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益田氏
●九枚笹/上り藤に久の字
●藤原氏道兼流御神本氏
九枚笹は男爵益田氏の家紋、戦国時代は「上り藤に久の字」を用いていたものと思われる。また、益田氏の旗紋は「久文字」と称された。


 益田氏は石見の大族として知られる御神本氏の一族で、関白忠平の九代の孫国兼(一説に定通)を祖とするといわれる。平安時代後期の永久二年(1114)、国兼は石見国司に補任されて石見国に下向した。ところが、国兼は任が終わったあとも都に帰らず、石見国上府にに住して御神本を名乗るようになった。いまも、国兼が庇護を与えたという石見安国寺には、国兼、兼実、兼栄三代の墓と伝える古墳が残っている。
 とはいえ、「萩藩諸家系譜」の益田氏系図では、藤原氏でも真夏流の式部大輔実綱の孫が国兼となっている。また、一本周布系図では、柿本人麻呂の後裔と伝えている。いずれが、正しいのかは知るべくもないが、益田氏が石見国衙の有力者として藤原姓を称していたことは紛れもないことである。
 源平の争乱に当たり、御神本兼栄・兼高父子は西国では数少ない源氏方として各地に戦い、一の谷の合戦・壇ノ浦の戦いで勲功をあげた。これにより、石見国のうち、久富名・木束郷・益田庄・温泉郷・飯田郷など鹿足郡を除く全域を所領として与えられた。

石見に勢力を拡張

 そもそも、兼栄・兼高は石見国内の武士団の中で、最も強大な勢力を持ち、兼高は石見国押領使に任じられており、在庁官人として石見国内に力を貯えていた。そして、西国では数少ない源氏方として活躍したことで、一気に勢力を拡大する端緒をつかんだのである。御神本氏が益田氏を名乗るのようになったのは兼高の代からで、所領内の益田に本拠を定めたことにちなむという。益田は石見国の交通の要衝であり湊にも適したところで、兼高は七尾山上に城を築き、さらに発展を遂げていくことになった。
 兼高が益田に移ったのは建久三年(1192)のことで、兼高の次男兼信は三隅荘を領して三隅氏を名乗り、三男兼広は跡市郷福屋を分封されて福屋氏を名乗りそれぞれ地頭職となった。益田氏の嫡流は長男の兼季が受け継ぎ、兼季は兼定・兼道・兼忠・兼政らを分封して、周布・末元・丸茂・多根氏が生まれた。このように、益田氏一族は石見の各地に広がり、一大勢力を形成したのである。
 弘安の役に際して、ときの惣領兼時は庶子家の三隅・福屋氏らを指揮して、沿岸の要地に砦を築かせ、みずからも七尾城の修築を行った。そして、兼時は石見守護の職にあったとも伝えられている。
 兼時の嫡男は兼長だが、早世したため家督を継がなかったとする説がなされている。そして、男子がなかった兼長のあとは、娘のつるさやが嫁いだ山道郷の益田兼弼が家督を継承したという。兼時から兼弼に至る間の益田氏系図が混乱を見せていることから、兼長の代において、一族の間で惣領職をめぐる争いがあったものと思われる。
 ところで、益田氏一族はこぞって家紋に「久」の字を用いるが、これは兼高が益田に移った年を記念したものであるという。

■益田一族の家紋
益田氏の下り藤に久文字
三隅氏の庵に久文字
福屋氏の一文字に久文字
周布氏の亀甲に久文字


南北朝の動乱

 鎌倉時代の半ば過ぎから、三隅・福屋・周布氏らの庶子家がさらに庶子家を分出し、それぞれ惣領制を展開して次第に独立した動きを見せるようになった。南北朝時代になると、益田惣領家は足利尊氏方に、三隅氏・福屋氏・周布氏らの庶子家は後醍醐天皇方となり、一族が互いに相争うようになった。
 益田惣領家は兼見(かねみ・かねはる)の代で、南北朝時代の一特長である惣領制の崩壊に益田氏も直面したのであった。ちなみに、兼見は山道庶子家の生まれで、一門のなかで最も知勇兼備の武将であったことから益田惣領家を継いだのだという。
 建武の新政が崩壊すると兼見は足利尊氏に味方して、興国元年(1340)、石見守護の上野頼兼と力を合わせて豊田城を攻略した。ついで、高津・穂積城を陥落させ、続けて福屋氏の福屋城を攻略、さらに小石見城を攻めるなど石見における武家方として活躍した。
 ところが、足利尊氏と弟の直義が対立して観応の擾乱(1350)が起ると、兼見は直義方に加担し、中国探題職にあった直冬に属した。以後、兼見は大内弘世らと足利直冬に属して転戦していたが、直冬の勢力が衰退し大内弘世が北朝方に転じると、兼見もそれにならった。以来、大内氏の麾下に属して石見の豪族たちの指導的立場を確立していったのである。兼見は永和四年(1378)に家督を嫡男の兼世に譲り、明徳二年(1391)に死去したが、その一生は南北朝の争乱期そのものであった。
 大内弘世のあとを継いだ義弘は、周防・長門をはじめとして石見・豊前、さらに和泉と紀伊の守護を兼ね、さらに中国貿易などによって富を築き大内氏の勢力を拡大した。しかし、義弘の勢力拡大を危惧した将軍足利義満は、義弘を圧迫するようになった。これに対して義弘は鎌倉公方足利満兼と結んで応永の乱を引き起こし、泉州堺において幕府軍と戦い討死した。この間、兼世は義弘に属して活躍、泉州堺では苦戦に陥り、部将大谷兼光らの将兵を失った。
 義弘が戦死したのち子の持世は幕府に降伏したが、義弘の長弟盛見は幕府への抵抗を続け、次弟弘茂は幕府から盛見追討の命を受け山口を攻撃した。このとき、兼世も幕府の命を受けて弘茂に味方して山口を攻め、敗れた盛見は豊後に逃れた。兼世は吉見氏らとともに盛見をさらに攻めたが、結局、勢いを盛り返した盛見の優勢となり、幕府も盛見の実力を認めざるをえず、大内氏の家督は盛見が継承するに至った。以後、益田氏は盛見に従うようになった。

