武将の肖像(伝記)

足利義輝/津軽為信/太田道灌/北条氏康/禰寝重長/細川藤孝/北条氏康/尼子経久/浅井長政/真田昌幸/斎藤義龍/上杉景勝/大友宗麟/直江兼続/南部信直/佐竹義宣/立花道雪

黒田孝高/宇喜多秀家/毛利元就/島津義弘/益田藤兼/筒井順慶/別所長治/島津義弘/龍造寺隆信/朝倉義景/蒲生氏郷/斎藤道三/九鬼嘉隆/小早川隆景/長宗我部元親/三好長慶/宇喜多能家
   
今月の武将

武将の肖像 津軽為信
●天文十九年(1550)〜慶長十二年(1607)
●出自は不明だが下久慈城主・久慈備前の子の可能性が強い。大浦城城主・大浦為則の養子となり、南部氏に属していたが、南部氏の内訌を好機として自立を図る。ついには、南部氏の勢力を津軽郡より追い落として、津軽氏を名乗った。天正十八年(1590)、豊臣秀吉から所領の安堵を受け、津軽氏の基盤を確立した。関ヶ原の合戦では家康に荷担し、近世大名津軽氏を磐石とした。慶長十二年、京において五十八歳の生涯を閉じた。
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武将の肖像 太田道灌
●永享四年(1432)〜文明 十八年(1486)
●太田氏は清和源氏の一流で、道灌は太田資清の子で資長を名乗った。扇谷上杉定正の執事として仕え、享徳の乱、長尾景春の乱に活躍した。しかし、その能力のゆえに上杉氏から忌避されるようになり、ついに山内上杉顕定の讒言を信じた主君定正に謀殺された。道灌は武将としてはもとより、歌人としても優れ「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞかなしき」という山吹伝説は有名。また、江戸城を築いたのも道灌であった。
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武将の肖像 北条氏康
●永正十二年(1515)〜元亀二年(1571)
●戦国時代の幕を開いた北条早雲の孫にあたる。父氏綱の死後、巻き返しを図る上杉氏、古河公方の連合軍と河越で戦い、寡勢をもって大勝利を得た戦いは「河越合戦」として有名。氏康は武将としての力量にも恵まれたが、内政にも非凡な能力をみせ、北条氏の勢力を安定期に導いた。また、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄の攻撃を受けたが、よくその鋭峰を交している。決して派手な印象はないが、ひとかどの戦国武将であったことは紛れもない。
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武将の肖像 禰寝重長
●天文五年(1536)〜天正八年(1580)
●大隅の国人禰氏の第十六代当主。種子島の領主である種子島氏と抗争を繰り返した。その一方で、薩摩・大隅の統一を進める島津氏に対して、肝付氏らと結んで対抗した。天正元年(1573)、島津義久からの和議申し入れに応じて島津氏に帰服した。その後は義久に属して肝付氏らと交戦した。重長は対明貿易を行い、領内における温州みかんやはぜなどの各産業の開発振興に尽力した名君でもあった。
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武将の肖像 細川藤孝
●天文三年(1534)〜慶長十五年(1610)
●室町幕府奉公衆の三淵晴員の次男という。のちに管領、細川元常の養子となった。実は将軍足利義晴の落胤とする説もある。幽斎の名でも知られている。足利義輝に仕えたが、その横死後、義輝の弟義昭を奉じて将軍にした。しかし、義昭は織田信長に敵対し藤孝の諌言を容れず、結局藤孝は義昭と袂を分かって信長の家臣となった。以後、信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、乱世を生き延びた。古今伝授を継承した歌人としても知られ、家集「衆妙集」、著書「百人一首抄」などを遺した。
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武将の肖像 北条氏康
●永正十二年(1515)〜元亀二年(1571)
●小田原北条氏第三代。小田原城主氏綱の子。強敵上杉朝興を亡ぼしてのち、古河公方を配下として南関東の制服を完成する。今川義元や武田信玄と同盟し、上杉謙信と戦い抜く。後北条氏が武蔵を確保し、さらに関八州の戦国大名へと飛躍していくことができたのは、この氏康の功績であった。氏康夫人は瑞渓院といって駿河の戦国大名今川氏親の娘で、氏康との間に十二人の子供を生んでいる。
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武将の肖像 尼子経久
