葦名氏
三つ引両
(桓武平氏三浦氏流) |
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葦名氏は桓武平氏良文流三浦氏の分かれで、相模国の豪族三浦義明の子佐原義連がその祖とされる。三浦氏は世にいう坂東八平氏の一である。
治承四年(1180)の石橋山の合戦には頼朝を助け、その後の平家追討の戦いにも軍功をあげている。三浦一族は奥州藤原攻めにも参陣し、そのときの戦功によって佐原義連は会津・河沼・耶麻の諸郡を与えられた。これが、佐原氏が会津を領有したはじめであった。
建久十年(1199)、頼朝が死去したのち、三浦義澄は北条義時・大江広元らとともに頼家の吉書始めに列席し、以後、幕府の政治に参画した。建保元年(1213)「和田の乱」で一族の和田義盛が滅亡、ついで、宝治元年(1247)「宝治合戦」において宗家三浦氏も滅亡した。この一連の争乱のなかで、三浦佐原氏は北条氏に加担して没落をまぬがれ、三浦宗家が滅亡したのち、その名跡は佐原盛連の子盛時によって再興されたのである。
盛連には六人の男子があり、長男の経連は猪苗代に住み猪苗代氏の祖となり、次男広盛は北田、三男盛義は藤倉、六男時連は新宮に住んで、それぞれ北田氏・藤倉氏・加納氏・新宮氏の祖になった。佐原氏の惣領となったのは四男の光盛で、彼は相模の葦名にちなんで、はじめて葦名氏を名乗るようになった。その点で、葦名姓のはじまりは光盛の代からだが、一般的には義連を葦名氏の初代として数えている。宝治合戦で滅亡した三浦氏の名跡は、五男盛時はが継ぎ戦国時代に至った。
南北朝内乱期の動向
泰盛・盛宗を経て盛員のときがちょうど鎌倉末期に当たっており、盛員は幕府滅亡後の建武二年(1335)に起きた「中先代の乱」で子の高盛とともに足利尊氏に参加し、鎌倉の片瀬川で戦って討死した。そのため、高盛の弟の直盛が葦名氏の家督を継いだ。
葦名氏の系図では、この直盛がはじめて会津に下向し、その年は康暦元年(1379)としている。そして、直盛は会津の
幕内に下り、さらに永徳二年(1382)に幕内から小館に移り、さらに至徳元年(1384)に小高木に館をつくり、
これを東黒川館と号したという。のちの黒川城(鶴が城)の地である。しかし、直盛の会津下向に関しては不明な点も
多く、あるいは代官を派遣していたものとも考えられている。会津下向の実態はともかくとして、葦名氏の会津支配の
歴史において、直盛の時代がひとつの画期となったことは確かであろう。
奥州の南北朝の内乱は、当初陸奥守として下向してきた北畠顕家を中心として、それを伊達・南部・白河結城の諸氏が支えるかたちで南朝方がある程度の固定した勢力を築いていた。延元三年(1338)顕家が和泉国石津の戦いで戦死すると、弟の顕信が東北地方に下り、南朝方勢力の維持につとめた。この間、葦名氏、相馬氏の名はほとんど見えない。これは、幕府崩壊のとき、北条方として行動したためであろうと考えられている。
奥州の南朝勢力に対抗するため、足利尊氏は一門の石塔義房をはじめ、畠山・吉良氏らを奥州管領としてあいついで派遣した。その後、尊氏・直義兄弟の対立から「観応の擾乱」が勃発し、奥州の武家方は二派に分かれて抗争する事態となった。これを好機とした北畠顕信の南朝勢力が息を吹き返し、奥州地方は三つどもえの戦いが繰り広げられた。やがて、顕信は吉良貞家を大将とする北朝軍と戦い出羽に逃れたが、この戦いに会津の佐原宗連とその郎党が吉良軍の一員として参加している。
