武将の肖像 直江兼続
●永禄三年(1560)〜元和五年(1619)
●越後与板城主樋口兼豊の子で、直江氏を継いだ。上杉景勝の家老として知られる。兼続は文武に秀でた人物として知られるが、武に関しては、関ヶ原の戦いの時に、最上方の長谷堂城攻めが知られるばかりである。兼続の真骨頂は、上杉家の執政としての実績と学問を奨励した政治家としての面にあった。関ヶ原の戦いに際して家康に送った「直江状」が有名だが、いまは疑問視されている。とはいえ、上杉景勝に反家康の行動をとらせたのは、やはり兼続であっただろう。

武将の肖像 上杉景勝
●弘治元年(1555)〜元和九年(1623)
●上杉謙信の一族長尾政景の次男として生まれ、母は謙信の姉であった。父政景の死後、謙信に育てられのちにその養子となった。謙信の死後、もう一人の養子である景虎との家督争い「御館の乱」に勝利して上杉氏の当主となった。豊臣秀吉に仕え五大老の一人となり、会津百万石の大大名となった。秀吉の死後、石田三成に呼応して、徳川家康に反旗を翻した。しかし、三成が関ヶ原で敗れたため家康に降伏し、米沢三十万石に減移され、米沢藩祖となった。

武将の肖像 真田幸村
●永禄十年(1567)〜元和元年(1615)
●信州上田城主真田昌幸の次男に生まれた。幸村の名は俗称で、現存する書状などには信繁と署名している。天正十年、武田氏の滅亡後、徳川・北条氏らの攻勢にあった昌幸は越後の上杉景勝に救援を求めて、信繁が人質となった。その後、豊臣秀吉のもとに出仕したが、これも人質的意味合いが強いものであった。関ヶ原の戦いで父とともに西軍に加担したが、敗れて九度山に配流され十五年間を過ごした。大坂の陣が起こると、豊臣氏に味方し、華々しい活躍を示したが元和元年五月の戦いで討死した。

武将の肖像 斎藤義龍
●生年不詳〜永禄四年(1561)
●美濃の戦国大名、斎藤道三の子に生まれた。しかし、道三に追われた守護土岐頼芸が実父だったという落胤説もある。道三は義龍の力量を高く評価しなかったようで、そのことがのちに父子の相剋につながった。弘治元年、義龍は父道三に対してクーデターを起こし弟たちを殺害した。翌年、長良川において道三軍と激突し道三を討ち取った。以後、美濃一国をよくとりまとめ、織田信長の再三の侵攻にも付け入る隙を与えなかった。

武将の肖像 細川藤孝
●天文三年(1534)〜慶長十五年(1610)
●室町幕府奉公衆の三淵晴員の次男という。のちに管領、細川元常の養子となった。実は将軍足利義晴の落胤とする説もある。幽斎の名でも知られている。足利義輝に仕えたが、その横死後、義輝の弟義昭を奉じて将軍にした。しかし、義昭は織田信長に敵対し藤孝の諌言を容れず、結局藤孝は義昭と袂を分かって信長の家臣となった。以後、信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、乱世を生き延びた。古今伝授を継承した歌人としても知られ、家集「衆妙集」、著書「百人一首抄」などを遺した。