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南部氏
●南部鶴/割菱
●清和源氏義光流
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南部氏は清和源氏武田氏の分かれで、甲斐国南巨摩郡南部邑より興ったとされる。すなわち、新羅三郎義光の五世の孫にあたる加賀美次郎遠光の三男光行をもって祖とする。
光行が南部の地を領して南部氏を称することになったのは間違いないが、『甲斐国志』はそれを南部御牧のこととしている。ところが、南部御牧の名は、他の如何なる中世史料にも見出せない。しかし、南部御牧はなかったにしても、光行が南部を称したからには、名字の地となったであろう「南部」の地があったことは確かである。後代の系図などのに史料よれば、南部庄を拠点としたとするものもあるが、南部に荘園があったことを明記あるいは示唆する史料も残されていない。
南部が地名として最も古い記録にみえるのは「日蓮書状」で、文永十一年(1274)の身延入山の際に「なんふ(南部)」に一泊したと記したものである。日蓮はその前日に大宮に一泊し、翌日は波木井に至っていることから、「なんふ」は現在の南部町付近をさしていることは間違いない。さらに日蓮の弟子日興の書には「南部郷之内フクシノ塔供養」とあり、南部とは南部郷のことで郷内にはフクシ(福士)を包含していたことが知られる。南部郷はかなり広い郷だったようで、その後も同郷の支配をめぐって一族内で争いが生じていることなどから、南部氏にとって重要な所領だったことが知られ、この南部こそが初代光行の拠った名字の地であろうと考えられる。
光行は父遠光とともに鎌倉幕府の創業に尽して、幕府が成立すると源頼朝の側近として仕え、文治五年(1189)の奥州征伐に従軍し、その功績によって糠部五郡を賜わったという。
奥州南部氏の濫觴
糠部五郡とは陸奥北部一帯の広大な領地で、糠部、岩手、閇伊、鹿角、津軽の五郡であるといわれる。しかし、糠部五郡が南部氏の所領であったということは、信憑性の高い史料として有名な『吾妻鏡』などでは確認できず、盛岡南部氏に伝来し現存する後世の文献にのみ見られることから、創作の可能性が極めて高い。
近世南部氏の所伝によれば、建久二年(1191)十月、光行は糠部の新領地に赴くために、家臣七十三名を引き連れて六艘の船で鎌倉の由比ヶ浜から船出をした。そして、十二月に糠部郡八戸浦に到着し、馬淵川を遡り三戸に入って相内村観音堂に一泊した。そこに、地方の豪族の田子丹波という者が出迎え自分の屋敷を南部光行に提供したという。田子の屋敷で年を越した光行は、翌建久三年の春、三戸に平ヶ崎城を築いて地頭代を据えると自身は鎌倉に帰り没したという。
鎌倉御家人は、みずからは鎌倉に住んで幕府に出仕し、与えられた所領には一族あるいは代官をもって所領の支配にあたることが多かった。南部氏も代官をおいて、奥州の所領を支配したと考えられるが、確実な史料からそれを確認することはできない。また、家臣とともに鎌倉を船出したという話もにわかには信じられない。
南部氏の系図によれば光行には六人の男子があり、長男彦太郎行朝は妾腹のため別家を興して一戸氏の祖となり、三男波木井六郎実長は後の根城(八戸)南部氏、四男七戸太郎三郎朝清は七戸・久慈氏の祖に、五男四戸孫四郎宗朝は金田一・櫛引・足沢氏の祖に、六男九戸五郎行連は九戸・小軽米・江刺氏の祖となったと伝える。そして、南部氏の家督は次男彦次郎実光が継いだとされている。
