笹竜胆紋



Contents
●鎌倉の主-征夷大将軍
●鎌倉幕府の執権-北条氏

鎌倉武家政権を担った武家(52家)
●武将家割拠地図
●源平時代から鎌倉幕府へ
(年表)
●抗争の鎌倉府-北条氏の謀略
●鎌倉武士のユニット-惣領制
●リアリズムの鎌倉-新文化の勃興
●鎌倉の権力者-執権抄伝
●北条氏の宿敵-三浦一族
●鎌倉の鎮守-鶴岡八幡宮

系図は、尊卑分脈を基本として、系図綜覧・古代豪族系図集覧・戦国大名系譜人名事典・ 歴史読本-戦国大名系譜総覧・日本史小百科-家系、その他出版物のものを参考にして作成しました。
[家伝資料:前記に同じ]
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抗争の鎌倉幕府─北条氏の謀略

 
頼朝の死後、将軍擁立の陰謀事件など、鎌倉幕府内には内紛が絶えなかった。そして、 頼朝の未亡人政子とその父北条時政、弟の義時らは巧に情勢を利用して、有力な御家人を次々に倒していった。  
  
西暦 年号 事件
1200 正治二年 梶原景時を追放

 梶原氏は坂東八平氏の一。源頼朝が挙兵したとき、石橋山の合戦で平家方に加わり頼朝軍を破ったが、身を隠した頼朝をひそかに見逃した。
 その功で鎌倉幕府樹立後に頼朝の信任を得て、その後の平家追討にも功があった。しかし、讒言で人を陥れることが多く、二代将軍頼家のとき正治元年(1199)に御家人たちから排斥にあい追放され、京に逃れようとしたが、駿河国清見関で殺された。
 景時の滅亡はどのような意味を持ったか。「愚管抄」のなかに「正治元年のころ、一の郎等と思ひたりし梶原景時が、やがてめのとに有けるを、いたく我ばかり思ひて次々の郎等をあなずりければにやそれを訴へられて景時を討たんとしければ(中略)鎌倉本躰の梶原みな失せにけり。これをば頼家がふかくに人思ひたりけるに(下略)」との批評がみえる。つまり有力な武士を討たせてしまったことを、筆者の慈円は、頼家の思慮が足りなかったためと見ているのである。
 いずれにしても、北条氏の勢力拡大にとって景時の失脚とその死は、有利に作用したことはいうまでもない。

●梶原氏の家紋は「並び矢」が一般的で、「三つ大文字」「梶の葉」を用いたとするものもあるが、 ここでは「四つ石」紋を掲載した。
1203 建仁三年 比企の乱

 比企能員は、源頼朝の乳母比企尼の養子で、頼家が誕生すると妻がその乳母になった。
 平家追討では源範頼に従って出陣、奥州の藤原泰衡追討には北陸道大将軍として出羽を平定するなど活躍した。頼朝の側近として信任厚く右衛門尉に任ぜられ、上野・信濃両国の守護を務めた。
 娘の若狭局は二代将軍頼家に嫁し一幡を生んだ。能員は外戚として権勢を振るったが、北条時政.義時父子との権力闘争で謀殺された。
 この乱は「比企の乱」と呼ばれるが、一方的に北条氏が比企氏を滅ぼしたといった方が正しいだろう。比企氏は頼家を娘婿とし二人の間には一幡という男子も生れていた。黙っていても、次の世代の権力は目前にあると考えていたものと思われる。逆に北条氏にとっては憂慮すべき状態だったといえよう。
 この乱にいたって、東国の権力闘争は、最頂点にある将軍よりも、そのすぐ下にいる実力者たちの戦いに 変容していることが分かる。すなわち、将軍職・頼朝の血筋はロボット化しはじめ、権威と権力の微妙なからみあいは、 有力御家人たちが相争うようになる。比企の乱は、その画期ともなった乱であった。