●長禄二年(1458)〜天文十年(1541)
●尼子氏は佐々木京極家の一族。出雲の守護代だったが、経久の時代に戦国大名化をとげる。経久は主家の領地を乗っ取り、一代で「十一ケ国の大守」と言われるほどの大名となる。しかし、経久の子政久は若くして死に、孫の晴久を擁して経久の活躍があったが、経久の死後、晴久は毛利元就の策にはまって尼子氏の力を著しく落としてしまった。曽孫義久のとき、安芸毛利氏のため滅ぼされた。
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武将の肖像 浅井長政
●天文十四年(1545)〜天正三年(1575)
●近江小谷城主久政の子。十六歳で浅井氏を継ぐ。それまで江南六角氏の傘下に置かれていた状態を脱して自立し、それまで六角義賢の"賢"の字をつけて賢政といっていたのを長政と改称している。信長の妹お市の方と結婚して、友好を保ったが、同盟の朝倉氏との義理を重んじて信長に反抗。天正元年八月、小谷洛城に際し二十九歳で自刃した。
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武将の肖像 真田昌幸
●天文十六年(1547)〜慶長十六年(1611)
●信濃上田城主。武田氏に仕えてはじめ武藤氏を継ぎ、のち旧姓真田氏に復し上田城を築いた。武田氏滅亡後、昌幸は信長に属し、信長死後は家康に属した。しかし、家康より沼田城の明け渡しを命じられてこれを拒絶。家康と昌幸とは合戦におよんだが、絶妙の戦い振りを見せて徳川軍を撃退した。関ヶ原合戦では西軍に従い、秀忠軍を上田城に釘付けして関ヶ原の決戦に遅参させた。西軍の敗戦後、二男幸村とともに高野山に蟄居。
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武将の肖像 斎藤義龍
●生年不詳〜永禄四年(1561)
●美濃の戦国大名、斎藤道三の子に生まれた。しかし、道三に追われた守護土岐頼芸が実父だったという落胤説もある。道三は義龍の力量を高く評価しなかったようで、そのことがのちに父子の相剋につながった。弘治元年、義龍は父道三に対してクーデターを起こし弟たちを殺害した。翌年、長良川において道三軍と激突し道三を討ち取った。以後、美濃一国をよくとりまとめ、織田信長の再三の侵攻にも付け入る隙を与えなかった。
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武将の肖像 上杉景勝
●弘治元年(1555)〜元和九年(1623)
●上杉謙信の一族長尾政景の次男として生まれ、母は謙信の姉であった。父政景の死後、謙信に育てられのちにその養子となった。謙信の死後、もう一人の養子である景虎との家督争い「御館の乱」に勝利して上杉氏の当主となった。豊臣秀吉に仕え五大老の一人となり、会津百万石の大大名となった。秀吉の死後、石田三成に呼応して、徳川家康に反旗を翻した。しかし、三成が関ヶ原で敗れたため家康に降伏し、米沢三十万石に減移され、米沢藩祖となった。
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武将の肖像 大友宗麟
●享禄三年〜天正十五年(1587)
●九州の戦国大名。豊後府内城主大友義鑑の子。九州探題。豊後.豊前・筑後・筑前・肥後・肥前の六ケ国と伊予・日向の半国に大名領国制を展開した。永禄なかば、臼杵城に移り、キリスト教保護、南蛮貿易を行う。天正六年受洗、フランシスコと称す。天正六年(1578)、四万五千の大軍を率いて日向に進攻し、島津氏と決戦に及んだが、高城の戦いに敗れ、さらに耳川の合戦で壊滅的な大敗を喫した。
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武将の肖像 直江兼続
●永禄三年(1560)〜元和五年(1619)
●越後与板城主樋口兼豊の子で、直江氏を継いだ。上杉景勝の家老として知られる。兼続は文武に秀でた人物として知られるが、武に関しては、関ヶ原の戦いの時に、最上方の長谷堂城攻めが知られるばかりである。兼続の真骨頂は、上杉家の執政としての実績と学問を奨励した政治家としての面にあった。関ヶ原の戦いに際して家康に送った「直江状」が有名だが、いまは疑問視されている。とはいえ、上杉景勝に反家康の行動をとらせたのは、やはり兼続であっただろう。
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武将の肖像 南部信直
●天文十五年(1546)〜慶長四年(1599)
