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問註所氏
●丸の内に違い鷹の羽/抱き杏葉
●三善氏族町野氏後裔
・問註所氏に伝わる古文書に、家紋は「丸ノ内鷹羽、杏葉」とある。応仁の乱のころに成立した『見聞諸家紋』には、幕府に仕えた町野氏の「欄干輪に違い鷹の羽」が見えており、こちらが古形かと思われる。杏葉は戦国末期に大友氏から賜ったと伝えられる。
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問註所氏は三善姓で、鎌倉幕府の初代問註所執事三善康信(善信)の後裔である。康信は平安時代前期に文章博士兼大学頭に任ぜられた三善清行五代の孫で、鎌倉幕府を開いた源頼朝に招かれて、元暦元年(1184)幕府の問注(註)所の初代執事となった。
康信の嫡流は、子の康俊、孫康持と問註所執事を世襲したことから問註所氏を称するようになった。建久七年(1196)、康信が筑後国生葉郡を賜り、子の康俊は大友能直の後見としてともに鎮西に下向し、のちに鎌倉に帰った。やがて正和二年(1313)、康持の孫康行が生葉郡に下向し、長岩城を築き問註所を称するようになったという。
『問註所家譜』によると、「浄蔵貴所浄蔵(三善清行の子で布施・飯尾氏の祖で、康信系とは異なる)の後裔町野中宮太夫属散位従五位下三善朝臣康信入道善信云々、嫡子は問註所氏と称し、庶子は町野、或いは平川、或いは三善」とある。これによれば、三善一族の嫡流は町野氏であったが、称としてはむしろ問註所氏といったことがわかる。
・町野氏の家紋:『見聞諸家紋』に見える「欄干輪に違い鷹の羽」
九州に土着する
元弘三年(1333)、鎮西探題北条英時は大友・少弐らに攻められて博多で討死した。その子の規矩高政は糸田貞義と共に、北条の一党ら各地の反逆の徒党を集めて兵を挙げた。規矩高政は帆柱山城に依って、宗像大宮司・少弐氏らと戦ったが討死した。一方の糸田貞義は筑後国三池郡で、黒木・問注所・草野・星野の各氏を味方につけ、堀口城に立て籠ったが大友氏の攻撃を受けて討ち取られた。元弘の動乱期、問注所氏が幕府方に味方していたことが知られる。
建武三年(1336)、前年に後醍醐天皇に叛旗を翻し、京都を征圧した足利尊氏が官軍に敗れて九州に逃れてきた。菊池・阿蘇氏ら九州の宮方は大軍を催して尊氏を討とうとし、尊氏には大友・島津・少弐氏らが味方して多々良浜で決戦が行われた。戦いは圧倒的な人数を有する宮方が優勢であったが、松浦党の離反などもあって尊氏方の大勝利に終わった。この戦いに問註所康行は大友氏に従って出陣、戦後、その功によって竹野郷を与えられている。
以後、問註所氏は武家方に属して、康行の子氏康は延文二年(1357)、翌延文三年に功を立てている。また、氏康の詮康は、応安四年(1371)の筑後川の戦い、同七年の高良山の戦いに出陣して戦功があったと『問註所家譜』に記されている。
ところで、九州の南北朝時代は征西将軍宮懐良親王と菊池武光の活躍によって、太宰府を制し、征西府を称えた南朝方が勢力を振るった。これに対抗したのが九州探題今川了俊で、了俊はその卓越した政治力と武略で南朝方を圧倒し、ついには逼塞させるに至った。そして、明徳三年(1392)、南北朝の合一がなった。それから三年後の応永二年(1395)、了俊の権勢を危惧した将軍足利義満は了俊の九州探題職を解任すると、京都に召還した。了俊失脚の背景には、大内氏、大友氏らの讒言があったともいわれる。
