や平家方でのちに頼朝に降った畠山氏らとは比べることもできないほどであった。しかし、幕府が成立すると頼朝の舅という立場を利して次第に勢力を伸ばし、梶原・比企氏ら対抗者たちを滅ぼし、頼朝の死後、幕政の主宰職ともいえる執権職に就いた。以後も、対立する勢力を討ち倒し、幕府最高の権力者となったのである。権謀の多い北条氏ではあるが、その政治にはクリーンなイメージがあるのが面白い。おそらく北条一族は、鎌倉幕府存在の機微をどの御家人よりも知っていたのであろう。そして、その機微を忘れたとき、北条政権は無用の存在になったといえよう。



北条時政
●初代執権
●保延四年(1138)〜建保三年(1215)
 北条時方の子で、政子・義時の父。桓武平氏と称しているが、伊豆の在庁官人の後裔と考えられる。流人頼朝に娘政子を娶らせ、その挙兵を助けた。頼朝の死後、その辣腕を発揮し、二代将軍頼家の専横を排して元老と有力御家人十三人の合議制で幕政を行い、のち対抗者梶原氏・比企氏を滅ぼした。さらに、将軍頼家を殺害して実朝を立て、自らは執権となり幕府の権力を独占した。
 しかし、若い後妻牧の方に迷い、実朝を殺し、その女婿平賀朝雅を将軍に立てようとしたが、三浦義村と組んだ政子・義時によって伊豆に追放された。
.. ■合議制の運営者
.
北条時政・北条義時・
大江広元・三善善信・
中原親能・三浦義澄・
和田義盛・梶原景時・
八田知家・足立遠元・
比企能員・安達蓮西・
二階堂行政

北条義時
●二代執権
●長寛元年(1163)〜元仁元年(1224)


 北条時政の次男。頼朝の挙兵に際し父と共に従った。頼朝の死後、宿老会議に列した。牧の方の陰謀事件で姉政子と共同して父時政を追放して政所別当となった。
 三浦一族で勢力を有していた和田義盛を挑発して滅ぼし、その侍所別当職をも兼ね、幕政の重職を独占した。実朝暗殺後、京より九条頼経を将軍に迎え、執権政治を確立した。
 幕府の専制を憤った後鳥羽上皇が義時追放の宣旨を発すると、弟時房・子泰時に大軍を授け上洛させ、上皇らを配流し、幕府政権を不動のものとしたが、その三年後急死した。後妻伊賀の方が兄光宗と謀り、実子政村を執権に、女婿一条実雅を将軍に立てようとして毒殺したともいわれる。

北条泰時
●三代執権
●寿永二年(1183)〜仁治三年(1242)
 泰時の長男。父義時の死の危機を伯母政子の力を得て乗り切り、執権となった。そして執権専制を改め、叔父時房を次席執権(のちの連署)に据え、評定衆を任命し、幕政を合議制に転換した。また、公平な裁判の典拠となる法典の編纂を行い、貞永元年、五十一ケ条からなる初めての武家法典「御成敗式目(貞永式目)」を完成した。
 祖父時政、父義時の権力政治の後をうけ、行政面・法律面で幕府の基礎を確立し、執権政治を完成させた功績は大きい。
 泰時は、権謀家の父義時と異なり温厚な人柄で、承久の乱には父に恭順を説いたが、父の意見に従った。出陣の折、鶴岡八幡に「もし今度の上洛に道理がなければ我が命を奪ってください。もし天下のためになるなら守ってください」と祈願したといわれる。
.. ■御成敗式目
.
目的
御家人間や御家人と荘園領主間の訴訟を公平に裁判する基準を設けるため
内容
●守護、地頭に関する規定●知行年紀法の規定●所領の支配、相続の原則●犯罪に対する刑罰の規定 など

北条時頼
●五代執権
●安貞元年(1227)〜弘長三年(1263)


 北条泰時の子時氏の子。母は安達景盛の娘松下禅尼で、出家して最明寺入道と称された。
 兄経時の病により十九歳で執権になったが、名越光時が前将軍九条頼経と結んでその座をうかがった。時頼は三浦泰村と組んでこれを破り、のち外戚安達氏が三浦氏と対立すると安達氏を助けて三浦氏をも滅ぼし、権力の座を固めた。
 御家人間の訴訟の迅速をはかるため引付衆を新設し評定衆の下部裁判機関とし、また大番役の軽減等も行い、御家人層から仁政と賛えられた。このことからのちに謡曲「鉢の木」で有名な、身をやつして諸国の実情を視察する「廻国伝説」が形づくられた。病のため出家した後も実権を掌握し続けたが、三十七歳の若さで没した。
 時頼の質素な生活は、味噌を肴に酒を飲んだ「徒然草」で有名だが、同書には、執権である我が子時頼を自邸に招き、わざと障子の破れを小さく切り張りして倹約の範を垂れた母松下禅尼の訓戒の話もある。

北条時宗
●八代執権
●建長三年(1251)〜弘安七年(1284)


 北条時頼の子で相模太郎を称した。父時頼の没した時若年のため、得宗時宗は連署の地位に止まった。宮将軍宗尊親王に時宗排斥の危険を感じ、これを廃し、その幼子惟康親王を立てた。
 文永五年、蒙古の国書が到来すると、十八歳で執権に立てられ、国難にあたることになり、文永・弘安の役に際し、天祐があったとはいえ、よく元寇を退けた。
 時宗は、舅でもある御家人安達泰盛と御内人(北条得宗の家臣)平頼綱の二人の実力者の対立に均衡を保ち、良く幕府の権威を保持したが、内外の精神的疲労のためか、三十四歳の若さで急逝した。
*「蒙古襲来絵巻」九州の御家人竹崎季長が書かせたもので、当時の家紋を知る貴重な史料としても有名なもの。

北条貞時
●九代執権
●文永八年(1271)〜応長元年(1311)


 北条時宗の長男。父の死後、十四歳で執権になったが、実権は外祖父の安達泰盛が掌握していた。しかし、弘安八年、安達氏と対立する御内人平頼綱の言を容れ、これを滅ぼした。世にいわれる「霜月騒動」である。ついで、専横をふるった頼綱をも永仁元年に討ち、執権専制を確立した。
 貞時は、裁判機関の引付衆を廃し、執奏を設置し、その最終判決権を掌握。幕政を合議制から得宗独裁へと変えた。正安三年、三十一歳の若さで執権職を北条師時に譲り出家したが、以後も実権を握り、評定にも出席して幕政を指導した。出家後は最勝薗寺入道と称された。また、かれの子が実質上幕府最後の執権*となった高時である。
*高時のあと、15代執権に金沢貞顕が就いている。
 

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