実光は、承久元年(1219)に一族を率いて糠部に本拠を移し、本領の甲斐には波木井六郎実長を残したというが、これも先述のように裏付けのあるものではない。また、鎌倉末期における糠部の領主としては、一戸は横溝五郎入道・工藤四郎左衛門入道・浅野太郎・ 横溝六朗三郎入道浄円、三戸は会田四郎三郎・大瀬二郎・横溝新五郎入道、五戸は三浦介時継、七戸は工藤右近将監、八戸は工藤三郎兵衛尉がいたことが確認できる。このことからも、南部氏が鎌倉時代に糠部一円を領していたとは考えにくいのである。
南部氏が奥州に地歩を築く端緒としては、元享二年(1322)「安藤の乱」に際して波木井南部長継が派遣されたことが注目される。長継の出陣は長期にわたっており、「兵糧料」として糠部に所領を与えられた可能性は高い。そして、それが南部氏が奥州に所領を持った初めであったと考えられる。
南北朝の内乱
元弘三年(1333)、新田義貞が鎌倉を攻めたとき、南部政長が奥州から馳せ参じたが、政長は奥州の所領に代官として赴いていたものと想像される。鎌倉幕府滅亡の時、惣領家の茂時は北条高時に殉じて切腹したという。しかし、茂時は北条一族の人物であったものを『太平記』が誤伝したともいわれている。
鎌倉時代から南北朝期にかけての武士は、惣領制によって統制されており、南部氏の惣領は鎌倉にあって幕府に出仕し、庶流南部氏が甲斐・奥州の所領の代官などを勤めていたものと思われる。そして、幕府の滅亡を契機として、波木井南部氏が台頭してくるようになる。
甲斐にあった南部氏庶子家の波木井南部師行は「元弘の乱」が起こると奥州に下向し、陸奥守として奥州に下ってきた北畠顕家に属して陸奥国代に任じられた。師行は糠部郡の八戸に根城を築き、その一帯を支配するようになった。そして、新政の方針に反する北条方の旧領主の給人の所領を没収し、その跡地に顕家の命を受けて新領主を安堵せしめるなど、陸奥国代たる職責を遂行した。ここに、八戸南部氏は惣領である三戸南部氏をしのぐ勢いをみせるようになったのである。
建武新政権は時代錯誤な政策と不公平な恩賞沙汰の多く、次第に民衆の失望をかっていった。とくに政権樹立に活躍した武士たちの不満は大きく、武士たちは武家政権の復活を望むようになり、やがて足利尊氏に期待を寄せるようになった。建武二年(1355)、中先代の乱をきっかけとして足利尊氏が天皇に叛旗を翻すと、北奥では曽我貞光が尊氏と結んで挙兵、師行は弟政長・政長、子の信政とともに、北畠顕家に従って貞光を討った。さらに、後醍醐天皇から尊氏追討を命じられた顕家が上洛の軍を起こすと、顕家とともにわずか二十日ほどで京都に攻め上った。そして、尊氏軍を九州に敗走させたのである。
その後、尊氏は九州で態勢を立て直すと軍を東上させ、摂津湊川で楠木正成を討ち取り京都を回復した。これに対して、顕家はふたたび天皇の命を奉じて奥州の大軍をもって京都を目指した。師行も顕家に従い、尊氏軍と激しい戦いを繰り返しながら東海道を攻め上ったが、和泉国の戦いで顕家が戦死し、師行も阿倍野の戦いで戦死した。このとき、糠部から師行に同行した家臣百八人も討死したという。
以後、南北朝内乱は果てること無く続き、日本全国に戦いが止むことはなかった。その間「五度、十度、主をかえぬものはない」といわれたほど、武士たちは家や一族のための打算で行動し、次第に北朝方が優勢となっていった。そのような時代状況のなかで、八戸南部氏は一貫して南朝方として行動し、節を変えなかったことは特筆される。
三戸南部氏の動向
