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茂木氏
●花洲浜/洲浜
●藤原道兼流宇都宮氏族
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茂木氏は鎌倉幕府の有力御家人で、常陸守護職に任じられた八田知家の三男知基に始まる。知家は建久三年(1192)将軍源頼朝から下野国茂木郷の地頭職を与えられ、三男の三郎知基を現地に遣わした。茂木郷に下向した知基は桔梗城に拠り、茂木三郎を称して茂木氏の初代となった。『吾妻鏡』の建久六年(1195)の記事に、知基は流鏑馬十六人のうち十一番目の射手として選ばれている。また、承久三年(1221)の承久の乱に出陣、戦功により紀伊国賀太庄を与えられた。
宝治元年(1247)、「宝治合戦」が起り、執権北条時頼が幕府御家人としても勢力を誇っていた三浦氏を攻め滅ぼした。この「宝治合戦」に茂木知基の子知定は三浦氏に与したとの疑いをかけられ、乱後の論功行賞から漏れた。恩賞に漏れた知定は、書状や起請文を提出して嫌疑を晴らすとともに恩賞にも預かっている。知定にとって執権北条氏から嫌疑を受けることは、自家存続のうえでにも重大事であり、なんとしても晴らさなければならないものであったのである。
茂木氏は本領である茂木五ヶ郷のほか、信濃国、越後国、能登国、紀伊国などに所領を有していた。そして、全国に散在する所領の統治は、庶子や代官を派遣して行っていたようだ。『茂木文書』によれば、茂木氏は惣領を中心として、所領を庶子に分け与え、庶子は所領高に応じて年貢・公事を割り当てられ、軍役も課せられていた。いわゆる、惣領制による支配を行っていたことが知られる。
南北朝の内乱
元弘元年(1331)、後醍醐天皇の討幕の企てが漏れ、天皇は笠置山に入って武士たちに討幕の挙兵をうながした。元弘の乱で、幕府はただちに討伐軍を発し、捕らえられた天皇は隠岐に流された。事態は収拾されたかにみえたが、護良親王が吉野で、楠木正成が河内千早城で挙兵し、反幕の動きは全国的な広がりをみせていった。元弘三年、天皇は隠岐を脱出して伯耆の船上山に拠ると諸国に討幕の綸旨を発した。幕府は名越高家と足利高氏を大将とする大軍を、京に派遣して局面の打開に努めた。ところが、天皇討伐に向かった高氏が丹波篠村で六波羅攻撃を決意し、兵を返して京都に攻め入ったことで六波羅は潰滅した。
一方、関東では上野の新田義貞が新田庄生品神社で挙兵した。迎え撃つ幕府軍を退けた新田軍は稲村ケ崎から鎌倉に突入し、激戦の末に敗れた北条一族は自刃して果て鎌倉幕府は滅亡した。この鎌倉合戦とよばれる戦いに茂木知貞は新田軍に属していたようで、戦後に後醍醐天皇から本領を安堵されている。
かくして、建武の新政が発足したが、時代錯誤な政策と依怙の多い沙汰に対して武士たちは失望し、足利尊氏を新しい棟梁として仰ぐようになった。建武二年(1335)、北条残党によって中先代の乱が起り、鎌倉は叛乱軍に制圧された。足利尊氏は叛乱の制圧に向かおうとし、天皇に征夷大将軍ヘの補任を求めたが許されず、無断で尊氏は関東に下り叛乱軍を撃ち破って鎌倉を解放した。以後、尊氏は天皇の召還命令を無視し、独自に武士に対する恩賞を行うなどした。これは新政への叛乱であり、天皇は新田義貞を大将として討伐軍を送った。
尊氏は新田軍を箱根竹ノ下の一戦に破ると、敗走する新田軍を追って京都に攻め上った。これに対して、奥州の北畠顕家が攻め上り敗れた尊氏は九州に落ちていった。茂木知貞が尊氏に従ったのはこのころであったようで、知貞は奥州に帰る北畠軍を相馬氏とともに相模川・片瀬川で迎え撃っている。
