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戸次氏
●抱き杏葉
●秀郷流大友氏支族


 戸次氏は大友氏二代親秀の二男重秀を祖とし、数ある大友庶家のなかの名族である。重秀は検非違使をつとめ、左衛門少尉に任ぜられ、大分郡戸次荘市村に居住して戸次氏を称するようになった。
 平安末期以来、戸次荘には豊後大神系の戸次氏がいたが、惟澄の代に子がなく大友能直にその所領を譲ったという。一方、別説によれば惟澄は重秀を養子として、所領を譲ったとされる。いずれが正しいかの判断は難しいが、戸次氏が大神系から大友氏系に移り、重秀が大友氏系として初めて戸次氏を称したことは間違いないようだ。

■ 大神流戸次氏略系図

 大神惟基−臼杵惟盛−惟衝−惟家┬戸次惟澄=能直/重秀
                └惟康

勢力の拡大

 重秀が戸次荘に入った時期は明かではないが、文永十一年(1274)の蒙古襲来には、重秀も参戦している。このことから、兄で大友氏惣領頼泰と同じころ下向し、出陣したものであろう。蒙古合戦において戸次氏一族は武功をたて、戦後処理にもおおいに働いたことが知られる。
 弘安八年(1285)の「大田文案」によれば、大分郡戸次荘九十町の地頭職は、 戸次時親・重頼・頼親の三人で「各々分領兼て不分明」とあり、鎌倉時代中期の戸次荘には重秀の子らが蟠居していたことが分かる。戸次氏は九州における有力な御家人として、大分郡をはじめ国東郡・速見郡などに三百七十五町余りの地頭職を有し、豊後守護である大友宗家に匹敵する大領主となった。
 正安元年(1293)、幕府は鎮西御家人の訴訟沙汰などを処理させるため、鎮西評定衆、引付衆をおいた。大友貞親は三番引付頭人、戸次貞直は三番引付衆に補任された。さらに、嘉暦二年(1327)には、戸次貞直・重頼が、守護大友貞宗とともに鎮西評定衆に任ぜられた。また、貞直は執権北条貞時を烏帽子親して元服し、偏諱をあたえられて貞直を名乗ったものである。このように戸次氏は幕府に重んじられて要職をつとめ、その勢威は惣領家に匹敵するものがあった。
 元弘の乱(1333)に際しては、惣領家に従って鎮西探題を攻撃、官軍方として働いた。建武元年(1334)、建武の新政がなったが、翌二年、足利尊氏が鎌倉で新政府に叛旗を翻すと惣領家とともに尊氏に味方した。建武三年、尊氏が政府軍に敗れて九州に逃れてくると、尊氏に味方して多々良浜の合戦に参戦して菊池氏ら九州宮方と戦った。戦いは味方の死傷百余人を数える激戦となったが、敵の首級五十余を挙げ、尊氏の勝利に貢献した。同年玖珠城の戦いには頼時が活躍し、霊山寺の戦にはその伯父大神朝直が、それぞれ尊氏方として戦っている。

南北朝の争乱

 やがて、西上した尊氏が京都を制圧すると後醍醐天皇は吉野に走られ、尊氏は北朝を立てて足利幕府を開いた。こうして、南北朝の争乱が始まり、一族が南北に分かれて互いに抗争するという事象が全国に巻き起こった。鎌倉期以来の惣領制の崩壊であり、庶子家は惣領家から離れて自己の勢力拡大を企図し、それぞれが思い思いに南北朝のいずれかに加担した。  それは大友氏も例外ではなく、正平三年(1348)大友宗家庶子の氏宗が惣領に背いて南朝に転じると、戸次頼時・大神朝直らはこれに従った。結果として、戸次氏は所領を没収され勢力を失うことになった。
 その後、文和二年(1353)に至って、戸次頼時・大神朝直ともに幕府方に降参し所領の返還を得た。以後、戸次氏は大友宗家とともに幕府方として活躍した。
 九州の南北朝の争乱は、征西宮懐良親王が下向し、菊池氏の支援を得て勢力を拡大していった。文和二年(1353)、筑前針摺原で九州探題一色氏を中心とする武家方と、征西宮を擁する菊池氏らの宮方との間で決戦が行われ、探題方の敗北となった。ついで正平十四年、菊池氏は大保原の戦いで少弐氏に潰滅的打撃を与え、さらに貞治元年(1362)、長者原の戦いにおいて九州探題斯波氏経が菊池氏に敗れた。この間、大友氏は武家方に属して、一連の戦いに出陣したが、ことごとく敗戦の憂き目を味わった。
 やがて、今川了俊が九州探題に補任されて下向してくると、次第に武家方の優位へと事態は動いていった。了俊は九州探題として、有力国人に忠勤を説き、恩賞を給与し、かれらを傘下におさめていった。それは戸次氏にも及び、戸次氏は田原氏・吉弘氏らとともに幕府奉公衆に推薦を受けた。しかし、戸次氏が幕府奉公衆に推薦されたことは、守護領国制を築き上げようとする大友宗家の思惑と対立することになった。
 了俊の活躍によって、九州南朝方はことごとく征圧され、明徳二年(1392)、南北朝の合一がなった。それから間もなく、直世は将軍義満の勘気を受け蟄居を命じられたとも、「直勤を止」められたともいう。そして、奉公衆も解任されたようだ。さらに、大友氏によって勢力を削られ、ついには本貫戸次庄も失った。かくして、直世の子親載の代になると、本拠地を豊後国大野郡藤北名の鎧嶽城に移すに至った。以後、戸次氏の動向は不明となる。
 伝えられる系図などを見ると、直世の子の代よりのち、家督の順位がまことに複雑で、系図も混乱を見せている。このことは、本貫戸次庄を失った戸次氏の苦闘のあとを物語るものであろう。

