系図は、尊卑分脈を基本として、系図綜覧・古代豪族系図集覧・戦国大名系譜人名事典・
歴史読本-戦国大名系譜総覧・日本史小百科-家系、その他出版物のものを参考にして作成しました。
[家伝資料:前記に同じ]
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鎌倉の主─征夷大将軍
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鎌倉幕府は、平治の乱で敗れた源義朝の子で伊豆に流されていた頼朝が治承四年、源氏の棟梁として旗揚げし、平氏を打倒して、征夷大将軍に任じられて鎌倉に幕府を創設したことに始まる。
頼朝は周知のように清和源氏の嫡流である。清和源氏と坂東との関係は、清和天皇の孫にあたる経基王が、天慶二年(939)、武蔵国に権守興世王とともに介として赴任したことに始まる。経基らは在庁官人と事を起こし、京に逃げ上っている。その後、天慶三年(940)平将門の乱の鎮定に向かったが、途中、将門の死を聞いて帰京し、のち藤原純友の乱の鎮定に赴いて瀬戸内海地方に勢力を扶植した。
清和源氏の台頭
経基の子満仲は、安和の変に藤原氏に協力して勢力をのばし、摂津国多田庄に土着して、清和源氏発展の基礎をつくった。その嫡子頼光も藤原氏と結んで、源氏の勢力進展に尽くし、摂津源氏の祖となった。
一方、頼光の弟頼信は、平忠常の乱を平定して関東進出の端緒をひらき、自身は、河内国石川庄を根拠とする石川源氏の祖となった。この頼信が、永承元年(1046)石清水八幡宮に納めた告文の写しが残っている。告文は、八幡大権現から頼信にいたる略系図を、逆に遡って記したものである。そこには応神天皇は二十二世の先祖であるといい、曾祖父陽成天皇は八幡権現の十八代の孫で、頼信自身は陽成天皇の四世の孫であると明言しているのである。これによると、陽成天皇-元平親王-経基王-源満仲-頼信という系譜になり、清和源氏といいながら実は陽成源氏ということになる。そして、のちの頼朝の告文に視られるような清和天皇の皇子貞純親王の子が経基、その子が満仲という父子関係はなくなる。告文は他の史料とも一致しているので、信憑性も高いが写しであることから、一般的には清和源氏説が信じられている。
さて、頼信の子頼義は、その子義家とともに前九年の役に出陣し、鎌倉由比郷に石清水八幡宮を勧請した。これがのちに鶴岡八幡宮となる。
義家は、後三年の役を鎮圧したが、この乱は私闘とみなされて、朝廷から功賞が行われなかった。そこで義家は私財を投じて部下に恩賞を与えた。このことが東国に源氏が勢威を張る根源となったといわれる。こうして義家は在地領主と密接につながったため、朝廷では諸国の百姓に義家への田畑の寄進を禁じたほどであったという。
武家政権樹立
こののち、義家の孫為義は保元の乱に敗れ、その子義朝は平治の乱に敗れて、源氏の勢力は、桓武平氏におされぎみとなった。しかし、義朝の嫡子頼朝が源氏の棟梁として旗揚げし、平氏を倒して鎌倉に武家政権を樹立したのであった。
鎌倉政権はまた、坂東の武士たちの訴訟調停機関の側面も大きかった。源頼朝が坂東の武士たちに奉じられたのは、かれの調停能力の高さに武士たちが服した結果でもあった。「一所懸命」という言葉が示すように、武士たちは自分が開拓した土地を守ることに命を懸けた。そして、土地争いが起こったとき、公平な調停を期待できる機関を求めていたのである。これが、鎌倉幕府存在の意義であり、その成立は時代の趨勢に合致していたのである。
ところが、源頼朝のあとを継いだ頼家は幕府存在の機微が理解できなかったらしく、血統こそ尊いと思ったようだ。鎌倉政権を担う武士たちは家来として扱い、結局、反発を蒙って失脚、幽閉先の修善寺において暗殺された。その後は弟の実朝が継いだが、かれも、頼家の子公暁によって殺害された。そして、かれら以外の頼朝の子孫もまた、ことごとく非業のうちに世を終わり、源氏嫡流は断絶した。
頼朝の子孫が断絶すると、源氏との血縁をもって京から九条頼経が将軍として迎えられたが、のちにその子頼嗣とともに京に帰された。これは、頼経が反北条御家人らと北条氏打倒の陰謀を画したためといわれている。
その後は、皇室より宗尊親王が迎えられ、その子惟康親王、ついで惟康親王の娘婿久明親王、その子守邦新王と続いた。しかし、かれらが将軍職についた時代は、鎌倉幕府執権である北条氏の権力は絶対的なものであり、将軍とは名ばかりのまったくの「お飾り将軍」であった。
●鎌倉幕府将軍 系図
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