乱世への序奏
室町時代になると、北九州(筑前・豊前)は少弐氏と大内氏とが太宰府をめぐって抗争を繰り返した。大内氏は幕府からの命もあって、新九州探題に任命された渋川満頼を支援して北九州に勢力を伸ばしてきた。そのような大内=九州探題勢力に対抗したのが少弐氏で、少弐氏は豊後の大友氏と結ぶことが多かった。しかし、大内氏がおおむね優勢で、少弐氏は大内氏との抗争のなかで次第に衰退していった。
そもそも少弐氏は鎌倉時代より鎮西の有力大名として、筑前守護をつとめ太宰府の少弐であったことから、少弐を名字としたものであった。そのような少弐氏にしてみれば、筑前国・太宰府はみずからの拠り所であり、征西府・九州探題・大内氏とは宿命的に対立関係にならざるをえなかったのである。ところで、少弐氏と問註所氏の名字の成り立ちは、ともに職名から発生したことで共通しているといえよう。
一方、豊後を本領とした大友氏の筑後支配は、応永二十三年(1416)、大友親著が足利義持より筑後守護職仁補任されたことに始まる。そして、寛正六年(1465)大友親繁が筑後守護職に任ぜられると、これに反対した黒木越前・三池玄蕃らの筑後国衆が肥後の小代兵庫助と結んで兵を挙げた。親繁はみずから大軍を率いて出陣すると、たちまち叛乱軍を征圧した。この乱に問註所教康は星野・五条氏らとともに大友方として出陣、三十二歳の壮年で戦死をしている。
筑後の争乱から二年後の応仁元年(1467)、京都において応仁の乱が勃発した。九州では西軍に味方した大内勢と、東軍に参加した少弐氏との間で合戦が繰り広げられた。大友氏は少弐氏を援けて、筑前・肥前の大内方の諸城を攻略した。戦乱は肥後の菊池氏、南九州の島津氏をも巻き込み、問註所氏ら筑後の諸将も否応なく出陣に明け暮れたのである。
筑後の国人領主に成長
筑後国は大友氏が代々守護職を世襲した(途中、菊池持朝が守護職となったときもあった)が、大友氏は筑後の支配は守護代をおいて任せていた。その結果、筑後国には大勢力があらわれず、諸勢力が割拠する状態にあった。戦国時代の天文年間(1532〜55)のころ、筑後国には大身十五家があって、筑後十五城主と称された。そのなかの最大のものは下蒲池氏であったが、生葉郡長岩城の問註所氏も十五家の一に数えられていた。
ところで、問註所氏は初代康行より代々、長岩城を本拠として、生葉・竹野二郡のうち十五村三百町を領した。とはいえ、長岩城に関していえば、戦国時代の永正十年(1513)、安芸守親泰が再興したというのが当たっているようだ。そして、親泰のあとを継いだ親照のとき、問註所氏は小坂村に井上城を築き、さらにその詰め城として立石城を築き、星野・秋月らへの備えを固めた。
大永四年(1524)、秋月種時が大内氏に通じて筑前・筑後の大友氏領を侵した。問註所親照は大友義鑑に命じられて出陣、戦功をあげ感状を受けている。ついで、享禄年間(1530ごろ)星野親忠が大内氏に転じて妙見城に立て籠った。これらの反乱は、大友氏が一族や譜代の家臣に篤く、国衆には冷淡であったことが一つの原因toなっていた。そのようななかで、問註所氏はつねに大友方として行動し、享禄四年、親照の嫡男鑑豊が元服したとき、大友家は一字を与えるとともに馬・太刀などを贈る厚遇をみせている。大友氏に対する問註所氏の忠節は、戦国時代末期に至るまで変わることはなかった。