その後、九州で勢力を盛り返した尊氏は京都をふたたび征圧し、吉野に奔って南朝を開いた後醍醐天皇に対抗して、北朝をたて足利幕府を開いたのである。こうして南北朝の内乱が始まると、茂木知貞は尊氏(=北朝)方として活動した。建武三年、常陸国内で南朝方が優勢となると、知貞らは鎌倉府執事の斯波家長から軍勢催促状を受け、八月北朝方の拠点小山城の警護を勤め、九月横田原、十一月茂原の合戦で功を立てた。しかし、同月北畠顕家の率いる南朝方の攻撃で茂木城は落城し相伝の書類を焼失した。その後、足利直義に訴え従来の知行地を安堵された。
文和二年(1353)に知貞が残した置文は、宇都宮社や幕府・鎌倉への税負担の内容が記された興味深いものである。また同文には、惣領の支配をよく守り、兄弟睦まじく、家門・子孫を繁栄させよとのくだりもみえ、知貞の家庭人としての姿をも彷彿させる。文和四年、知貞は死去したが、その一生は戦いに次ぐ戦いの連続であった。
鎌倉府体制の成立
知貞の跡を継いだ知世は、父知貞とともに足利方として活躍した。すなわち、建武三年(1336)十二月より翌年七月まで足利一門の大将桃井氏に属して結城郡、下野国下条原、宮隠原、乙妻・真々田原、常陸国関城などで南朝方の北畠顕家軍と戦った。建武四年十二月には、奥州より長駆京都を目指した北畠軍を、桃井氏に従って追撃、鎌倉や畿内各地で奮戦した。延文四年(1359)九月、畿内の南朝軍討伐のため出陣を命じられた知世は、戦死した場合の自分の命日のこと、領内寺院への配慮、日光社参などを指示した置文を書いている。
次の朝音は貞治元年(1362)に西国凶徒討伐、翌年宇都宮氏綱の乱の鎮圧、四年には信濃国凶徒退治のため出兵を命じられ、恩賞として信濃国内に所領を与えられた。また小山氏の茂木領への進出があったとみられ、小山義政の乱討伐にも参陣した。小山氏は鎌倉公方足利宇氏満の制止を聞き入れず宇都宮領に侵攻し、宇都宮基綱を討ち取ったもので、公方氏満は小山義政の討伐を決し、東国の諸将に動員令を発し、朝音にも御教書が届けられたのである。
小山義政の乱後、間もなく朝音は所領を嫡男基知と二男幸楠丸に譲って死去した。つぎの基知もそれから四年後に所領を弟の幸楠丸に譲ったことで、幸楠丸は茂木氏の所領を全て譲渡されて家督を継いだ。幸楠丸はのちに満知(知清)を名乗ったが、満知は嫡子満王丸に所領を譲渡したが、鎌倉時代のように庶子に分割譲渡するのではなく嫡子単独相続を行っている。このころに、茂木氏は惣領制を克服して、嫡子単独相続制に移行したことが知られる。それはまた、茂木氏が満知の時代に国人領主としての地位を確立したことを示すものであった。
一応の安泰を見せた鎌倉府の新公方に足利持氏が就くと、上杉氏憲(禅秀)が関東管領として持氏を補佐した。ところが、持氏がささいなことから禅秀の家人の越幡六郎の所領を没収したことから、両者の間に不和が生じ、禅秀は関東管領を辞職して公方足利成氏と対立した。両者の対立は、家人の所領没収が引き金となったものの、そこに至るまでには複雑な時代背景があった。
当時、惣領制の崩壊による庶子家の台頭からもたらされる惣領家との対立、観応の擾乱に尊氏に加担しながら没落を余儀なくされた国人領主たちの不満があった。それに加えて、管領上杉氏内部の対立、鎌倉公方家内部の対立、はては将軍家内部の対立があり、それらが絡まって禅秀の乱が起ったのである。
争乱の始まり
禅秀は将軍足利義持の弟義嗣、持氏の叔父足利満隆らと同盟し、みずからの縁者や鎌倉府に不満を持つ武士を糾合すると、応永二十三年(1416)に兵を挙げた。持氏は危ないところで駿河に逃れ、管領の上杉憲基は越後に逃れた。禅秀の乱は成功したかにみえたが、将軍足利義持が持氏を応援して今川範政や上杉房方らに禅秀の討伐を命じたことで形勢は逆転した。翌二十四年、追い詰められた禅秀と一党は鎌倉で自害して乱は終熄した。
この乱当時の茂木氏の当主は満知であったが、戦乱のなかでどのように行動したかは明確ではないが、公方持氏の側近くにに仕えていたものと考えられている。