また、観応二年(1351)に真壁政幹の代官薄国幹は「守護人に同心せしめ、所々の合戦」に参加しており、守護人が会津地方の軍事指揮者となっていたことがわかる。文和二年(1353)の佐原宗連の軍忠状にも「合戦致す之条、守護代葦名次郎左衛門尉朝貞見知」とあり、南北朝内乱期に、守護という名の軍事指揮者が会津に存在していたことを示している。このように、残された文書などから会津の三浦(葦名)一族である宗連・朝貞らの活躍が知られるが、それぞれ系譜上における位置付けは不明である。
葦名氏の権勢確立
直盛のあとは系図によれば詮盛がつぎ、詮盛のあとは盛政が継いだとある。室町時代の応永六年(1399)、鎌倉公方が奥州の押えとして篠川・稲村の両公方を奥州に下向させたが、葦名氏(詮盛であろう)は伊達・大崎氏らとともにこれに反対した。
ところで、南北朝時代に会津に守護とよばれる存在がいたことは既述の通りである。そして、応永三十一年(1424)、会津地方の検断権の行使者として「当守護あしなの修理大夫盛政」が現れる。葦名氏が南北朝内乱期に会津地方の軍事指揮者として、守護の地位を確立していたことはまず疑いない。ただし、葦名一族の誰であったのか特定はできない。葦名氏の会津守護職ははじめ、奥州管領によって任命されたものであろうが、その後、世襲化していったと思われる。
葦名氏が会津守護職を行使する範囲は会津四郡内であったと思われ、その行使する権限は軍事指揮権・検断権などがあきらかにされており、葦名氏はその地位を根拠として支配拡大に利用した。守護の地位は葦名氏にとって会津地方の支配、大名化への出発点となったともいえよう。
南北朝の内乱を経て室町時代に至るころは、鎌倉時代以来の分割相続制が単独相続制に変化し、惣領制の崩壊が始まった。これにより、庶子家が台頭し国人領主化して独自な領国支配を目指すようになるという、大きな時代変革が進行していった。そのことは、盛政から盛詮に至る時代の葦名氏が外敵と戦って領土拡大をするとともに、葦名一族との勢力争いに奔走していたことにもうかがわれる。
庶子家の叛乱
康暦元年(1379)、葦名氏の庶子家である新宮氏と北田氏との間で争いがあり、北田氏が新宮氏を討った。ところが、応永九年(1402)新宮盛俊は北田政泰と同心して葦名氏の居城黒川を攻めた。また、高田伊佐須美社の宮司が叛乱を起こし、翌年正月晦日に戦い敗れて自害するという事件が起った。この「新宮氏の乱」は、新宮城が落城することで終了したが、この乱が葦名氏と庶子家との抗争のはじめとなった。新宮氏と葦名氏との抗争は鎌倉時代より続いていたといわれ、葦名氏にとっても有力一族新宮氏への対応は代々の課題でもあったのである。
応永十五年、新宮氏と北田氏はまたもや葦名氏に叛乱を起こし、翌年、葦名氏は北田氏を攻めてこれを滅ぼした。同二十年、新宮氏と葦名氏との間で合戦が始まり、新宮氏は居城新宮城に籠り葦名軍を迎え撃った。このときの戦いは葦名氏が優勢であったが、決戦には至らなかった。
両氏が決戦したのは応永二十六年六月のことで、葦名盛政は大軍を率いて新宮城に攻め寄せ、翌七月新宮城は落城し新宮一族は奥川城に籠った。葦名氏は攻撃の手をゆるめず、奥川城を攻撃したため新宮氏は越後の五十公野に逃れた。その後も、新宮氏は葦名氏に抵抗を続けたようだが、結局、永享五年(1433)、新宮氏は葦名氏の前に滅亡した。新宮氏の滅亡によって会津の北方は葦名氏の支配下に入り、会津一円は葦名氏の領有するところとなった。
その間の応永二十七年(1420)、葦名氏は猪苗代氏と戦うなど、連年にわたって戦いを繰り返し、その過程で加納庄佐原氏・北田氏・新宮氏らが滅亡していった。これらの諸氏は葦名氏と同族関係にある人々で、これら一連の戦いは惣領制的体制の崩壊にともなうものであったと考えられる。葦名氏と戦った新宮・北田氏らは、かつて葦名氏の惣領制のなかに包含されていたものと思われ、かれらはいずれも会津地方の重要拠点を占める有力土豪に成長していった。これら諸氏が惣領制の解体とともに自立化し、葦名氏が会津を支配しようとするうえで、かれらを服属させることは不可避のことであった。