天文十九年(1550)、「大友二階崩れの変」で大友義鑑が死去すると義鎮(宗麟)が大友氏の家督を継承した。大友氏の異変をみた筑後の西牟田・溝口・三池・星野正実・草野氏らは、肥後の大津山・小代・辺春氏らとともに、中国の大内氏と結んで兵を挙げた。このとき、筑後の問註所・星野山城守・五条氏らは大友氏に味方して諸将の謀叛を豊後に報じた。翌二十年には大内義隆が陶晴賢の謀叛で殺害され、義鎮の弟義長が大内氏の跡継ぎに迎えられた。ここに至って、大内氏、少弐氏に代わって大友氏が北九州を支配するようになった。
大友氏に属して奮戦
弘治元年(1555)、毛利元就が陶晴賢を厳島の戦いで討ち取り、続いて弘治三年には大内義長を討ち取ると、毛利氏が北九州へ進出してきた。それまで大友氏に属していた秋月文種、筑紫惟門らは毛利氏に通じて、大友氏に叛旗を翻した。大友義鎮は文種を討ち、文種の遺児と筑紫惟門らは毛利氏を頼って逃れ去った。
永禄二年(1559)、筑紫惟門は二千の兵をもって博多を襲撃し、大友氏の代官を殺害した。『九州治乱記』に、「永禄二年、筑前国五箇山の領主筑紫右馬頭惟門、此二、三年、大友に攻められ山中に引き篭りしが、今年の春、居城武蔵(天判)へ立帰り、大友に対し、又々逆意をなしけり云々」とある。
大友義鎮は、真光寺佐藤刑部丞を大将に犬塚高家・問註所鑑晴・星野鑑泰ら筑前・筑後・肥前の軍兵一万余をもって惟門の拠る天判山城を包囲させた。惟門は大友勢との決戦を避けて籠城し、攻めあぐねた大友勢が兵を退くと、城を出て侍島に兵を動かし河畔や森陰などに潜ませた。筑紫氏が侍島に移動したことを知った大友勢はただちに攻め寄せたが、筑紫氏の伏兵の鉄砲乱射によって総大将佐藤刑部丞が討死、ついで、犬塚高家・問註所鑑晴・星野鑑泰らことごとく討ち取られた。
その後、筑紫氏は大友氏に降ったが、永禄九年、高橋鑑種が大友宗麟に謀叛を起すと、筑紫惟門と秋月種実らは鑑種に味方して、それぞれの城に立て籠った。このとき、鑑豊の弟(兄ともいう)は秋月種実に属して井上城におり、問註所氏は大友方と反大友方とに分裂した。問註所鑑豊は無二の大友方として筑紫惟門と戦ったが、侍島において壮烈な戦死をとげた。
鑑豊のあとを継いだ鎮連は高橋・秋月攻めに出陣して雨生津の戦いでは七戦七勝したという。永禄十年、大友方の大将戸次鑑連と秋月氏の間で休松の合戦が起り、大友方は散々な敗北を喫した。この戦いで、問註所氏は一族郎党から五十余人の戦死者を出す苦戦であった。さらに、この敗戦によって筑前における大友方の重鎮立花鑑載が大友氏から離反したため、大友軍はただちにこれを攻め鑑載を討ち取った。その間、鎮連は筑前左右良(までら)山城番に命じられて、秋月氏、高橋氏らと対峙した。
戦乱に翻弄される
永禄十二年、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らが高橋を支援して立花城を攻撃した。鎮連は戸次鑑連の先陣をつとめ、多々良浜で吉川元春と激戦を演じた。やがて、吉岡入道宗歓が一計を案じ、大友氏が庇護していた大内輝弘を周防に討ち入らせた。さらに尼子氏の旧臣山中鹿介らを支援するなど、毛利氏の後方攪乱をはかった。毛利氏は大いに動揺し、九州からの撤兵を開始した。大友方は毛利軍を追撃して大勝利を得ると、立花城を攻略し、高橋鑑種を下して筑後・豊前をことごとく平定した。
かくして、北九州をめぐる大友氏と毛利氏との戦いは、毛利氏が撤退したことで大友氏の勝利となった。ところが、少弐氏を滅ぼした籠造寺隆信がて肥前で勢力を拡大するようになり、南九州では島津氏が着々と北進作戦を展開するようになった。
