西暦 |
宗派/開祖 |
教義・その他 ●掲載紋は宗祖に関係する紋。 |
1175 |
浄土宗
法然(源空) |
ただ、専心阿弥陀仏を信じ念仏をとなえれば、救いが得られる「専修念仏」を説いた。
浄土宗の開祖法然は、美作立石氏の一族で国衙の役人だった漆間時国のこに生れた。法然が九歳の時に、管轄地域の荘園の所有者である明石定明によって殺された。時国が臨終の際に、決して復讐をしてはならないという言葉を残したことが、仏道に入るきっかけになったという。13歳の時に比叡山に登り、25年間の修学の後、浄土宗を開いた。
かれの教えは、武士・公家・農民らの帰依を受けたが、旧仏教界の弾圧により、一時は讃岐に流された。
鎌倉武士の熊谷直実、浄土真宗の開祖親鸞らも法然の弟子だった。
●長承二年(1133)4月7日~建暦二年(1212)1月25日
●選択本願念仏衆
●京都知恩院
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1224 |
浄土真宗
(一向宗)
親鸞(範宴) |
心から阿弥陀仏の救いを信じれば、その心だけで極楽往生できると説いた。そして、戒律否定・肉食妻帯し、悪人正機説を唱えた。
親鸞は、下級貴族日野有範の子として承応三年に生まれ九歳で出家し、比叡山で修行する。二十九歳で京都六角堂に参籠、啓示を受け、法然のもとに通う。法然の専修念仏が旧仏教の反感をかい、親鸞は越後に流された。当地で浄土教の研学・恵信尼との結婚により信仰を深め、赦されてからは、関東で布教に従事し、農民・武士の間に信仰を広めた。
親鸞八世の孫が蓮如で、衰微していた真宗教団の再興につとめ、戦国時代にいたって一向一揆として各地で
信者が爆発的に増え、大名の脅威となった。
●承安三年(1173)4月1日~弘長二年(1262)11月28日
●教行信証●歎異抄(唯円)
●京都本願寺
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1274 |
時 宗
(遊行宗)
一遍(智真) |
諸国を遊行し、街頭で布教、種々の民間信仰を取り入れている。
一遍は、伊予の豪族河野氏の一族河野通広の子に生れた。建治元年、法然の門弟証空の弟子聖達に念仏の奥義を受け、文永十一年、熊野に参籠して、「南無阿弥陀仏」という札を会う人ごとに配り、民衆に念仏を勧めた。
諸国を巡り、一所不在の流浪生活をし、遊行上人・捨聖と称された。かれを慕う人々が常に側に従い、
行動をともにしたという。また、往生喜悦を踊りで表現したので、踊り念仏とも呼ばれた。「一遍上人絵伝」が
知られる。
●延応元年(1239)~正応二年(1289)
●藤沢清浄光寺(遊行寺)
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1253 |
日蓮宗
(法華宗)
日蓮 |
法華教信仰の伝統のうえに独自の教理を加え、他宗の排撃、幕府政治の批判を行った。題目唱和、法華教中心を説いた。
日蓮は安房国長狭郡に漁師の子として生れた。一説に、井伊氏の一族ともいわれる。十六歳で出家し、修行の末、法華教こそ真の仏教であるとし、建長五年、郷里の清澄山で日蓮宗を開いた。
文応元年、天変地異を憂え、「立正安国論」を著し、北条時頼に法華経信仰・邪宗排斥を勧めたが容れられず、伊豆に流された。許されても後も、なお自説を曲げず元寇を聞くや、さらにその主張を訴えたため、今度は佐渡に流されることになった。
このように日蓮は数々の法難を受けたが屈することなく権力に立ち向かい、現実救済を唱えてやまなかった。
晩年は甲斐国身延山に陰棲し、弘安五年常陸国へ行く途中、武蔵国池上で没した。
●貞応元年(1222)2月16日~弘安五年(1282)10月13日
●立正安国論
●山梨久遠寺
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1191 |
臨済宗
栄西(明菴) |
不立文字、坐禅・公案をとなえ、鎌倉幕府の保護を受けた。
栄西は、永治元年(1141)吉備津神社権禰宜貞遠の子に生まれ、比叡山で天台密教を学び、文治三年、入宋し、臨済禅を学び、その印可を受けて帰国。禅宗を広めた。その教勢を妬む天台宗徒の攻撃を受けて、禅宗停止の宣下を受けたことから、鎌倉に下り、幕府に接近した。そして、その帰依と後援によって寿福寺を建立。建仁二年、ふたたび京都に進出し、建仁寺を建て、天台・真言・禅の三宗兼学の道場とし、宗教界の刷新を図ったことはよく知られている。
また、栄西は、宋より茶を移入し「茶祖」としても仰がれている。かれは、将軍実朝が二日酔いのため床に
臥していた時、自ら栽培した茶を勧め、その効能と養生法を記した『喫茶養生記』を献じたという。
●永治元年(1141)~建保三年(1215)
●興禅護国論●喫茶養生記
●京都建仁寺
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1227 |
曹洞宗
道元 |
只管打坐に励み、世俗的権力を斥けた。
道元は、正治二年(1200)土御門上皇の外祖父久我通親の子に生れた。十三歳で出家し、比叡山で天台宗を学ぶが疑問を生じ、貞応二年、栄西の高弟明全とともに入宋。如浄に参じることにより曹洞禅を学び開悟する。帰国後、京都で布教活動に入った。
寛喜二年、天台宗徒に追われ宇治深草に隠棲し、興聖寺を開き専門道場とした。仁治四年、越前国地頭波多野義重らに請われ越前志比庄に赴き、大仏寺(のちの永平寺)を開き、門下の育成に尽力した。この間、その宗教哲学を示す「正法眼蔵(95巻)」を書き続けた。その根本は「只管打坐(ひたすら坐禅すること)」にあり、「修証一如(坐禅それ自体が悟りそのもの)」だとする。
弟子懐奘の「正法眼蔵随聞記」は、道元の法語を筆録したものである。
道元の禅境を詩ったとされる「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり」の歌は、
よく知られている。
●正治二年(1200)1月2日~建長五年(1253)8月28日
●正法眼蔵
●福井永平寺
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