そういう意味でも、十五世紀の戦乱を克服した盛政の治世は葦名氏の会津地方支配の歴史のうえで、画期的な意味をもった時代であった。そして、葦名氏の歴代のなかで、系図上の人物とたしかな史料にあらわれる人名が一致をみせるようになるのもこの盛政のときからである。惣領制が崩壊しようとする困難な時代に、盛政はよく葦名氏を発展させた人物であったといえよう。
家中の動揺
盛政は、確実な史料では応永三十三年まで活躍したことが知られ、永享六年(1434)、子の盛久に会津守護職以下の所領を譲っている。しかし、盛政のあとを継いだ盛久は短命で弟の盛信が継いだが、盛信もまた短命で宝徳三年(1451)に世を去り、その子盛詮があとを継いだ。ところが、盛詮が家督をついだ宝徳三年七月、松本典厩と多々良伊賀が戦いを起こし、敗れた伊賀が盛詮をだきとるという事件が起こった。盛詮は典厩や葦名氏の直臣らの奮戦によって助け出されたが、激戦であったようだ。ついで八月、猪苗代氏が反乱を起こし盛詮と対立した。
このように盛詮は家督相続直後、一族・国人らの抗争・反乱に直面することになる。享徳元年(1452)には典厩と盛詮が対立し、典厩を日光山に追い落とした。しかし、典厩は伊南の河原田氏の助けを得て勢力を回復し、これに猪苗代氏も加担した。盛詮は白河結城氏の支援をあおいで、典厩を自害させ猪苗代氏を追った。この一連の戦いは「今度之弓矢、当方之難儀此事候之処」と結城氏に送った書状に述べている通り、大変なものであったようだ。
この一連の戦乱の背景は史料からはうかがうことができないが、盛久・盛信と続いた当主の死去と交替が家中を動揺させ、それに継嗣争いが絡んだものと想像される。継嗣争いが起ったとすれば、この時期の葦名氏は惣領制を克服し単独相続制の段階に到達していたことを物語っている。
葦名氏が会津地方で、内乱に明け暮れているころ、関東地方は「永享の乱」による鎌倉府の潰滅があり、奥州には幕府の力がほとんど及ばなくなった。永享の乱に際して葦名氏は、幕府の命を受けて持氏追討の立場を取ったことが知られる。その後、鎌倉府は成氏が取り立てられて再興されたが、今度は、管領上杉氏と公方成氏が対立するようになり、さらに幕府の介入もあって、関東は戦乱が止むことなく続いた。そして、盛詮のもとへも他の陸奥の諸将と同様に、将軍足利義政から成氏追討のため出兵せよとの命令がしきりに下された。葦名盛詮はこのような時代にあって、同族との抗争を克服しながら、着実にその勢力を拡大していったのである。
盛詮は文正元年(1466)に死去し、盛高が家督を継承した。盛高が葦名氏の当主にあった十五世紀の後半になると、時代は戦国の様相を濃くし、会津領内も戦乱が止むことなく続き、盛高はその対応に忙殺された。
相次ぐ内乱
延徳・明応〜永正期(十五世紀〜十六世紀初め)にかけて、盛高は激しい内乱に直面することになる。まず、延徳四年(1492)の三月から四月にかけて、猪苗代伊賀・松本藤右衛門・富田淡路らの反乱が起こり、盛高は一時難を黒川の伊藤氏の館に避けた。ついで明応三年(1494)には、隣国の伊達家で成宗・尚宗父子の争いが起こり、伊達尚宗が盛高を頼って猪苗代へ落ちてきた。盛高は自ら三千騎の兵を率いて長井へ行き、尚宗を帰還させている。しかしその後、盛高は松本氏の反乱に苦しめられることになる。
明応四年(1495)十一月、松本備前・伊藤民部が盛高に背いて宇都宮へ逃れる途中、一行三十三人は糸沢で南山殿長沼政義によって討ち取られた。ついで、同七年五月、盛高は松本備前を松本右馬允の居館で討ち取り、ついで松本丹後守の子息大学頭・小四郎兄弟を討ち、さらに松本右馬允らも誅した。この反乱も「手負打数不知」という激しいものであった。