毛利氏が撤収したのちも鎮連は左右良山城番として秋月氏らを監視し、長岩城は嫡男統景が鎮連の弟鎮堅を後見役として守っていた。秋月種実は星野氏と結び、問註所一族の切り崩しを行い、ついに鎮次を味方に引き入れた。天正二年(1574)、種実は鎮次とともに左右良山城を攻撃、不意を討たれた鎮連は防戦かなわず戦死した。
ところで、鎮連の妹は仁志といい、はじめ安武鎮則に嫁して二男一女をもうけたが、離縁となって戸次鑑連の後妻となった。これは安武鎮則が大友氏に反して籠造寺隆信に従ったためで、実家に引き取られた仁志は改めて鑑連に嫁いだのであった。そして、仁志は鑑連との間に一女をもうけた。この娘がのちに戸次鑑連=立花道雪の嗣子となる宗茂を婿としたギン千代である。
天正六年(1578)は、九州戦国時代を一変させる年となった。この年、九州最強の勢力を誇った大友宗麟は島津氏を討たんとして、五万の兵を率い日向に進攻した。ところが高城・耳川の戦いで、島津氏に潰滅的敗北を喫し、一挙に衰勢に立たされたのである。大友軍の大敗をみた籠造寺隆信は、二万余の軍勢をもつて筑後に出兵した。筑後最大の勢力を有する蒲池鎮並が隆信の陣に参じると、西牟田鎮豊、草野鑑員らも隆信に降伏した。一方で、三池上総介鎮真(鎮実)、上蒲池志摩守鑑広、河崎鎮堯らは大友氏に節を通し、問註所統景も龍造寺に従わなかった。以後、籠造寺隆信は着々と筑後侵略を進め、ついには筑後から肥後の北部にかけての地域は隆信の支配下となった。しかし、問註所統景は長岩城に拠って屈することはなかった。
大友氏の衰退
天正九年(1581)、問註所勢は星野氏の籠る白石城を攻略、さらに長岩城に攻め寄せた星野・秋月連合軍を夜戦をもって撃退した。その後も星野氏らの攻撃が続き、田籠村において星野氏と星野に加担する一族の鑑景らを散々に打ち破った。問註所氏は反大友軍との戦いに孤軍奮闘を続け、天正十一年になると、長岩城下での攻防が繰り返された。これらの功によって、大友義統から杏葉紋の使用を許されている。
やがて、天正十二年三月、龍造寺隆信が沖田畷において島津・有馬連合軍と戦い討死した。さきに大友氏を撃破し、いま龍造寺隆信を討ち取った島津氏の威勢は一気に揚がり、島津氏は九州統一戦を展開するようになるのである。
隆信を失った龍造寺氏は、柳川の鍋島信生(直茂)を佐嘉に移して執政となし、龍造寺家の立て直しをはかった。柳川には龍造寺家晴が入り、筑後の経営に任じられた。上蒲池、黒木、西牟田、草野、星野氏、門註所鑑景らが龍造寺家に異心なき旨の神文を提出している。
一方、大友氏は筑後の失地回復を狙って、七千の軍勢を筑後に進攻させた。この出兵には、今後予想される島津軍来攻の前に、筑後に拠点を確保して置くという目的もあった。大友軍は間註所統景を案内として、猫尾城に拠る黒木家永を攻撃した。佐嘉から黒木へ援軍が送られ、大友方と黒木方とは激戦を展開した。戦はひと月余りに及び、業を煮やした大友義統は筑前の立花道雪と高橋紹運の両将に出陣を促した。両将はともに名将として知られ、立花、高橋両将の率いる筑前勢の働きはめざましく、黒木城は落城した。
黒木落城後、大友軍は山下城を攻めて蒲池鎮運を降し、さらに田尻氏ら反大友方の諸城を攻略して統景・鎮春兄弟を筑後のおさえとして豊後に帰陣した。同年十二月、秋月・星野・問註所鑑景らが押し寄せたが、統景・鎮春はこれを撃退して鑑景らを討ち取る勝利をえた。とはいえ、このころの筑後国内における大友方の有力城主としては、長岩城主問註所統景と矢部の高尾城主五條鎮定の二人ぐらいであった。