●近世南部藩の祖。南部氏二十三代安信の弟石川高信の長男に生まれる。三戸城主南部晴政の養子となり、二十五代晴継早世の後を継ぐ。家督相続に際して九戸政実らと対立し、その後の家中不穏を招いた。また、津軽為信の台頭により、津軽地方を版図から失う。小田原参陣により南部七郡の朱印状を受けたが、九戸政実の乱が勃発。乱を豊臣政権の力を借りて鎮圧し、三戸から盛岡に移った。戦後、失った津軽の替地として和賀・稗貫・志和の三郡を与えられる。
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武将の肖像 佐竹義宣
●元亀元年(1570)〜寛永十年(1633)
●常陸の戦国大名佐竹義重の長男。天正十七年(1589)に父から家督を譲られたが、その頃の佐竹家は北方の伊達政宗、南方の北条氏政の挟撃に合い苦しい状況にあった。翌年、豊臣秀吉の小田原征伐に参加してその麾下となり、危機を脱するとともに本領安堵を受けた。その後、常陸を統一して五十四万石の豊臣大名となった。関ヶ原合戦では態度を曖昧にし、戦後に出羽秋田二十万石へ転封される。
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武将の肖像 立花道雪
●永正十年(1513)〜天正十三年(1585)
●大友氏の重臣戸次親家の嫡男として鎧ケ岳城で誕生、鑑連を名乗った。十四歳で大友義鑑に従って初陣、病臥中の親家に代わって采配をふるった。その後、落雷によって足が萎え歩行不自由な身とあんった。しかし、大友家中の名将として、大友氏の北九州攻略戦に縦横に活躍した。のち道雪を号し、立花城督となったことから立花を称するようになった。男子のなかった道雪が迎えたは婿養子が立花宗茂である。
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武将の肖像 宇喜多能家
●生年不詳〜天文三年(1534)
●備前の戦国武将。赤松氏の備前守護代である浦上則宗・村宗の二代に仕え、豊原荘砥石城主であった。能家は浦上氏の重臣筆頭として、浦上氏の内訌、西備前の雄松田氏との合戦、播磨守護赤松義村との合戦に活躍、浦上氏の戦国大名化に大きく寄与した。享禄四年(1531)、細川高国を擁した村宗が摂津の戦いで戦死すると、砥石城に隠居した。そして天文三年、同僚の島村盛実の奇襲を受け砥石城で自害した。孫の直家は浦上氏を倒して、備前の戦国大名となった。
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武将の肖像 足利義輝
●天文五年(1536)〜永禄八年(1565)
●室町幕府の第十三代征夷大将軍。十二代将軍足利義晴の嫡男に生まれたが、当時の将軍権力は有名無実化していて、父義晴は管領細川晴元と対立、敗れて近江に逃れることが再三という状況であった。義輝も父とともに京からの脱出、復帰を繰り返した。将軍就任後、細川晴元と和睦して京に復帰すると将軍権力の復活に尽力した。しかし、志なかばで松永久秀・三好三人衆らの謀反によって殺害された。義輝は上泉信綱に教えを受けた剣豪将軍としても知られている。
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武将の肖像 黒田孝高
●天文十五年(1546)〜慶長九年(1604)
●播磨国の生まれで、小寺官兵衛を名乗り、のち剃髪して如水と号した。織田軍の播磨侵攻において秀吉の麾下に属し、竹中半兵衛とともに秀吉の軍師として活躍した。賤ケ岳の合戦、小牧の戦い、九州征伐など秀吉の天下取りの合戦において多くの軍功をあらわした。豊前国六郡十二万石を領したが、その功のわりには報われる所は少なかった。それは、秀吉が官兵衛の才を恐れた結果ともいわれる。秀吉没後は家康に接近して、福岡藩発展への基盤を築いた。
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武将の肖像 宇喜多秀家
●元亀三年(1572)〜明暦元年(1655)
●備前の下剋上大名宇喜多直家の子として生まれた。豊臣秀吉に愛され、秀吉養女の豪姫(前田利家の娘)を妻とした。本能寺の変ののち、秀吉の天下取りの合戦に参加して数々の戦功をあげた。合戦では猛将だったが、若さもあってか家臣の統率は下手であった。やがて家中騒動を起し、歴戦の重臣たちが宇喜多氏を去った。関ヶ原合戦では西軍の主力として戦ったが敗れ、八丈島に流された。島にあること五十年、明暦元年八十三歳で生涯を終えた。
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武将の肖像 毛利元就
●明応六年(1497)〜元亀二年(1571)