一方、南部氏の嫡流たる三戸南部氏の南北朝期における動向は詳らかではない。これは、戦国時代に三戸城が焼失したとき、伝来の史料がほとんど失われたことにもよるが、八戸南部氏の活躍に比較して陰の薄い存在であった。
周辺の諸史料からみて、三戸南部氏は八戸南部氏とともにはじめは南朝方に属していたようだが、政行のときに南朝方から北朝方に転向したことが知られている。そして、政行の子守行のとき南北朝の合一がなった。守行は将軍足利義満の命を受け、南朝方に節を貫こうとする八戸南部政光の帰服を促すため説得にあたった。しかし、政光は「二君にまみえるつもりはなく、白刃のもとにたおれることをのぞむ」と、南朝方に殉じるとの意思をのべた。
三戸南部氏は、南北朝時代において八戸南部氏から多大な援助を受けており、守行はその恩義に報いるため、政光のために骨をおり、将軍家と政光の双方が納得のゆく解決案を示した。すなわち、甲州の所領を将軍家に納め、南朝から賜った北奥の根城に退けば双方に筋が通るというものであった。
ここにいたって政光も守行の勧めをいれ、甲州の所領を将軍家に返納し、自らは八戸の根城に退くことで北朝方に降った。これをきっかけとして、三戸南部氏は八戸南部氏に代わって南部氏の宗主権を掌握し、八戸南部氏は八戸氏を称するようになった。この政光・守行の行動に、将軍義満も政光の忠誠心と守行の篤実さを賛えたと伝ええられている。 こうして、南北朝内乱期に南部氏の主導権を握っていた八戸南部氏は、嫡家三戸南部氏とその位置を交代し、以後、南部氏の指揮下に入ったのである。
このように、南部氏十三代・守行は室町初期に於ける三戸南部系を代表する知謀の将で、応永十六年(1409)足利満隆の謀反に際し、その討伐に功があり陸奥守を賜っている。ついで、応永二十三年(1416)上杉禅秀の乱が起こると、はじめ禅秀の命令に従ったが、のちに幕府側に転じて禅秀討伐に功を上げた。そして、その勢いをもって出羽の秋田氏と争いつつ、和賀・稗貫両氏を抑え、さらに閉伊郡の大槌氏を平定するなど飛躍的な発展をみせた。
南部氏の勢力伸張
南部氏は南北朝時代ころから秋田仙北地方を支配下に収め、南朝方の八戸南部氏がその版図を確保していたが、やがて秋田湊の安東氏が南部領を侵しはじめた。応永十八年(1411)、南部守行は八戸南部氏とともに秋田へ軍を進めて領地を確保している。永享四年(1432)ふたたび大軍をもって秋田・仙北を襲い、秋田氏を破り小野寺泰道を従え、秋田・仙北の大半を領有するに至り、比内に南部二郎を、仙北に南部三郎を配した。南部三郎は、金沢城に拠り金沢右京亮と号した。
永享九年(1437)三月、気仙沼の岳波太郎と唐鍬崎四郎の兄弟が遠野に出撃して、阿曽沼氏を攻撃した、岳波氏と唐鍬崎兄弟に阿曽沼氏の一族大槌氏が加担し、思わぬ苦戦となった阿曽沼氏は籠城し、三戸の南部守行に救援を求めた。守行は七百騎を率いて救援に向かい、岳波・唐鍬崎・大槌の連合軍を撃破した。南部軍はさらに大槌城攻略に向かったが、大槌城外を巡察していた南部守行は、城兵の遠矢を受けてまさかの戦死を遂げてしまった。この騒動の記録は、南部家の武将北信愛が編述した『祐清私記』にみえ、『南部系図』にも記されている。*
守行の子義政(初名守清)は父守行の片腕として、各地の戦いに出陣した。上杉禅秀の乱をはじめ、永享四年に津軽安東氏攻め、同七年に煤孫氏の乱に出兵、翌八年には稗貫氏の瀬川城を攻略した。そして、同十年、父守行が戦死した大鎚地方を鎮圧した。関東で永享の乱が起ると、幕府方に属して出陣、戦後、その功により将軍義教の一字を拝領して義政と改めたという。永享十二年、永享の乱で滅んだ関東公方足利持氏の遺児らが結城城に立て籠って兵を挙げた結城の乱にも幕府方として出陣、陣中で病死した。