天正十四年(1586)、島津義久は軍団を東西二手に分けて九州北進の作戦を開始した。島津氏の北上作戦に対して、大友宗麟は豊臣秀吉に豊後・豊前・筑前の所領をさしだし庇護を求めた。かくして、秀吉は宗麟の要請を好機として、九州征伐を決心したのであった。
・杏葉紋:天正十一年大友義統から賜った家紋
問註所氏の孤忠
怒涛の勢いで筑後へなだれこんだ島津軍は、山下、川崎、黒木の諸城を収め、城島を抜き、高良山に攻め寄せ座主良寛・尊能父子は降伏した。三池、問註所、三池、草野、星野、田尻、江島、江上氏ら筑後の諸将は島津氏のもとに参じ、肥前より龍造寺、有馬、松浦、高来、神代、波多等が参陣した。さらに、筑前からは秋月、原田、豊前からは城井、長野、高橋等が馳せ加わった。
勢いにのった島津軍は、筑前の大友三城と呼ばれる宝満、岩屋、立花城の攻略に向った。岩屋城は名将高橋紹運が守り、立花城は立花道雪の婿となった長男の統虎(立花宗茂)が守り、宝満城は二男の統増が城主であった。このように、大友氏の荒廃は高橋父子の双肩にかかっていたのであった。岩屋城は壮絶な攻防戦のすえに紹運以下、将兵ことごとく討死した。島津氏は立花城の攻撃を開始したが、統虎の守りは堅く攻めあぐねた。やがて、上方勢が豊前に到着した報に接した島津軍は立花攻めをあきらめ、博多の街を焼き払い本国へ退いていった。
この間、統景は長岩城に籠城し、秋月・星野・島津氏らの攻勢に対して最後まで城を守り通した。天正十四年、統景は豊臣秀吉の幕下に属し、次男才徳を人質として差し出した。翌天正十五年、九州に出陣してきた秀吉は、羽柴秀長らに豊後から日向を進攻させ、みずからは秋月氏を攻め、筑後に入り高良山に陣を布いた。統景は秋月において秀吉に拝謁し、島津討伐の先手を仰せつかった。秀吉の大軍の前に島津氏は屈服し、秀吉は九州仕置を行うと帰京した。小早川隆景・立花宗茂・筑紫広門らが大名に取り立てれたが、統景は本領を安堵されたものの従前同様に大友家の麾下に付された。
文禄元年(1592)、秀吉が朝鮮出兵を開始すると、統景は毛利氏に従って渡海し、異郷でしばしば戦功をあげた。しかし、翌文禄二年、江原道で明の大軍と戦って弟正白らとともに戦死し、統景のあとは政連が継いだ。ところが、慶長三年(1598)、大友吉統が朝鮮における不手際から改易処分を受け、政連は鎌倉時代以来の所領と長岩城を失った。翌年、立花宗茂から千石を与えられ、慶長五年の関ヶ原の合戦に出陣して功を挙げた。しかし、戦いは西軍の敗北となり、宗茂が柳河を改易されたことで政連はふたたび浪人となった。
その後、加藤清正に仕えたが、宗茂が柳河城主に復活すると政連はこれに従い五百石、嫡男の康辰は百五十石を与えられ、問註所氏は柳河藩士となった。ここにおいて問註所氏は安住の地をえたわけだが、統景が大友氏に対して貫き通した忠節は、結果として報いられたのであろうか。・2005年4月5日
【参考資料:浮羽町史/西国武士団関係史料集; 32・33/家系研究の基礎知識 ほか】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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