乱を制圧した持氏は、禅秀に協力した国人領主を弾圧して専制体制を確立しようとした。そのような持氏の行動を危惧した将軍義持は、関東の有力国人を「京都扶持衆」に組織して持氏の動きを監視させた。これに反発した持氏は、京都扶持衆を討伐に狂奔するようになり、持氏と将軍義持とはことごとく対立するようになった。ところが、正長元年(1428)将軍義持が死去したことで、両者は決定的対立を迎えるには至らなかった。
義持の嗣子義量はすでに死去しており、持氏は将軍職を望んだ。ところが、幕府は義持の弟で僧籍にある四人の兄弟のなかから籤で将軍を選び、天台座主青蓮院義円が選ばれて将軍となった。八代将軍足利義教であり、持氏の失望は大きく、ことごとく将軍義教に対立した。
このころ、茂木氏が公方持氏から所領安堵を受けているが、その背景には茂木氏ら国人領主をみずからの麾下に組織化して東国支配強化を目指す持氏の遺志があった。このような持氏の行動は幕府を刺激することになり、関東管領上杉憲実は持氏と幕府との対立を回避するために、持氏に対してしばしば諫言を行った。しかし、持氏は憲実を親幕的とみなして討とうとしたため、身の危険を感じた憲実は鎌倉を去って領国の上野に帰った。これに怒った持氏はみずから兵を率いて武蔵府中に出陣し、憲実を討伐しようとした。永享十年(1438)八月のことで、これが引き金となって永享の乱が勃発した。
持氏は幕府寄りの小山持政を茂木知政・長沼淡路守・那須五郎らをもって攻めさせようとした。これまで持氏の暴走を苦々しくみていた幕府は憲実を支援し、今川範忠、上杉持房らに出陣を命じた。戦いに敗れた持氏は捕らえられ、憲実が助命嘆願したものの許されず自害を命じられか鎌倉公方は滅亡した。持氏方に属していた茂木氏は、途中で幕府方に転じたようで、持氏方の佐竹義人の攻撃を受けている。
乱後、上杉氏の権勢が拡大したため、それを嫌う結城氏朝ら関東の領主たちが、持氏の遺児安王丸・春王丸を擁立して結城城で蜂起した。将軍足利義教はただちに討伐軍を送り、茂木知行も幕府軍に加わって結城城攻撃に活躍した。
戦国時代の序奏
永享の乱、結城合戦後、東国の政治は幕府を後楯とする管領上杉氏が取り仕切ったが、関東の諸将は鎌倉公方の再興を幕府に願った。それは許されるものではなかったが、嘉吉の乱で将軍足利義教が暗殺され、幕府は大きな混乱にみまわれた。幕府は東国を安定させるため、宝徳元年(1449)、ただ一人生き残っていた持氏の遺児永寿王丸を赦して鎌倉に下した。
永寿王丸は成氏を名乗り鎌倉に入ると、父や兄に味方して没落した結城氏らを側近に取り立てたため、それに反対する管領上杉憲忠と対立するようになった。そして、享徳三年(1454)、成氏は憲忠を謀殺してしまった。以後、関東は公方方と管領方とに分かれて、戦いが繰り返されることになった。この東国の争乱に対して幕府は、管領上杉氏を支援して乱に介入した。上杉=幕府勢力と対立する成氏は、改元にもかかわらず享徳の年号を使用しつづけたため、この乱は享徳の乱とよばれる。
成氏は分倍河原の戦いで勝利をおさめたが、その直後に駿河守護今川範忠が鎌倉に攻め込み成氏の館を焼いたため、鎌倉に帰れなくなった成氏は古河に奔り「古河公方」と称されるようになった。以後、関東は古河の公方成氏と武蔵の五十子に陣を布いた管領上杉氏との間で、三十年にわたって合戦が繰り返されたのである。
この乱において、古河公方成氏を支えたのは、小山・結城・那須・佐竹氏ら北関東の有力国人層で、上杉方は山内・扇谷・犬懸・越後の上杉一族を中心に武蔵・上野・越後の国人らが味方していた。とはいえ、それぞれ色分けは一様ではなく、公方方と上杉方に分裂した家が多く、宇都宮氏では等綱と明綱の父子が、佐竹氏では義人と嘉俊が公方に二男の実定は幕府・上杉方に、那須氏では下那須資持と上那須氏資が対立した。
茂木氏も例外ではなく、茂木知行は幕府・上杉方に、嫡子の持知は古河公方に服属して対立していた。そして、康正二年(1466)知行の拠る茂木城が那須持資や宇都宮明綱によって攻撃され、知行は四ヶ月にわたって籠城戦を続けたすえに古河公方に降服した。かくして、茂木氏は古河公方の忠実な臣となり、知行の子持知は、文明三年(1471)に那須郡山根七ケ所を安堵されている。
