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赤穴氏
●並び矢
●三善姓佐波氏流
「並び矢」紋は、赤来町にある赤穴神社の神紋でもあるそうです。五彩庵文庫庵主上田勝俊さまから
情報をいただきました。
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飯石郡赤穴庄(現飯石郡赤来町)は、もともと鎌倉より下った紀氏の領地であった。のちに紀一族の後継者争いに乗じて、石見の国人領主佐波氏一族が進出、以降の地頭分を歴任して有力国人領主に成長した。佐波氏は三善清行の後裔で、清行五代の孫といわれる義連が石見国に下り、佐波庄を領して佐波氏を称したことが始まりと伝えられている。赤穴氏は佐波氏の庶子家で、佐波常連が出雲赤穴荘の地頭になり、姓を赤穴と改めたことに始まる。
戦国時代、赤穴氏は出雲の戦国大名尼子氏に属し、その居城赤穴城(瀬戸山城)は、尼子十旗のなかでも特に重要な軍事的拠点であった。それゆえ、尼子経久・晴久は赤穴一族を重用し、赤穴氏も良く尼子氏の期待に応えてきた。
赤穴荘前史
出雲・石見・備後の三国の国境にのぞむ赤穴荘は、石清水八幡宮別宮領として、鎌倉時代を通じ荘官紀氏が支配していた。紀氏は武士化を推進させながらも、守護武士に別宮領を横領されることもなく、安泰を得ていた。紀氏の武士化は荘園内の名主層を把握しなければならなかたとともに、その上に立って、他の武家勢力と相対的な自立性をもたなければならなかたためであろう。
嘉暦元年(1326)鎌倉時代も末期、赤穴荘地頭紀三郎太郎季実は赤穴八幡宮を再建している。八幡宮再建後五年経った元弘元年(1331)後醍醐天皇の鎌倉幕府の倒幕計画が顕われ、天皇は奈良の笠置寺に逃れ、のち捕らえられて翌年隠岐に流された。さらに、翌々年には楠木正成らが兵を挙げ、新田義貞や足利尊氏らが幕府に反旗を翻すなどして、鎌倉幕府は滅亡に至った。
この激動のなかにあって、紀季実は何故か京都周辺に居たことが知られている。おそらく鎌倉御家人として、六波羅に出仕していものであろう。動乱のなかで足利高氏が幕府に反旗を翻し、京都六波羅を攻略された探題北条仲時以下五百余名は鎌倉を目指したが、近江国番場附近で野武士の襲撃をうけてことごとく自害して果てた。このとき、紀季実が出家逐電したことが『中川家文書』にみえる。
季実の逐電後、赤穴荘地頭職は季実の二子によって、それぞれに二分された。このとき、弟が西方分をもち、兄が東方惣領分を譲与されたのである。その後、兄弟が所領相続をめぐって争いを起こすと、これに介入した佐波常連に東方惣領分が譲与され、佐波赤穴氏が成立することになる。赤穴荘支配を目論む佐波氏にとって、紀赤穴兄弟の内紛は絶好の機会であり、東方惣領分を得たことは石見南部の山間地帯から出雲南部に所領化を進めてゆく足掛かりとなったのである。
こうして、赤穴荘は南北朝初期を画期として、その大部分が紀赤穴氏から佐波赤穴氏へと地頭職の転換が行われたと考えられるのである。
佐波赤穴氏の発展
南北朝時代以降、佐波赤穴氏は赤穴荘地頭職を背景に、出雲の守護京極氏に従ったり、惣領佐波氏と行動をともにしながら近世初頭まで、赤穴荘を支配したのである。
室町幕府は一般に、守護大名の連合政権的性格が強かったといわれる。守護大名もその領国支配は比較的ルーズで、時々の争乱に、また段銭の徴集などに地頭・領主層を動かしはするものの、在地領主(国人)層の把握は不十分な面が多かった。とはいえ、在地の地頭・領主層にとって守護や幕府の存在は、家督争いや領地紛争の調停機能を有し、その権威を否定することができず忠節を尽くさざるを得ない面があった。
赤穴氏は佐波惣領制のもとで、さらに赤穴惣領制とでもいうべきものを持ち、それらはルーズではあったが、幕府・守護大名の統制下におかれていたのである。応永六年(1399)、大内義弘が反乱を起こした応永の乱や、応永十八年(1411)飛騨国司姉小路氏の幕府への反乱=飛騨合戦などに佐波氏、赤穴氏が出兵したのも、そして途中で引き揚げて帰ってきたのも、さきに記したような室町幕府治下における惣領制と守護領国制に包含されるみずからの立場の矛盾であったといえよう。
赤穴地方は、出雲・石見・備後の三国の国境に位置して、戦国期になると大内・毛利・尼子各氏の攻防の一つの中心となった。
応仁・文明期(1467〜86)の畿内を中心として展開された応仁の乱が、守護大名の領国=地方の争乱へと発展していったとき、出雲・石見・備後の要衝に位置した赤穴氏もその争乱から逃れることはできなかった。またこのころ、赤穴本家は一統支配・単独相続を完結し、赤穴家臣団を形成しはじめていたことが、赤穴久清の置文からうかがわれる。また、永正七年(1510)佐波惣領の誠連は赤穴郡連(久清)に与えた感状から、赤穴氏には漆谷・村田などの子飼の武士が存在していたことが知られる。それより先の文明ニ年(1470)の赤穴幸清による神西城攻撃のとき、幸清の家来十数人が討死している例もある。