●比企氏の後裔を称する徳川旗本比企氏の家紋「丸に割菱」を参考掲載した。
1205 元久二年 畠山重忠追討

 畠山氏は秩父権守重綱の裔で、重忠の父重能が畠山庄司になり畠山を称した。重忠は武勇にすぐれていたうえ義と情に厚く「鎌倉武士の鑑」といわれた。
 頼朝の挙兵に際して重忠は平家方に属し、三浦一族を攻め安房に追っている。その後、頼朝が再起して武蔵国に入ってくると、ただちに降を乞い、頼朝麾下に加わった。
 重忠の武勇を伝える話は数多あるが、かれの名を不朽にしたのは一の谷の合戦である。このとき重忠は範頼軍に加わっていたが、梶原景時がいるのを嫌い、義経の軍に加わった。そして、義経に従って一の谷の目のくらむような断崖の上に立った重忠は、愛馬「三日月」を背中に負って崖を降りた。これには勇猛果敢な鎌倉武士も唖然としてしまったという。
 幕府成立後、重忠は御家人として忠勤を励んだ。ところが、梶原景時の讒言によって、誅伐がきまった。親友の下河辺行平が起請文を差し出したらどうかとの勧めに、「起請文は心のやましい者が書くもの」といった。この話を聞いた頼朝は疑いを解き、以後、重忠を股肱の臣として遇した。
 頼朝が死ぬと、北条時政・義時父子が幕府の実権を握り、反勢力を次々と倒していった。そして、 北条義時の陰謀は重忠の身に迫り、元久二年、鎌倉からの呼びだしがあり先発した息子の重保が由比ケ浜で殺された。 遅れて出発した重忠は、途中で重保の死と討っ手がくることを知ったが、重忠は逃げなかった。この時従う者わずかに 三十四騎。重忠は「義時め、謀りおったか」と破顔し、そのまま進んで二股川で討っ手と遭遇、群がる討っ手につっこみ 激闘のすえ、討死した。
1213 建保元年 和田義盛の乱

 和田氏は三浦氏の一族。祖父義明は頼朝の挙兵を応援し、居城を畠山重忠ら平家の大軍に包囲されて自刃した。義明の庶長子義宗は杉本太郎を称し、その子が和田義盛である。義盛は本家の三浦氏をさしおいて侍所別当となった。平家追討には、源範頼軍の軍監として功をあげ、頑固者だが表裏のない性格が頼朝に愛された。
 しかし、頼朝の死後、北条義時との間に確執を生じ、建保元年二月、一族のなかで三人が幕府に検挙されるという事件が勃発。この事件で面目をつぶされた義盛は決起し、突如幕府を襲った。戦局は義盛に有利に展開したが、本家の三浦氏が幕府方に寝返り、急を聞いた御家人らがかけつけるにしたがい、義盛軍は頽勢となり、結局敗れて自刃した。
 この乱は、和田一族が強力になることを憂いて、北条義時が義盛を挑発し、早期弾圧を考えたからに他ならない。以後、執権北条氏は権勢をますます強固なものとしていった。
1247 宝治元年 宝治合戦

 三浦氏は坂東八平氏の一で、相模国三浦半島の衣笠城を本拠とした。義明は頼朝の挙兵に応じて息子の義澄を派遣したが、その到着前に頼朝は石橋山に敗れ、衣笠城は平家方の大軍に包囲された。そこで義明は義澄ら息子たちを脱出させて頼朝のもとに赴かせ、自らは城を枕に討死した。その功で、三浦一族は鎌倉幕府の重臣に列した。
 義明以後、義澄-義村-泰村とつづき、鎌倉幕府の重臣の地位を占め北条氏と勢力を二分したが、泰村のときに北条氏との間が疎遠となった。
 宝治元年、北条氏の縁戚の安達景盛が三浦氏を挑発したのに乗せられて挙兵したが、北条氏の大軍が安達勢の応援にかけつけ、三浦一族は大蔵の法華堂にこもって自刃し滅亡した。ここに、鎌倉幕府内での北条氏の独裁が実現したのであった。
 

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