このように三戸南部氏は、守行・義政の代に全盛時代を迎え、『南旧秘事記』によれば、義政の代には守行の代と同様に、葛西・大崎・柏山・和賀・斯波・横田・東閉伊・秋田・仙北・由利・庄内・越後境まで、いずれも南部の下知を守ったという。この記述をそのままには受け取れないが、守行・義政の二代において南部氏が勢力を飛躍的に拡大したことは疑いない。
*:一説に応永十九年(1412)の事件であったともいう。
戦国時代への序奏
義政のあとは弟の政盛が継いだが病弱のため、家督を弟の助政に譲り鹿角に隠退した。相次ぐ当主の交代により、南部氏の周辺豪族に対する統制力にも翳りがみえるようになった。助政のあとを継いだ光政のときの康正二年(1456)、安東氏が出羽より南部の境に侵攻してきた。光政は葛西氏の救援を得て出撃し、安東勢を撃退した。翌三年、八戸南部政経は後花園天皇の綸旨を受け、蠣崎蔵人の乱を平定し下北半島は八戸南部氏が領有するところとなった。その後、八戸南部氏は三戸南部氏と拮抗する勢力を有し、政経の嫡男信長は上洛して将軍足利義政に近侍した。
光政のあとを継いだ時政の代になると、京を中心に応仁の乱が起り、世の中は確実に戦国乱世へと推移していった。そのような時代下、三戸南部氏は次第に衰退の色をみせ、わずかに「糠部数郡を保有するのみ」という状況にあったという。とはいえ、時政は将軍義政に駿馬を献上しており、三戸南部氏がそれなりの勢力を堅持していたことがうかがわれる。
他方、金沢右京亮が四十年間にわたり支配していた仙北地方では、安東・小野寺氏との間で仙北領をめぐる熾烈な攻防があり、康正二年(1456)、南部光政は葛西氏の加勢を得て秋田湊城を攻略し、安東・小野寺氏を屈服させた。そして、金沢家光・家信父子は仙北地方の代官ながら朝廷より官位を賜り、南部一族の支配力を高めたが、寛正年間(1460〜65)になると小野寺氏を主体とする出羽勢の反撃が始まり家光は敗死してしまった。
応仁二年(1468)に至り、南部氏は仙北支配を断念、家信は三戸へ撤退した。その後家信は本領の久慈に帰り、やがて嫡子光信が津軽に進出し種里城主となった。ちなみに、南部氏の一族として仙北の支配にあたった金沢右京亮こそ、のちの津軽氏の祖であるといわれている。
弱体化した三戸南部氏であったが、左衛門佐信時の登場により、ふたたび隆盛期を迎えることになる。『南部史要』によれば、信時は性寛大で仁慈に富み、武勇にすぐれ果断の人であったという。信時は津軽を平定して大浦光信を種里城に配置し、岩手地方の平定にも力を尽したのである。三戸南部氏がのちに戦国大名として飛躍する基礎が築かれたのは、この信時の代においてであろう。
近隣諸豪との抗争
信時には四人の男子があり、長男の信義は早世したため二男の政康が家督を継承した。そして、三男重義は野沢を称し、四男の光康は叔父の行実のあとを継いで津軽郡代となり、子孫は大光寺氏を称した。政康の没年には不明な点が多く、一説には永正四年(1507)に死去したともいう。しかし、永禄・天正のころの棟札に政康の名が見えることから、かなりの長寿をまっとうしたようだ。
さて、政康の嫡男安信は、大永四年(1524)、津軽地方の反乱を平定して頭角を現わし、浪岡に居住していた北畠顕家の子孫浪岡氏を支配下においた。安信は領内の支配体制を磐石のものとするため、次弟石川高信を津軽方面の総司令官とし、三弟長義を領内の布石として浅水城に、四弟信房を斯波氏の備えとして石亀城に、末弟秀範を西の安東氏に対抗させ毛馬内城に置き、三戸南部一族による領内支配を確立した。