明応九年になると、盛高は松本対馬の拠る中野館を陥した。対馬は弟の松本勘解由の拠る綱取館に逃れたが、盛高の兵によって攻められ、勘解由は降伏し対馬は打ち取られた。ところが、永正二年(1505)八月、葦名盛高・盛滋父子の争いが起こり、盛高時代における最大の内乱となった。この争いの原因は、葦名家臣団のなかで重要な位置を占めていた松本氏と、やはり葦名氏の重臣である佐瀬・富田氏との対立であった。
盛高は佐瀬・富田の両氏を支持して白川口へ兵を進め、一方の盛滋は松本源三・勘解由を支持して勘解由の居城である綱取城に立て籠った。葦名父子の抗争をみて、白川の結城義親が会津へ来て和議を斡旋したが成功しなかった。同年十月、両者は塩川で激突し合戦が繰り広げられた。結果、盛滋が敗れ伊達家を頼って長井へ落ち伸びた。その後、父子の和睦がなり、盛滋は会津へ帰った。葦名氏はこのような内乱を克服し、主従関係を強化することで、戦国大名として成長していったのである。
盛高は永正十四年(1517)に亡くなり、盛滋が葦名氏の家督を継いだ。盛滋は永正十七年六月、伊達稙宗を援けて最上に出兵するなどの活躍をしたが、大永元年(1521)二月に亡くなり、弟の盛舜が葦名家を継いだ。
この盛舜の葦名氏の家督継承は、必ずしも円満に行われたものではなかったようだ。記録によれば、盛舜が葦名家督となった年、松本大学が誅され、ついで、その弟藤左衛門が生害させられた。さらに、猪苗代氏が黒川に盛舜を攻め撃退されたが、これには松本・塩田らが同心していたといわれ、かれらは盛舜によって攻められ討死した。このような葦名氏の内紛をみたのであろう、南山田島の長沼氏が檜玉に攻め入り、放火するという事件も起った。
『会津旧蹟雑考』などでは、盛滋に子が無かったため弟の盛舜があとを継いだことになっている。しかし、のちに葦名氏の重臣として活躍する針生氏は盛滋の子盛幸より出たといわれ、盛滋の享年は四十歳であったことから男子があったとしてもおかしくない。これらのことから、盛舜は葦名氏を継ぐ唯一の人間ではなかった。そして、盛舜の家督継承に反対する人々が、葦名氏家中にかなりいて、それらの人々が盛滋死後の相次ぐ混乱をひき起こしたものと考えられる。
戦国大名への助走
盛舜が家督を継承したはじめこそ混乱を見せた葦名氏であったが、やがて家中の内訌はほとんどみられなくなった。代わって、上杉・伊達氏などの隣接する大名や、南奥州の諸勢力との接触が表面化してくる。
享禄元年(1528)に伊達稙宗が葛西氏を攻めたとき、盛舜は稙宗に加勢して遠く葛西まで兵を送り、ついで、天文元年(1532)には、南山に長沼氏と戦っている。天文三年(1534)には、伊達・石川氏らと連合して、岩城・白川氏らと戦った。翌四年、越後の長尾為景と上条定兼との戦いに際し、定兼党の揚北衆本庄房長らと連絡をとり、蒲原郡の菅名荘に出兵しようとした。
また、盛舜の時代は京都将軍家との接触も目立つようになった。天文七年、盛舜は遠江守任官の礼物として太刀一腰、黄金十両を将軍義晴に贈り、天文九年には大鷹一居を贈り、その答礼として太刀一腰を遣わされている。さらに、盛舜は修理大夫に任官したようで、修理大夫盛舜の名で京都に書状を送っている。盛舜は会津盆地における内訌を克服して、周囲の大名との接触を拡大しつつ、将軍家とも交渉をもつようになった。これらのことは戦国大名を目指す葦名氏にとって、対外的にも南奥の一勢力としての地位を確立すべきことが背景にあった。