関東を二分して戦乱の坩堝にたたき込んだ享徳の乱であったが、文明十四年(1482)、越後守護上杉房方の尽力などによって将軍義政から公方成氏に和睦の御内書が出され、「都鄙の合体」と称される和睦がなった。
群雄の登場
これで、関東には一時的な平穏が訪れたが、それも永くは続かなかった。今度は関東管領家山内上杉顕定と扇谷上杉定正との対立が起り、長享二年(1488)、両者は相模国実蒔原で武力衝突した。「長享の乱」とよばれる内乱で、以後、両上杉氏の抗争は二十年近く断続的に続いた。この戦乱のなかで両上杉氏の勢力は衰退し、駿河の今川氏の客将であった伊勢長氏(北条早雲)が台頭し、短期間のうちに伊豆・相模の二国を掌中に収めることになる。
伊勢長氏は伊豆の掘越公方の内紛をついて伊豆を制圧、つづいて小田原城主大森氏を攻略して小田原城を本拠とした。さらに、相模の伝統的豪族である三浦氏を新井城に滅ぼし、着々と戦国大名への地歩を固めて、北条氏五代の基礎を築き上げたのである。この北条氏の台頭によって、関東は本格的な戦国時代に突入することになったのである。
時代が大きく動きつつある明応六年(1497)、古河公方成氏は波乱の生涯を閉じ、
嫡男の政氏が古河公方となった。
このころ、約百年にわたる内紛に揺れ続けてきた常陸の佐竹氏が、義舜によって内乱を克服、戦国大名へ発展する基礎を築きつつあった。そして、義舜は岩城氏と同盟、その同盟関係をもって下野の那須氏や茂木氏に大きな影響力を発揮するようになってきた。
茂木筑後守持知は佐竹義舜と同盟を結び、岩城氏の太田城攻撃に際しては義舜から部垂城方面に出陣することを伝られ、持知にもみずから出陣するように求められている。文亀四年(1504)、持知は常陸国野田郷を与えられていることから、佐竹義舜の太田城奪回作戦に参加したようだ。ついで、長倉義尚の叛乱が起ると、義舜に味方したようで永正十年(1513)に下野国内山内・小深両郷をそれぞれ与えられている。
こうして、佐竹氏が勢力を拡大していくとともに、茂木氏は佐竹氏の目下の同盟者として、戦国時代を通じて佐竹氏と行動をともにすることになるのである。
渾沌を窮める関東
永正三年(1506)、古河公方家で政氏と高氏(高基)父子の間に対立が起り、高基は宇都宮氏を頼って古河城を出て政氏に対抗しようとした。公方父子の抗争は、政氏が上杉氏と結ぶことに対して、高基は新興勢力である小田原北条氏を頼もうとしたことにあった。この古河公方父子の対立は、関東諸勢力を巻き込んで関東を揺るがす戦乱となった。
足利政氏は佐竹氏・岩城氏に参陣を呼びかけたことから、佐竹氏・岩城氏と宇都宮氏との間で大規模な合戦となった。佐竹義舜は茂木持知に出陣することを伝え、茂木氏は佐竹氏の目下の同盟者として政氏に属していたのである。結局、古河公方家の内訌は政氏が隠退し、高基が家督を継いだことで一応の解決を見せた。
このように、両上杉氏、古河公方家の内訌によって、関東は戦乱が止むことなく続き、天文七年(1538)、兄高基と袂を分かった小弓御所足利義明と里見氏の連合軍と北条氏綱とが下総国国府台で戦った。第一次国府台合戦とよばれる戦いで、合戦は氏綱の勝利に終わり、後北条氏は武蔵と下総南部に勢力を拡大した。他方、宇都宮家中では宇都宮氏と芳賀氏の抗争が激化し、那須氏では政資・高資父子の間に対立が起り武力衝突が起っていた。まさに、一族とはいえ油断のならない戦国乱世であった。
那須氏の内訌に際して佐竹義篤は政資を援けて一族の大山大膳介を派遣し、茂木氏も参戦を求められた。翌天文八年、義篤は宇都宮俊綱、小田政治らとともに政資を支援して烏山城周辺を攻撃した。一方の高資は結城・小山・皆川氏らの支援を受けてこれに対峙した。小山氏は佐竹・宇都宮氏を南北から挟撃するために、南奥の白川氏と岩城氏に出陣を働きかけた。これに対して佐竹氏は白川領に侵攻したため、戦乱は奥州にまで拡大した。