そして、大永七年(1521)北上をねらう和賀氏と北上川流域の志波郡郡山で戦い勝利を得、ついで、同四年、弟の石川高信らの活躍によって、津軽地方における南部氏支配権を掌握している。他方、南下政策もくわだて岩手南部の強豪である葛西氏領にも兵を出すなど、近隣諸大名との間で合戦が繰り広げられた。
天文三年(1534)には胆沢郡の柏山伊勢守と戦い、同五年には工藤氏による浅水城での叛乱、同六年には和賀薩摩守を攻めた。しかし、南下をはかる南部氏に対して、斯波・稗貫・和賀氏らが結束して対抗したため攻撃は成功しなかった。とはいえ、南部氏の攻勢によって和賀氏は天文九年に和賀から撤退し、これに勢いを得た南部氏は滴石城を攻略し戸沢政安を秋田に追放した。さらに、斯波経詮による岩手郡侵入など領内の不安定と領域をめぐる攻防が繰り返された。その間の天文八年には、家臣の対立によって三戸城が焼失し、家伝の文書を失ったため三戸南部氏の事蹟の解明が困難になったことは既述の通りである。
安信のあとを継いだ晴政は、天文八年(1539)に上洛して、将軍義晴より一字を拝領して晴政と名乗り家督を継承したものである。晴政は大膳大夫を称し、乱世の武将として戦略戦術にすぐれ、果敢な軍事行動をもって周辺の諸豪族を攻略して支配地を拡大していった。
戦国大名への飛躍
十六世紀半ばになると、安東(秋田)愛季が二流に分立していた安東氏内を統一し、秋田地方に勢力を拡大してきた。永禄九年(1566)八月、愛季は比内の浅利残党・阿仁地方の嘉成一族を主力とした五千の兵を遣わし、大館から犀川峡谷を経て巻山峠を越え、鹿角郡に侵入した。この侵攻に驚いた南部晴政は、岩手衆の田頭・松尾・沼宮内・一方井らの諸勢を鹿角に送ったが、狭隘な山道で進軍は思うに任せなかった。しかし、南部方の主城である長牛城主一戸友義以下の奮戦と早い降雪に助けられ、秋田勢の攻撃をしのぐことができた。
翌年二月にも愛季は、雪をおかして自ら六千の兵を率いて長牛城に攻め寄せてきた。戦いは友義の叔父南部弥九郎が討死にするほどの激戦となり、晴政は一族の重臣北・南・東らの諸勢を救援に繰り出したことで、長牛城は落城を免れることができた。愛季は鹿角攻略をあきらめず、十月、またもや長牛城を攻撃し、一方的に攻め立てられた長牛城は全滅に近い形で落城、城主の一戸友義は辛うじて三戸に逃れた。この情勢に対して南部晴政は、翌年三月、世子南部信直とともに来満峠越えで大湯に着陣、同じく南部氏の一族である九戸政実勢は保呂辺道経由で三ヶ田城に入った。南部氏は、南北からの秋田氏挟撃作戦を展開し、鹿角郡の奪回を果たしている。こうして、晴政は勢力を大きく伸張させ、八戸・九戸らの一族を旗下において、北奥の戦国大名へと成長したのである。
このように、晴政は戦には強かったが、一族や家臣の統率力にかけるところがあったようだ。元亀三年(1572)になると津軽地方で郡代の政策を不満とする勢力が叛乱を起こし、津軽郡代が追放されるという事態が起こった。これに対し、南部氏は石川高信を派遣し、浪岡において叛乱軍を討ち、津軽地方の乱を平定した。これを機に、高信が津軽郡代となり石川城に居城した。しかし、間もなく、叛乱軍の残党が乱を起こし、三戸城に迫るという事件が起こり、南部信直は八戸政栄や石川高信の兵を動員して制圧したが、このころから津軽地方の独立化の動きが活発化してくることになる。
