武将の肖像 2(伝記)

波多野秀治/大内義興/立花宗茂/竹中重治/吉川元春

葦名盛氏/尼子晴久/伊達政宗/片倉景綱
   
今月の武将

武将の肖像 波多野秀治
●天文十年(1541)〜天正七年(1579)
●波多野元秀(晴通)の嫡男に生まれたというが、晴通の子に生まれ一族の元秀の養子になったともいう。波多野氏は管領細川京兆家に仕えて頭角をあらわし、八上城を本拠として丹波に勢力を拡大していった。秀治は三好長慶に属したが、のちに対立、播磨の別所氏らと姻戚関係を結んで丹波の戦国大名となった。永禄十年(1568)、足利義昭を奉じた織田信長が上洛すると信長に誼を通じた。のちに義昭と信長が対立するようになると離反、信長の丹波攻めに抵抗したが敗れて滅亡した。
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武将の肖像 大内義興
●文明九年(1477)〜享禄元年(1529)
●父は応仁の乱に西軍の勇将として奮戦した大内政弘。北九州の大友氏、少弐氏らと抗争して、九州にも所領を拡大した。明応の政変で細川政元に将軍の座を追われた足利義稙を庇護して山口に扶養した。のちに政元が暗殺されて細川氏に内訌が起きると、細川高国と結び義稙を奉じて上洛、管領代として京畿に威勢を振るった。ところが留守の間に尼子氏らが台頭、さらに高国とも不和が生じたため義興は山口に帰国した。以後、領国の引き締めに奔走したが、享禄元年、病をえて死去した。
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武将の肖像 立花宗茂
●永禄十年(1567)〜寛永十九年(1643)
●大友家の重鎮高橋紹運の嫡男として生まれた。子供のころから豪胆な性格で、それを見込んだ立花道雪から婿養子に望まれ立花家を継承した。当時、大友氏は衰退の色を深めつつあり、実父紹運と養父道雪は大友氏の両輪として活躍、天正九年、宗茂は秋月氏との戦いに初陣を飾った。以後、島津氏との戦い、肥後国人一揆の制圧戦、朝鮮への渡海、そして関が原の合戦と、戦雲の中を生き数々の武勲を飾った。関が原の合戦後、浪人となったが、家康から器量を惜しまれて大名に復活した。
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武将の肖像 竹中重治
●天文十三年(1544)〜天正七年(1579)
●半兵衛の通称で有名。播磨の黒田官兵衛と信長の部将当時の羽柴秀吉を支え、名軍師と称された。そもそもは、美濃斎藤家の家臣で不破郡岩手城主竹中重元の子として生まれた。はじめ、斎藤義龍に仕え、ついで龍興に仕えた。織田勢との戦いに活躍したが、凡庸の龍興に遠ざけられたため、奇計をもって稲葉山城を奪取するという離れ業を演じた。その後、斎藤家を去って隠棲したが、木下藤吉郎の乞いをいれてその家臣となった。浅井攻め、中国征伐に活躍したが、播磨三木城攻めの最中に病没した。
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武将の肖像 吉川元春
●享禄三年(1530)〜天正十四年(1586)
●毛利元就の次男として、安芸吉田郡山に生まれた。天文十六年(1547)、吉川興経の養子となり、三年後に家督を継承した。元就は元春の相続のとき、興経と実子千法師を殺害しており、実質は毛利氏による吉川氏の乗っ取りであった。吉川氏の当主となった元春は、熊谷氏の娘を室に迎え、弟で小早川家を継いだ隆景と並んで「毛利の両川」と呼ばれた。本能寺の変後、毛利氏は秀吉に協力したが、元春は秀吉を嫌って隠居したという。天正十四年、秀吉からの強い要請を受け九州征伐に出陣、小倉城において客死した。若い輝元が毛利氏を継ぐと、隆景とともによく補佐し、山陰方面の政治・軍事を担当した。
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武将の肖像 葦名盛氏
●大永元年(1521)〜天正八年(1580)
●葦名氏中興の祖というべき十五代盛舜の嫡男に生まれた。盛氏は家督を継承すると、一門の猪苗代氏、越後の長尾為景と結ぶ山内氏、さらに長沼氏らと抗争、会津地方の制服を進めた。伊達氏に家督をめぐる「天文の乱」が起こると、一方の晴宗に味方して活躍した。以後、二本松の畠山氏、須川の二階堂氏、三春の田村氏など近隣の諸勢力を斬り従え、葦名氏の全盛時代を築いた。嫡男盛興が早世したため、二階堂盛隆に跡をつがせ政務をみたが、天正八年、黒川城で病没した。
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武将の肖像 尼子晴久
●永正十一年(1514)〜永禄三年(1561)
●出雲の戦国大名尼子経久の孫に生まれたが、父政久が早くに戦死したため経久の嫡男として育った。家督を継いだころ尼子氏は、大内氏と並び立つ一方の雄であった。ところが一族の重鎮新宮党の粛清、備後山内一族との疎遠、さらに郡山城主毛利氏が大内方に離反するなど不手際が目立った。とはいえ、石見銀山をめぐる戦い、播磨への進攻など失地回復につとめた。その後、陶氏を倒した毛利元就が台頭してくると、次第に頽勢に追い込まれていった。多難ななかの永禄三年、月山冨田城内で急死した。
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武将の肖像 伊達政宗
●永禄十年(1567)〜寛永十三年(1636)
●奥州の戦国大名伊達輝宗と最上義光の妹義姫との間に生まれた。幼少のころ疱瘡に罹り右目を失ったため、引込み思案な子供であったという。父が招いた虎哉禅師の厳しい薫陶、側近の片倉景綱などの尽力により、武将としての素養を身につけていった。天正九年(1581)、十五歳のとき相馬氏との戦いに初陣を飾った。そして天正十二年に、父輝宗の譲りを受けて家督を継承した。以後、奥州戦国時代の風雲児となり、近隣諸勢力を平らげ、押しも押されもせぬ奥州一の大大名となった。
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武将の肖像 片倉景綱
●弘治三年(1557)〜元和元年(1615)
●米沢の成島八幡神社の神職片倉景長の次男に生まれ、小十郎と通称された。伊達輝宗に小姓として仕え、のちに政宗の近侍となった。以後、政宗の側近として文武に活躍、家中では「武」の伊達成実、「智」の片倉景綱と並び称された。小田原の陣が起こると、徹底抗戦を唱える成実らを抑えて政宗に参陣をなさしめた。景綱の才能を高く評価した秀吉は、奥州仕置のとき直臣に迎え三春五万石に取り立てようとした。しかし、景綱はこれをきっぱりと断り、政宗への忠節を貫いた。
武家肖像伝 武家の肖像

【武家肖像】