かくして、葦名盛舜は事実上の会津守護としての行動をみせるようになった。葦名氏は、自らを会津守護と称することによって、守護本来のもつ守護公権、すなわち軍事警察権や反銭の徴収権などを行使しながら、その権力を確立をしていった。盛舜は天文二十二年に没したが、早い段階から隠居していたようで、盛舜の治世の後半は盛氏が事実上の当主として「伊達氏天文の乱」などに活躍していた。
盛氏が名実ともに葦名氏の家督を継ぐと、内部の統制もとれるようになり、戦国大名への道を歩み出すことになる。盛氏は『関八州古戦禄』に「列祖に劣らず弓矢にすぐれていた」とあるように、武略の人であり、葦名氏の累代を代表する戦国の英雄であった。
葦名氏の全盛
葦名氏の惣領となった盛氏は、天文十年から十一年にかけて猪苗代氏と戦い、ついで、十一年から十二年にかけては、越後の長尾為景と結んで反乱を起こした山内舜通と戦った。さらに、永禄四年(1559)には長沼氏と戦った。このように、盛氏は会津盆地における反対勢力を制圧し、かれらを支配下に掌握していった。
天文十一年から十七年までつづいた「伊達氏天文の乱」に際しては、晴宗に味方して外征に手を染めるようになった。天文十六年、信夫郡で戦っていた晴宗を助けるため岩城重隆とともに安積郡に兵を出し、ついで出羽国長井に出兵している。天文の乱は稙宗が隠居して晴宗に家督を譲ったことで終熄し、家督を継いだ晴宗は最上領に出兵した。このときも盛氏は晴宗を助けて兵を送っている。
このように、盛氏は合戦に明け、合戦に暮れ、二本松の畠山義継、須川の二階堂盛義、三春の田村清顕などの諸将を片っ端から斬り従えて配下とした。一方、強敵の伊達・結城家とは婚姻政策をとり、相馬盛胤とは烏帽子親となって親子の交わりを結んだ。さらに、遠方の北条氏康・武田信玄・上杉謙信らとは同盟を結んだ。そして、常陸の佐竹義重とは何度も覇を競って戦ったが、決着がつかず、のちに謙信のすすめで和睦を結んでいる。盛氏のとき、葦名氏の版図は最大となり全盛を誇るに至った。
永禄六年(1563)室町幕府は「大名在国衆」として、五十三人の名を記録している。その中に、北条氏康・今川氏真・武田信玄・上杉謙信・織田信長らにまじって葦名修理大夫盛氏と伊達左京大夫晴宗の名がある。幕府は、この時期、奥州群雄のなかで盛氏と晴宗を大名と認めていたのである。
また永禄十年ころ、会津は永楽銭が用いられるようになり、貨幣経済が浸透してきたことがわかる。その一方で、会津は飢饉に襲われ盛氏は徳政令を出している。その後もしばしば徳政令を出しているが、天災は表面上の理由で、実のところは遠征につぐ遠征で借金が重なった家臣団の救済処置だったという。盛氏には寛容な面があって、家来の少しの失敗には目をつむった。当然、家来からは慕われたが、反面、領民に対しては容赦なく課税したため、庶民からは恨まれたようだ。そういう意味では治世の名君とはいいがたい武将であった。
その後、盛氏は隠居し、家督を嫡子の盛興に譲った。ところが、天正三年(1575)盛興が盛氏に先だって若死してしまった。盛興には、正室伊達輝宗の妹に女の子が、側室に男の子がいたが、ともにいまだ嬰児であった。そこで、盛氏は二階堂氏から人質にきていた盛隆を未亡人伊達御前と結婚させ、当主にすえた。
家督を継いでから四十余年、葦名家の全盛時代を築き、東北の雄となった盛氏であったが、天正八年、葦名家の行く末を案じながら六十歳で没した。そして、盛氏の死によってこれまでの過重軍役の矛盾が爆発することになるのである。
・右:葦名盛氏の像。
相次ぐ当主の死
盛氏の没後、葦名氏の家政は盛隆がみることとなった。天正十二年(1584)、四天宿老の一人であった松本行輔と森代の地頭栗村下総が叛乱を起こし、黒川城を占拠するという事件が勃発した。盛隆はただちに佐瀬河内・平田の両人に命じて松本・栗村を攻め、両人を討ち取り黒川城に復帰した。この叛乱は、盛隆の大名領主としての力量不足と、若年にして人質から葦名氏の当主となった盛隆への不信と反感が葦名家中の諸士にあったことが要因でもあった。加えて、盛氏以来の葦名氏の権力構造がまだ未熟であり、相次ぐ外征によってもたらされた荷重軍役に対する不満が蔓延していた。