戦国後期の天正年間(1573〜92)に入っても領内の不安は続き、ついには南部氏の有力一族である九戸政実が鹿角郡の諸氏を誘って叛乱との噂が流れ、領内騒然となったという。事態は八戸政栄の執り成しで政実が南部晴政に母と弟を人質に入れ、晴政も娘を政実の弟実親にめあわせたことで一応の結着をみせた。このような度重なる危機のなかで、南部氏が領国支配を維持できたのは、石川高信・信直父子、八戸政栄、九戸政実らの一族や有力家臣の活躍に負うところが大きかった。
一方で晴政は、天正六年、天下統一に大きく前進している安土の織田信長のもとに使を送り、臣従の姿勢を示している。複雑な領国事情と、中央から遠い北奥の地にあって、晴政がよく時代の趨勢に意を用いていたことは注目される。
晴政後をめぐる家督争い
南部晴政には、はじめ男子がなかったため、叔父田子高信の嫡子で長女の婿である信直を嗣子と定めていた。ところが、その後に男子晴継が生まれると、実子にあとを継がせたいと考えるようになり、信直との関係が悪化してきた。この事態に、信直は室となっていた晴政の長女が死去していたこともあって、晴政の嗣子たる立場を辞退して三戸城を出て田子に引っこんだ。
ところが、信直が謀叛を企てていると讒言するものがあり、晴政は機会をとらえて信直を殺害せんとした。これをみた北信愛は信直が国主たる器量をもつ人物と期待していたこともあり、信直を憐れみ、八戸政栄と心を合せ居城の剣吉に匿った。これを知った晴政は一門、家臣を率いて剣吉に押し寄せた。このとき、政栄は信直を救えば三戸南部に背くことになり、晴政を支援すれば信直を無実の死にいたらしめることになる。そう考えた政栄はみずから軍兵を率いて、双方の陣中を相隔てて和睦を推進した。この政栄の仲裁によって、ようやく晴政は信直攻撃の戈をおさめたのであった。
元亀三年(1572)、信直は川守田村毘舎門堂に参拝した。これを聞いた晴政はただちに兵を率いてこれを襲撃し、信直は川守田常陸入道の居館に走り晴政勢の攻撃を防いだが、晴政は居館に攻め込もうとした。ついに信政は鉄砲をもって晴政に攻撃をしかけたが、さすがに晴政に狙いはあてずその乗馬を射た。ついで、晴政に加担していた九戸実親を鉄砲で射抜いたため寄せ手も兵を引き上げた。危難を逃れた信直は政栄に救いを求め、政栄も信直を八戸城に迎え入れ、以後、これを匿いつづけた。その後、晴政は病死し家督は晴継が継いだが、晴継もまたほどなく病死してしまった。
晴政の死に関しては、永禄六年(1565)に死去したとするもの、天正十年(1582)に死去したとするもの、さらには元亀三年(1572)に死去したするものなど諸説がある。それにともなって、晴継の死去も、永禄八年、天正十年、元亀三年と説が分かれている。また、晴継の死は実は毒殺であったとするものもある。このように、晴政・晴継の死と、それに続く信直の家督継承の時期は諸説あって一様ではないのである。近世直前にあって、南部氏の家中が混乱していたことを示すものといえよう。
さて、南南部宗家である三戸南部氏の家督決定のため、南部氏一族、重臣らによって大評定が開かれた。後継者の候補としては、晴政の前養子であった信直、一族の名門で最大の所領をもつ大身九戸政実の弟で晴政の娘婿である実親、さらに八戸南部氏の嫡流として三戸南部氏を支えてきた八戸政栄が有力と思われた。評定では晴継暗殺の疑いも濃厚とされ、九戸実親を推す空気が強かった。それには、九戸政実の実力を畏れる配慮も働いたことは疑いない。
そのようななかで、一族の一人である北信愛がその空気に抵抗し、ひそかに八戸政栄の協力を得て、
信直こそ先君の養子でありかつ国主たる器であると主張、ただちに田子館に駆け付けて信直を説得し、三戸城に
招じ入れた。かくして、南部信直の家督相続がなったが、この家督争いは南部氏に修復しがたい家中分裂をもたらす