勇将、戸次鑑連の登場

 親宣のころ数流に分かれたようだが、親宣の孫鑑連の登場によって一気に勢力を回復した。鑑連は大永六年(1526)、十四歳で戸次氏の家督を相続した。天文十九年(1550)、「二階崩れの変」が起こり、大友義鑑が横死した。このとき、不穏な動きを見せた入田親誠を義鎮の命で討伐した。
 翌二十年、長年にわたて豊前・筑前をめぐって大友氏と対立してきた大内氏の当主義隆が、重臣陶隆房(晴賢)の謀叛で殺害された。隆房は義鎮の弟晴英(義長)を大内に迎え、大内家の当主にすえ実権を掌握した。ところが、弘治元年(1555)、厳島の合戦において毛利元就に敗れて戦死、同三年には大内義長も討たれて毛利元就が中国地方の大勢力となった。
 大内氏の版図を掌握した元就は、豊前・筑前への進出を企図するようになった。弘治三年(1557)七月、毛利氏の動きに古処山城の秋月文種、肥前勝尾城の筑紫惟門らが呼応して、大友氏に反旗を翻した。義鎮から討伐の命を受けた戸次鑑連は、臼杵鑑速・高橋鑑種・志賀親度らとともに出陣し、古処山城、勝尾城を攻め落した。文種は討死し、惟門は文種の遺児らとともに毛利氏を頼って九州から逃れ去った。
 そのようななかの永禄四年(1561)、鑑連は戸次氏としてはじめて加判衆に就任した。そして、翌永禄五年(1562)には、毛利氏と戦った門司関の攻防で指揮官の一人となり、豊前苅田、松山城、柳ヶ浦と転戦し毛利の兵を破り、宗麟より戦功を賞せられた。ところが、翌年に同陣者の五條鎮定等の給地坪付に裏判を加えた、つまり仮の知行安堵を行ったことで、宗麟より諸士の坪付の裏判を止めるようにと叱責されている。この事件は、戦国大名として権限の集約化をはかる大名と、前線で陣頭指揮をとる武将との立場と思惑の違いを示すものである。とはいえ、鑑連の越権行為であったことは否定できない。
 永禄九年(1566)、筑前岩屋・宝満山城の城督高橋鑑種が毛利氏に通じ、大友氏に反抗を繰り返す秋月種実、筑紫惟門らに呼応して、大友氏から離反した。鑑種謀叛の背景には、義鎮が鑑種の兄弾正の妻に化想したばかりか弾正を殺害したことにあるといわれている。たしかに、義鎮には無道な振る舞いがあり、鑑連も再三にわたって諌言を行ったことが知られる。
 翌年、秋月種実、高橋鑑種等の鎮圧の為筑前に派遣された鑑連は、七月に高橋鑑種の属城筑前岩屋城を攻め落とした。ついで古処山城の攻略に向かったが、毛利の大軍が出撃してきたとの噂がひろがったため、長野・麻生・城井の諸将が陣をはらって引き上げてしまった。大友軍も一旦兵を引くことになり、戸次軍は赤司村まで引き上げた。大友軍の撤退をみた種実は大友軍に夜襲をかけ、大友軍は散々な敗北を喫した。この戦いは「休松の合戦」と呼ばれ、鑑連は四人の弟を一度に失った。