松本・栗村の叛乱から四ケ月を経過しない天正十二年十月、盛隆は近習大庭三左衛門のために黒川城内で殺害された。盛隆のあとは、その前月に生まれたばかりの亀若丸が嗣ぐことになった。
天正十三年、伊達政宗は葦名・岩城両氏と田村氏の講和を仲介した。その一方で、政宗は原田宗時に命じて、檜原に出兵したが、葦名方の中目・佐瀬らの反撃で軍を撤収した。同じころ、猪苗代盛国の内応を誘ったが、こちらも内応には至らなかった。このような葦名氏と伊達氏との緊張は、伊達・田村連合を包囲する葦名・白河・石川・二階堂・佐竹・岩城・相馬・最上の連合関係を形成していった。
そして、反伊達連合軍と伊達軍との最初の衝突が安達郡本宮の観音橋および人取橋で展開された。連合軍は政宗の攻撃を受けている二本松畠山氏を救援するため、北進してきたのであった。連合軍は三万余の軍勢を動員し、対する伊達政宗は八千余という寡勢であった。結果は、連合軍の中核である佐竹氏が国元の不穏から兵を退いたことで、政宗の不戦勝というかたちに終わった。
天正十四年、亀若丸が三歳で死去し、葦名氏嫡流の男系は絶えた。相次ぐ当主の交代は葦名家中の動揺を招き、亀王丸のあとを佐竹義重の二男義広が継ぐか、伊達政宗の弟竺丸が継ぐかで家臣団の意見は対立した。すなわち、伊達派と佐竹派に分裂したのである。結局、義広が迎えられて当主となったが、このときまだ十三歳の少年であった。
義広の入嗣によって葦名氏と佐竹氏の同盟関係は確固たるものとなり、佐竹義重は義広とともに政宗の攻略を企図したのである。他方、佐竹と葦名の両氏が結ばれると葦名家中の伊達派は厳しい状況にたたされ、主体性を維持しようとして自家を伊達に売り渡そうとする者も出た。義広はこのような家臣団の内紛のなかにおかれ、政宗と対抗するため豊臣秀吉に好を通じたが、自ら秀吉の下には参じられず家臣の金上盛備が代理をつとめた。
伊達氏との対立
伊達政宗は葦名氏を義広が継いだことで、葦名氏の諸将に内通をそそのかした。義広は城主となるや、まず小浜城の大内定綱の謀叛に直面した。
天正十六年四月、葦名義広は安積郡に出兵した。これは、伊達政宗に服属した大内定綱を討つためであった。義広は二階堂氏の軍とともに安達郡に進み、伊達成実の軍と本宮観音堂で激戦を展開した。それから間もなく、猪苗代盛国が家督を譲った盛胤が黒川城に伺候した留守を狙って、猪苗代城を乗っ取り伊達政宗に通じる素振りをみせた。
五月、葦名義広はみずから安積郡に出馬し、郡山地方で伊達氏と対峙した。そして、窪田・郡山地区をめぐって佐竹・葦名・二階堂の連合軍と伊達・田村の連合軍との戦いは激しさを増し、七月四日にはもっとも激しい戦いが展開された。このとき、佐竹・葦名の連合軍は四千を数え、対する伊達勢は六百人という寡勢であった。しかし、葦名氏は猪苗代氏の内訌をはじめ家中に不協和音があり、佐竹氏も本領常陸が不穏な情勢にあったため伊達勢を攻めきれなかった。やがて、岩城常隆らが調停に出て、両軍はいったん休戦に入った。この休戦は、政宗に大きな利をもたらした。
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その後、政宗はなおも葦名領を蚕食しつづけ、義広はこれを押さえようとつとめた。一方、家中では義広に随行してきた常陸衆と、四天の宿老との対立が深刻化して内乱勃発に及ぼうとした。金上盛備の奔走によって武力衝突は避けられたが、葦名氏が大きな混乱のなかにおかれていることは変わらなかった。葦名家中の動揺は政宗に積極的な軍事活動をとらせることになり、天正十七年(1589)五月、政宗は安積郡安子島、高玉城を攻略した。さらに、相馬領に攻め込み、宇多郡駒ケ峯城、ついで新地城を攻め落として信夫郡の大森城に入った。そして、黒川への進攻を企図した。