結果になったのである。
・甲冑姿の信直肖像
南部信直の奮闘
信直は相続後、ただちに晴継の葬儀を執行したが、これに参列しない家臣もあった。しかも、葬儀を終えて三戸城へ帰る途中の信直が襲われるという事件が起こった。信直は窮地を脱したものの、相続問題をめぐる南部氏家中の抗争は根深いものがあった。
このようにして南部氏の家督を相続した信直のまえには一族の抗争をはじめ、領内の諸豪族への対応、さらには津軽地方の安定、出羽の秋田(安東から改姓)実季への対応、北上川下流地域の支配強化などの課題が山積みしていた。このような状況のなか、信直は織田信長に誼を通じ、中央権力者との関係を密にせんと図っていたことは注目される。信直は北信愛を使者として信長のもとに派遣したが、かれらが到着する前に信長は本能寺で横死したため、信愛らは使命をはたせず引き返す結果となっている。
信長後の天下は、豊臣秀吉が台頭し関白となり、天正十四年(1586)、戦国大名の私戦を全面的に否定する「全国惣無事令」を発した。これにより、以後の戦いは秀吉への反抗ということになり、日本各地の諸侯は続々と上洛し秀吉から本領安堵の朱印を受けることに汲々とした。信直に対しても京都の情勢は伝えられ、上洛をせんとした。ところが、九戸政実が南部家の惣領として秀吉に使者を送ったという噂があり、信直は北信愛や八戸政栄とはかって、前田利家のもとに使者を送り、秀吉への執りなしを依頼し了解を得た。さらに事の重大性を自覚した信直は天正十五年、北信愛を選んで、秀吉に通じるべく前田利家のもとに遣わした。しかし、秀吉は九州に出陣中であったため、信愛は利家より所領安堵の朱印状を保証される起請文を託されて三戸に戻った。
その後、大坂に帰還した秀吉に南部氏の事情が達し、信直は豊臣政権との連携に成功したのである。とはいえ、領内の問題、なかでも津軽地方における動向は急を要する事態にあった。津軽郡代で実父でもあった石川高信の死後、実権を強化しつつあった大浦為信は、すでに天正十三年には軍事行動をもって津軽地方を支配下においていた。南部氏は津軽地方の奪還を目指し、三千余の兵を送ったが為信のまえに惨敗を喫した。さらに、領内には反信直派の蠢動もあり、信直は津軽地方の動きに十分な対応をとることができなかった。その一方で、天正十六年(1588)七月、紫波郡高水寺城城主斯波詮元を没落させ同郡を収奪している。
奥州仕置
さて、天正十八年(1590)、秀吉は小田原北条氏討伐の軍を起こし、同年七月、北条氏は秀吉の軍門に下った。この小田原の陣は、関東・東北の諸大名のその後の運命を決する転機となった。すなわち、小田原陣へ参加した諸大名は本領の安堵を受け、葛西・大崎・和賀氏らの不参加大名たちは所領没収・城地追放の処分を受けたのである。
南部信直も小田原参陣の命を受けたが、領内では九戸政実の反抗、津軽地方の大浦為信の叛乱に手こずっていた。この窮地にあって信直は、叛意のある九戸政実の牽制を八戸政栄に委せ、八戸直栄を随伴し、兵一千を率いて小田原で秀吉に謁見した。信直はそのまま従軍し、秀吉は奥州平定の軍を進めた。大森で再度謁見した信直は、南部五郡(糠部、閇伊、岩手、鹿角、紫波)安堵の朱印状を受領した。信直の小田原参陣を可能にしたのは、八戸政栄が自らの参陣をあきらめて南部氏との嫡庶関係を確認し、八戸氏が三戸氏の「付庸」であることを認め、残留して領内体制の維持に努めたからである。