●安芸毛利氏九代弘元の次男に生まれ、安芸毛利氏中興の英主とされる。そもそもは分家として多治比猿掛城主であったが、兄興元・甥幸松丸の相次ぐ早世により毛利宗家を相続した。以後、大内氏、尼子氏らの強豪にはさまれてよく勢力を維持し、安芸国人衆の盟主となった。弘治元年(1555)、先に大内義隆を滅ぼした陶晴賢を厳島合戦で破り、中国地方十ケ国の大名となった。一族の結束を求めて、隆元・元春・隆景の三子に宛てた教訓状は有名。
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武将の肖像 島津義弘
●天文四年(1535)〜元和五年(1619)
●島津貴久の二男に生まれ、入道して維新と号した。永禄の頃より長兄義久とともに日向飫肥の伊東氏攻撃をはじめ、九州一円に兵を動かしたが、天正十五年、秀吉九州征伐に遭い、抗し得ず降伏した。祖父忠良は、「雄武英略をもって他に傑出する」と義弘を評価している。慶長の役における泗川の戦い、関ヶ原の戦いにおける敵中突破はつとに有名。慶長五年兄義久から家督を譲られ、鹿児島城主となったというが、実際は当主代理であったようだ。
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武将の肖像 益田藤兼
●享禄二年(1529)〜慶長元年(1596)
●石見の有力大名益田氏戦国後期の当主。父尹兼とともに大内義隆に仕え、月山富田城攻めなどに参加した。天文二十年(1551)、陶晴賢が謀叛を起して義隆を殺害したとき、これに加担したが、陶晴賢が毛利元就に敗れたのち毛利氏に降った。以後、吉川元春に属して活躍、毛利氏の信頼を回復していった。子の元祥は関ヶ原の合戦に敗れ財政難に苦しむ毛利氏の立て直しに尽力し、財政再建をなしたことで知られる。
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武将の肖像 筒井順慶
●天文十八年(1549)〜天正十二年(1584)
●天文十八年(1549)、筒井城主筒井順昭のとして生まれる。翌年、父が死去したことで、わずか二歳で家督を継ぐ。松永久秀と抗争の結果、筒井を追われ福住山中でゲリラ戦を展開した。元亀三年、織田信長の援けで奈良・多聞城攻略にかかり、天正五年に至って久秀を滅ぼす。明智光秀の援助で、織田信長から大和一国を与えられ、同八年に郡山城に入った。本能寺の変後の山崎合戦では光秀に応じず、羽柴秀吉に従い領国安堵された。
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武将の肖像 別所長治
●弘治二年(1556)〜天正八年(1579)
●播磨守護赤松氏の一族、東播磨八郡の守護代。三木城を再興した則治から五代目の城主。父安治の病死により、十三歳の若さで家督を相続した。叔父山城守吉親と孫右衛門重棟の二人の後見を得て、当初は将軍や地方豪族と交誼をよくして勢力を拡大した。織田信長の播磨侵攻に抵抗して三木城に籠城し、織田軍の総大将・豊臣秀吉の攻撃をうけた。毛利氏の支援を受けて抵抗したが天正八年落城、二十五歳の長治は妻子とともに自刃。
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武将の肖像 島津義弘
●天文四年(1535)〜元和五年(1619)
●島津貴久の二男で、入道して維新と号した。天文二十三年(1554)の初陣以来、武名を内外に轟かせた。永禄の頃より、長兄義久とともに日向飫肥の伊東氏攻撃をはじめ九州一円に兵を動かし、大友氏の決戦である耳川の戦いでは巧みな戦略で大友氏の大軍に圧勝した。天正十五年、秀吉九州征伐に遭い、抗し得ず降伏。慶長五年兄義久から家督を譲られ、鹿児島城主となる。 関ヶ原の戦では西軍として出陣、三百あまりの寡兵で敵陣の中央突破を敢行して薩摩に帰還したことは有名である。
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武将の肖像 龍造寺隆信
●享禄二年(1529)〜天正十二年(1584)
●龍造寺周家の子に生まれたが初め僧籍に入り、父の死により還俗して家督を継いだ。周防大内氏を頼って九州平定を狙う大友氏と対抗した。そして、大友義鎮の肥前侵攻を撃退して権勢を確立した。大友家が耳川の戦いで島津氏に敗れると一気に勢力を拡大し、一時は「五州の大守」として「肥前の熊」と称された。天正十二年(1584)、島津・有馬連合軍と沖田畷で戦い、圧倒的な大軍を擁しながらまさかの敗戦を喫し、隆信は討ち取られてしまった。
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武将の肖像 朝倉義景