しかし、赤穴氏が配下として動員できた最大兵力はわからない。『雲陽軍実記』では、赤穴籠城時の兵力を、尼子氏からの加勢を加えて約二千人とみている。このなかで、赤穴氏の直接配下として動員できた兵力はおそらく百を越すことはなかったと考えられる。赤穴氏が山間の小領主として存在してゆくため、軍事組織としての家臣団編成を行っていたとしても、それは量的にさしたる存在ではなかったであろう。
赤穴氏の軍事的強大さと勇名度は、軍事的・地理的要衝に拠っていたことと、そこで錬磨された向背の巧みな戦術にあったと考えられる。
戦国時代の赤穴氏
赤穴氏は、京極氏の強い時にはその配下として動き、惣領佐波氏を大切にし、やがて文明年間には京極氏に見切りをつけてしまうのである。永正十五年(1518)になると、京極氏に代った尼子氏と主従関係を結ぶ。それと共に佐波惣領とも往来を断っている。大永七年(1527)になると、郡連の嫡子光清は、尼子勢の一翼をになって備後の毛利攻撃に参加した。そして、尼子晴久による安芸吉田合戦が天文九年(1541)に始まった。
毛利攻めは、天文九年九月から同十年正月にかけて、芸州郡山において戦われたが、大内勢一万の援兵もあって尼子晴久の大敗に終わった。この結果尼子の麾下にあった福屋隆兼、三沢為清、三刀屋久扶、本城経光、宍道正隆、古志吉信らは大内義隆に通じ、尼子遠征の軍を起こさせた。すなわち、天文十一年二月、義隆みずから大軍を率いて山口を発し、さらに芸備の毛利元就・隆元父子をはじめ吉川興経、小早川正平、熊谷信直らを併せて石見に入り、益田藤兼、福屋隆兼、佐波隆連、本城経光、小笠原長雄ら石見の豪族を加えて、一挙に出雲に入り赤名瀬戸山城を陥れようとした。
瀬戸山城では、富田城から田中三郎左衛門ら一千騎の援軍を得て、大内軍の来攻に備えた。城主赤穴光清は赤名川を堰き止めて赤名盆地を湖水とし、城は背面の険峻と前面の水に護られて、難攻不落と見え、大内軍としては、城前面の堰を潰し、その後、大軍を進めるしかなかった。こうして、赤穴城の攻防戦は始まった。
押し寄せる、大内・毛利の軍勢に対して、久清は子光清とともに大内軍の猛攻に屈せずよく戦った。この合戦で、光清は城門を開いて決戦数度に及び、毛利の将熊谷直続を討ち取るなどして大内軍を一時退却させたが、大内方の陶隆房の家臣某に喉咽を射られて討死した。光清の討死によって久清は大内氏に降伏したが、赤穴氏の奮戦が大内の進軍を鈍らせ、富田城包囲戦を頓挫させたといっても過言ではないだろう。
その後、光清の嫡男詮清と二男定清は大内・毛利軍に加わり、九州筑前に下向、天文十三年、詮清は討死した。詮清の討死前、天文十二年大内軍は石見を経て後退し、出雲国内は再び尼子の支配に服し、再び瀬戸山城は赤穴氏の支配するところとなったが、大内への人質となっていた 兄は自害して果てた。 こうした悲運のなか、右京亮久清が家督を継ぎ、尼子・毛利合戦の中で赤穴氏を率いた。 尼子氏は赤穴氏を自己の陣営にとどめようとし、旧領安堵のうえ数々の恩賞を与えた。これに応えて、赤穴氏の忠節は変わることなく、晴久・義久の元で活躍した。
ところが、永禄五年(1562)、大内氏滅亡の後を受けて中国地方の大勢力となった毛利氏は大挙して赤穴峠より出雲に侵入したが、尼子氏衰退を前にした赤穴盛清は毛利軍に一矢をむくいることはしなかった。ここに、赤穴氏は毛利の軍門に降ったのである。このとき、最後まで忠義を主張した、森田左衛門と鳥田権兵衛は、瀬戸山を出て一揆を起し、毛利の軍を大いに悩ませた。 旧臣の叛乱を叱責された久清は、「名のために寝返った己にこそ非があり、彼等こそ誠の忠臣だ」と訴え、 元就はこれを聞いて、「久清もまた義者、森田、鳥田もまた伯夷、叔斉に似たり」と賞したと伝える。以後、終始毛利元就に仕えて尼子攻撃の先頭に立った。
その後の赤穴氏
赤穴久清のあとは弟の幸清が継ぎ、そして幸清の子元奇へと続いた。天正十八年(1590)元奇は父幸清の遺領を毛利輝元から安堵され、翌十九年の「天正の石直し」では、千六百六十八石の給地を毛利氏から与えられた。かつて永禄五年(1562)赤穴氏は雲州・石州などで合せて二百六十貫文を毛利元就・隆元によって宛行われていた。永禄から文禄にいたる時期は毛利氏が安堵知行から宛行知行へと、土豪給人の在地性否定政策を推進していた時期でもあった。
赤穴元奇は慶長の役に際して、朝鮮に渡海し蔚山に陣した。元奇は討ち取った鼻数三百余を吉川広家に宛てて送っているが、すでに赤穴氏は在地性を希薄にし、毛利氏の家臣として行動していたことがうかがわれる。慶長四年(1599)、元寄は名字を赤穴から中川に改めたが、このことは赤穴氏が在地性を失ったことを示している。ここに、中世国人領主としての赤穴氏の歴史は終わったといえよう。
慶長五年(1600)の関ヶ原の役後、毛利氏が徳川家康によって防長二国に削封された時、赤穴(中川)氏も毛利氏に従って長州に移って行った。・2005年07月07日
【参考資料:赤来町史/萩藩諸家系譜 ほか】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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