鑑連、立花氏を継ぐ

 休松の敗戦は大友氏にとって、局地的な敗北に過ぎなかったが、毛利寄りの諸将の離反をよんだ。さらに、翌十一年(1568)には「西の大友」と称された立花城の立花鑑載が大友宗家に反旗を翻したのである。立花城は筑前経営における要地であり、大友軍は鑑連をはじめ吉弘・臼杵ら二万三千が筑前糟屋郡に攻め入り、同年七月に立花城を攻略し、鑑載を討った。しかし、翌十二年、立花城は大友氏が肥前の龍造寺隆信を討伐している隙に毛利勢に包囲され、立花城の城兵は毛利に降伏した。
 この後、立花城をめぐって大友軍と毛利軍は睨み合い、五月には多々良浜に於いて両軍が激突した。大友方は毛利軍の勢いにおされ、敗軍の様相をみせはじめた。この時、鑑連は長尾に布陣する小早川勢が手薄なことを見てとり、みずから太刀を揮って敵陣を強襲して戦況を挽回、大友軍を勝利に導いた。
 宗麟は情勢を打開するため、吉岡宗歓の策を入れて大内輝弘に毛利本国の留守を衝かせ、さらに尼子の遺臣山中鹿介らを支援して背後から毛利を攻めさせた。この事態に毛利軍は筑前からの撤退を余儀なくされ、取り残された秋月種實、高橋鑑種、原田了榮、宗像氏貞、麻生隆実等は、力およばずつぎつぎと大友氏に降った。そして、立花城も再び大友氏の支配下に属したのである。
 元亀二年(1571)、鑑連は大友宗麟の命で立花城督に任ぜられ、立花氏の名跡を継いだ。翌年正月に立花城に入城、以後、大友氏の筑前統治の柱石となった。天正二年(1574)入道して道雪を称した。
 天正六年(1578)十一月、大友氏が「耳川の合戦」で島津軍に大敗すると、翌月には龍造寺隆信が筑後より筑前に侵攻してきた。道雪は龍造寺氏の軍勢は防いだが、秋月・筑紫・高橋鑑種等の筑前国人が龍造寺氏に応じて再び反乱を起こした。以後、道雪は盟友高橋紹運とともに筑前の反乱鎮圧のため東奔西走し、落日の大友氏を支え続けた。天正八年には、耳川敗戦後の豊後のていたらくを憂い、九ヶ条にわたる檄文を南部衆に送り奮起をうながしている。
 道雪は男子がなかったため、宗麟から甥(養子ともいう)鎮連の子を養子に迎えるように勧められたが、一人娘の閠千代に家督を譲った。天正九年(1581)、高橋紹運の息統虎を娘の婿に迎えて養嗣子とした。この統虎こそ、のちの立花宗茂である。

戦国時代の終焉

 天正十二年(1584)、肥前沖田畷において龍造寺隆信が島津・有馬連合軍に討ち取られた。これをみた道雪は、龍造寺氏に占領されていた筑後の回復をめざし、豊後本国と共同作戦をとり筑前より出陣した。そして、筑後山下城の蒲池鎮運らを降し、ついで要衝猫尾城を攻め落として黒木家永を自害させた。十月には、軍を高良山に移し、草野、妙見、井上等を攻撃した。しかし、柳河城の龍造寺家晴等の抵抗に苦しめられ、また豊後本国の軍勢の士気の低さに戦意は思うように上がらなかったようだ。
 その後、長陣による疲労からか病を得た道雪は、天正十三年(1585)九月十一日、御井郡北野の陣中で歿した。享年七十三歳。道雪の死により、大友氏の筑後奪回作戦は頓挫したのであった。鑑連は大友氏随一の将として戦場を往来したが、家督を相続したころに落雷を受け、足なえとなり軍隊の指揮は輿の上から行っていたという。
 鑑連が立花城へ移ったのち、甥鎮連が藤北城を守った。しかし、天正十四年、鎮連は島津軍が豊後に進出してくると、島津軍に内応してのちに自害したという。鎮連の嫡男統常は、父鎮連が島津方に内応したことを恥じ、その汚名を晴らすべく、大友方に属して戸次川の合戦に出陣した。手勢百余人を率いた統常は、島津の第二陣新納隊と戦い、ついに壮絶な死をとげて主家への節義を貫いた。統常は立花道雪の孫にあたり、墓は大野郡大野町藤北の常忠寺にあり、法号は「常忠寺殿節宗義円大居士」である。
 他の戸次氏も主家大友氏没落と運命をともにして没落したが、戸次氏の血脈は柳河藩主となった立花氏のなかに残されたともいえよう。・2005年03月19日

参考資料:大分県大野町史/九州戦国史/大分歴史事典 ほか】

●大友氏の家紋─考察 ●立花氏のページへ。


■参考略系図
・群書類従系図部集所収戸次氏系図/系図研究の基礎知識所収大友氏系図などから作成。

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