●天文二年(1533)〜天正元年(1573)
●越前の戦国大名・朝倉孝景の子で、天文十七年(1548)に家督を継ぎ朝倉氏最後の当主となった。当時の越前は加賀の一向一揆があったものの、一乗谷を中心によく治まり京都から多くの公家が避難し、越前谷文化を花開かせた。将軍足利義輝が殺害されると、弟の義昭を一乗谷に迎え歓待した。しかし上洛の意思がなく、義昭は織田信長のもとに去る。その後、近江の浅井長政と結んで四年にわたる信長と抗争を続けたが、敗れて滅亡した。
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武将の肖像 蒲生氏郷
●弘治二年(1556)〜文禄四年(1595)
●近江日野城主蒲生賢秀の子。十三歳のとき織田信長のもとに人質として送られたが、信長に才能を認められその女婿となった。天正十年(1582)、「本能寺の変」で信長が亡くなると、秀吉と信長の弔い合戦で戦功をあげた。その後、秀吉に仕え、伊勢松坂十二万石、会津若松九十二万石に転封される。「文禄の役」のため名護屋在陣中に発病、四十歳の若さで生涯を閉じた。利休七哲の一人であり、またキリシタン大名でもあった。
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武将の肖像 斎藤道三
●生年不詳〜弘治二年(1556)
●美濃の戦国大名。『軍記物』によれば、京妙覚寺で修行していたが、還俗して山城国の灯油商奈良屋の女婿となり、灯油を売るため美濃に往来していたという。その後、守護の弟土岐頼芸に仕えて、頭角をあらわし、ついには頼芸を追放、美濃の実権を握った。しかし最近の研究で、妙覚寺で修行し俗した僧とは父・新左衛門尉のことであるといわれ、父子二代で「国盗り」したという説が有力である。美濃国主となった道三であったが、晩年は嫡男義龍と対立し長良川合戦で敗死した。
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武将の肖像 九鬼嘉隆
●天文十一年(1542)〜慶長五年(1600)
●九鬼氏五代志摩田城城主定隆の二男として生まれる。嘉隆は地元の十三地頭(海賊衆)を平定し、滝川一益の仲介で織田信長に属するようになり、長島一揆や熊野一揆、伊勢北畠家攻略に活躍した。本願寺攻めでは毛利水軍を破って石山本願寺を孤立させ、功により鳥羽城主三万五千石を領した。信長没後は羽柴秀吉に仕えて領地を安堵され、水軍の将として戦功をあげた。「関ヶ原の戦い」では子の守隆が東軍に、自身は西軍につき、戦後自殺した。
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武将の肖像 小早川隆景
●天文二年(1533)〜慶長二年(1597)
●毛利元就の三男として生まれ、のちに竹原小早川氏の養子となる。二兄の元春とともに宗家毛利氏を援け「毛利の両川」と呼ばれた。羽柴秀吉の高松城水攻めに対抗したが、「本能寺の変」後に秀吉と講和した。以後、秀吉にあつく用いられ四国・九州に出兵、「文禄の役」では朝鮮に渡って活躍した。伊予三十五万石、ついで筑前など北部九州を与えられる。豊臣政権の五大老として重用されたが病を得ると、家督を秀吉の甥秀秋に譲り三原に隠退した。
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武将の肖像 長宗我部元親
●天文八年(1539)〜慶長四年(1599)
●土佐国岡豊城主の長宗我部国親の長男として生まれる。永禄三年(1560)家督を継ぐと、本山氏との戦いで初陣を果たし目覚ましい活躍をみせた。その後、四国統一に全力を傾け、天正十一年(1583)にはほぼ四国全域を併合した。しかし、二年後に豊臣秀吉の四国征伐に降伏し土佐一国を安堵された。以後、九州・小田原に出陣、さらに「文禄の役」にも出陣した。しかし、九州の戦いで嫡男信親を失ったことも有り、晩年は恵まれたものではなかった。
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武将の肖像 三好長慶
●大永三年(1523)〜永禄七年(1564)
●摂津国芥川城主三好元長の子。天文元年(1532)に家督を継ぎ、管領細川晴元家宰となって勢力を扶植していった。同十八年、将軍義晴・細川晴元らを近江に追放、五年間という期間であったが京都の実権を握った。戦国諸勢力のなかで、いち早く京都を支配下においた長慶は、のちの織田信長のお手本になるところが多かったようだ。やがて、家老松永久秀がその座を脅かすようになり、嫡子義興も秀久の手で毒殺され、失意のなかで死去した。
武家肖像伝_2 武家の肖像

【武家肖像】