その後、白川氏と佐竹氏の和議が成立し、佐竹氏の勢力は白川領南部にまで及ぶようになった。やがて、那須氏の内紛も終熄し、佐竹氏は白川領侵攻を通して茂木氏や武茂氏らとの連携を強化し、戦国大名としての立場を確立したのである。
北関東の諸氏が抗争に明け暮れている間、小田原を本拠とする後北条氏の勢力は武蔵にまで伸びていた。そして、天文十四年(1545)、北条氏康は関東管領山内上杉憲政、北条氏扇谷上杉朝定、古河公方晴氏らの連合を武蔵河越の戦いで打ち破る勝利をえた。この戦いで北条氏は関東の太守と称されるようになり、関東の戦国政治地図は一挙に塗り替えられたの。そして、天文二十年、本拠平井城を攻撃された憲政は、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って関東から落ちていったである。
戦国時代の終焉
憲政を越後に庇護した長尾景虎(のちの上杉謙信)は、永禄三年(1560)、憲政を擁して関東に出兵した。翌年、上杉氏の名字を譲られ関東管領となった謙信は、以後、連年にわたって関東に出兵、北条方との戦いを繰り返した。関東の諸将は上杉氏あるいは後北条氏に属して時代に身を処した。佐竹氏は謙信に属し、茂木氏も佐竹氏とともに謙信方として行動した。
天正九年(1581)、笠間氏と益子氏の間に紛争が起った。十一年、益子氏は笠間方の山本城を攻撃したが敵を侮って敗退した。益子氏は結城氏麾下の水谷氏と佐竹氏麾下の太田氏の加勢をえて、ふたたび山本城を攻撃した。これに対して笠間方の満川忠脩は加藤大隈の立て籠る富谷城を攻撃したが敗退、一方で笠間氏家臣の羽石内蔵允は益子方の金敷清久の城を攻め清久を討ち取った。
この一連の戦いを通して結城氏・水谷氏らの勢力が益子領に拡大し、それはやがて茂木氏との間に軍事衝突を引き起こすこととなった。『益子系図』によれば、天正十四年、益子氏一族の七井忠兼は新福寺で茂木山城守(筑後守治良とも)と戦い討死したという。また『茂木系図』によれば、新福寺の戦いの一年後に矢口の台で合戦があったという。
新福寺の戦いで茂木氏に敗れたことを無念に思った益子重綱(家宗)は結城晴朝に後詰めをたのみ、天正十五年(1587)九月、益子・結城晴朝連合軍千五百騎が茂木領に進撃した。益子氏の出動を知った茂木治良は、佐竹義宣の支援をたのみ天矢場に向かったが敵は現れなかった。ひとまず兵を引いたところ、益子・結城連合軍が佐夫良峠に寄せてきたのであった。ただちに出陣した治良は、益子・結城軍を撃退するとともに、その余勢を駆って北方二里まで追撃を加えたという。
天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原の役が起ると、茂木治良は佐竹一族や宍戸・太田・真壁氏らとともに佐竹義宣に従って秀吉に謁見した。小田原落城後、秀吉は関東・奥羽の仕置を行い、佐竹氏は常陸国並びに下野国内に二十一万七百五十貫文の安堵を受けた。そのなかには、茂木氏や武茂氏、松野氏らの領地も含まれていた。こうして茂木氏らは独立した領主ではなく、佐竹氏の家臣として位置付けられたのであった。
茂木氏、近世へ
かくして茂木治良は、朝鮮の役には佐竹義宣に属して肥前名護屋に着陣した。文禄三年(1594)、義宣が太閤検地をもとに家臣の知行替えを行った。このとき、茂木城には義宣直臣の須田盛秀ほか茂木百騎が配置され、治良は常陸国小川城へ移封され茂木氏による茂木支配は終わりを告げた。
慶長五年(1600)に起った関ヶ原の合戦において、態度を曖昧にした佐竹氏は減封処分を受け、常陸から出羽国久保田へ所替えとなった。このとき、治良も子義成ととも佐竹氏に従って秋田へ移り、仙北郡横手において七十三歳の生涯を閉じた。子孫は佐竹氏の重臣として続いた。・2006年03月03日
【参考資料:茂木町史 ほか】
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