小田原開城後、秀吉は奥州仕置を行い奥州は新しい支配体制のもとに統一された。しかし、所領を奪われ、城地を逐われた旧大名・領主の家臣たちは激しい抵抗を示し、奥羽の各地に一揆が続発した。とくに陸奥では、「葛西・大崎一揆」が起こり、豊臣政権の代官であった木村吉清・浅野長吉らを窮地に追い込んだ。この状況をみた九戸政実は南部氏打倒を決意し、天正十九年(1591)正月の三戸への年賀も止め、信直への対決姿勢を明かにした。そして葛西・大崎の浪人を召し抱え、三月、櫛引清長、七戸家国、久慈直治、実弟実親らの勢力を結集して蜂起した。
九戸勢の勢いは強烈で、信直は三戸城に追い詰められ秀吉に救援を求めた。そして、中央より派遣された蒲生・浅野の奥州再仕置軍によって、ようやく九戸政実を誅伐することに成功したのである。
九戸勢の反乱を制した信直は、戸沢・雫石・川村・斯波・稗貫・和賀・阿曽沼氏らを討ち、岩手・志和・稗貫・和賀・閉伊の諸郡を支配し、中央政権への接近を深め、懸案の津軽奪還に燃えた。しかし、津軽為信はすでに秀吉政権下の大名として認められており、津軽氏と南部氏の軋轢を見かねた秀吉は同年九月、嫡子利直を伴って謁見を申し出た信直に和賀・稗貫の二郡を津軽の替地として下賜した。こうして、津軽地方は永遠に南部氏の手からこぼれ落ちてしまったのである。信直は中央政権と結び、時代の流れに逆らわず、津軽地方の奪還は果たせなかったものの近世盛岡藩十万石の基礎を築きあげた。
近世大名への道
信直は、文禄元年(1592)領内諸城を破却し、盛岡城築城の許可を得てこれに着工した。朝鮮出兵では名護屋、京都に出陣。伏見城御用材や軍馬の供用等の義務を果たしつつ、慶長四年(1599)十月福岡(九戸)で死去した。関ヶ原の戦いの前年のことであった。
信直のあとを継いだ利直は関ヶ原の戦いでは東軍に属し最上山形へ出兵したが、その留守中に領内和賀郡で旧領主和賀・稗貫の遺臣らが蜂起したため急遽帰国してこれらを討伐、さらに閉伊郡遠野でも旧領主阿曽沼広長が遠野奪還の兵を挙げたが、これも撃退して領内の静謐につとめた。これらの乱の背景には伊達政宗の策略があったとされている。
天正末期から慶長期にかけての南部氏の家臣団構成は九戸の乱や和賀・稗貫の乱に対処することもあり、また、新領国となった地域の旧領主層を組み入れた臨戦体制そのものであった。ちなみに、慶長初期の南部氏家臣団をみると千石以上の大身が二十九人を数え、連合政権的な色彩が強かった。乱の鎮圧後、利直は在地性の強い新参上級家臣を整理する方針をもってのぞみ、浄法寺・岩清水・大槌らの諸氏を処罰や追放の名目で整理、南部氏の一門・一族、譜代の家臣を中心とした体制をもって藩権力の集中化をはかっている。
そして、父信直の遺志をついで三戸より不来方(盛岡)に居を移して盛岡城を築き、大坂の陣にも徳川方として参陣、近世大名南部氏を確立したのである。・2005年09月04日
・写真:盛岡城址(撮影:吉住 裕氏=2007)
【参考資料:岩手県史/三戸町史/南部町誌/九戸村史/陸奥南部一族/青森県人名大事典 ほか】
■参考略系図
南部氏の系図は諸本が伝わっている。『尊卑分脈』、『続群書類従』、『寛永諸家系図伝』、『寛政重修諸家系譜』、『系図纂要』などが代表的なものであり、それ以外に『続群書類従』所収秋山系図、『笠系大成』、『南部家文書』所収源氏南部八戸家系、八戸伝記、『三翁昔語』などの南部氏に関する系図がある。そして、それぞれ微妙な違いを見せており、いずれが真実を伝えているかの判断は難しい。南部氏の系図に関する考証は、『南部町誌』が詳細に展開されている。
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