そのころ、葦名義広は父佐竹義重・岩城常隆および相馬義胤の軍と岩瀬郡須賀川に会し、北上して伊達郡を攻める態勢を整えた。この報に接した政宗は急遽予定を変更してこれに対応した。六月一日、猪苗代盛国がついに離反し、片倉景綱が猪苗代、原田宗時らが檜原に派遣された。そして、二日になると政宗は本宮城に進み、四日、猪苗代城に入った。義広はこの報を受けて、四日の夕刻須賀川から軍を黒川城に引き返した。そして、その夜のうちに猪苗代方面に向けて出陣した。
摺上原の合戦、葦名氏の没落
葦名側の作戦は、阿賀川の新橋を越えて大寺に陣を取り一気に伊達勢を追い散らそうというものであった。大寺に到着した義広は、先陣富田将監に五百余騎を率いさせ、二陣佐瀬河内守に二千余騎、三陣松本源兵衛に二千余騎、本陣には義広の三年寄をはじめ佐竹勢および大沼の勢七千騎、五陣は平田の率いる五千余騎、総勢一万六千余騎の陣立てで夜明けを待った。
一方、伊達軍は、内応した猪苗代盛国を先陣に二千余騎、以下、原田宗時三千余騎、片倉景綱三千余騎、本陣政宗一万余騎、後陣伊達成実五千余騎、総勢二万三千余騎で八ヶ森に陣取っていた。このとき、葦名義広・伊達政宗ともに二十歳前後の若者であった。
六月五日の早朝、磐梯山麓の摺上原で、葦名、伊達両軍の間で決戦の火ぶたが切られた。葦名の先鋒富田将監は、伊達の先陣猪苗代盛国の勢を破り、さらに二陣の原田、三陣の片倉を突破して政宗の本陣に攻め入ろうとした。緒戦こそ先鋒の富田が奮戦して葦名軍優勢とみえた。しかし、葦名の二陣佐瀬、三陣の松本は停滞し、そこに伊達成実が迂回作戦に出た。
折りから風向きが変わり、葦名軍に砂塵を吹き付けた。さらに内紛の疑心暗鬼から、敵の出現を味方の謀叛かと誤認するなど、葦名軍は浮き足だち、この機に伊達軍は乗じた。本陣の佐竹勢の力戦もついに敗勢を覆すことは出来ず、葦名勢は善戦しながら大勢は決し葦名氏は潰滅した。この合戦で討ち取られた葦名勢の首級は金上盛備以下馬上三百騎、野伏あわせて二千余にのぼったと『伊達文書』に記されている。
合戦に敗れた義広は黒川城に逃げ帰ったが、四天の宿老らに追われて黒川城を落ち、常陸の実家に逃げ落ち葦名氏は滅亡した。常陸に戻った義広は、江戸崎に四万八千石を与えられ、寛永八年(1631)六月、角館で没した。享年五十七歳であった。
【参考資料:会津若松市史/喜多方市史/福島県史/戦国大名系譜人名事典 など】
【葦名四天の 宿老】
松本氏・
平田氏・
佐瀬氏・
富田氏
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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丹波
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・備前/備中/美作
・鎮西
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安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、
鎌倉時代は東国武士の名字・家紋が
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
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