打ち続く争乱

 永享三年(1431)、大内盛見は少弐氏と結んで筑前に進出を企てる大友氏を討つため筑前に出陣、この陣に兼世の孫兼理も加わった。盛見は終始優勢に戦いを展開し、立花城を攻略すると、さらに筑前の西部に進攻した。ところが、筑前深江において少弐氏の反撃にあい、まさかの敗戦をこうむり盛見は戦死してしまった。このとき、兼理と嫡男の常兼も盛見とともに戦死をとげてしまった。兼理・常兼の死によって兼堯が幼少で家督を継承した。
 永享十年(1438)、和泉・大和の合戦に参加して活躍した兼堯は、将軍足利義教から「屋形号」を許された。嘉吉元年(1441)、義教が赤松満祐に暗殺された嘉吉の乱が起ると、兼堯は幕府の命を受けて赤松方の美作高尾城を攻略した。宝徳三年(1451)には、幕府に敵対した河野通春を吉川経信と共に征伐し、享徳四年(1455)には肥後で起こった一揆鎮圧に出陣している。さらに、寛正二年(1461)、河内に出陣して毛利豊元・吉川基経らと畠山義就を攻撃、翌々年にも畠山政長・毛利豊元らと畠山義就を攻め、ついに義就の攻略に成功している。
 このように、兼堯は諸所の合戦に出陣して、「益田歴代の兵」と謳われた。しかし武辺一辺倒な人物ではなく、益田の医光寺へ雪舟を招待するなど文化への深い理解者でもあった。国宝になっている雪舟作「益田兼堯像」は、厚遇してくれた兼堯に対するお礼として雪舟が描いたものと伝えられている。
 畠山氏の内訌をはじめ、斯波氏の内訌、将軍の継嗣争いなどが連続し、幕府の権威は次第に失墜していった。そのようななかで幕府管領細川勝元と幕府の有力者山名持豊(宗全)の対立が激化、ついに応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発した。応仁の乱当時の、石見守護は山名政清であり、石見の武士のほとんどは西軍山名宗全の陣に加わった。
 このとき兼堯は宗全に加担する大内政弘のもとに嫡子貞兼を送りながら、一方では東軍細川方に家臣を遣わすなど複雑な動きを見せた。兼堯は乱に対して曖昧な立場を貫こうとしたようだ。

戦国時代への序奏

 兼堯の嫡子貞兼は早くから父とともに戦場を疾駆し、寛正二年の河内の陣にも出陣した。応仁の乱に際しては、大内政弘に従って西軍に属し備中下津井、摂津有馬本庄山などで奮戦、さらに武庫郡越清水、難波氷室などを転戦して足利義視から太刀と鎧を賜っている。
 文明二年(1470)、大内政弘の伯父大内教幸(道頓)が東軍に通じて乱を起すと、貞兼は政弘の命で帰国し父兼堯とともに妹婿でもある陶弘護を支援して、乱の征圧に大功を立てた。教幸方には吉見信頼をはじめ、三隅・周布氏らの石見国人のほとんどが加担していたが、貞兼は吉見氏らと戦い、ついに道頓を九州に奔らせた。乱後、吉見氏の領地だった高津・須子・角井・安富・豊田・市原の所領を奪って、益田家の領地を大幅に拡大した。しかし、吉見氏との間に生じた抗争は、戦国末期まで断続的に繰り返された。
 益田氏は兼堯・貞兼の二代で、勢力を大いに広げ、石見の戦国大名へと成長していったのである。文明十一年(1479)正月、貞兼は伊勢貞宗の館で将軍足利義尚とともに接待を受けるという栄誉に浴している。貞兼は大永六年(1526)に死去したが、益田氏歴代のなかでもっとも軍功を称えられた戦国武将であった。
 貞兼のあとは宗兼が継ぎ、宗兼は大内義興・義隆の二代に仕えた。永正四年(1507)、大内義興が前将軍足利義尹(義植・義材)を奉じて上洛軍を起すと、宗兼は嫡男の尹兼とともにこれに従った。以後、十一年間にわたって京都に滞在し義興を援けて活躍した。
 義尹を将軍職に復活させた義興は管領代に任じられ、宗兼は義興の権勢を背景として、永正七年、在京衆として大外様十二人の一人にあげられた。翌年の船岡山の合戦には、小笠原・吉見氏らとともに大内軍の中核を担って奮戦、細川澄元を撃退した。宗兼の軍功に対して将軍義尹は、宗兼の嫡男又次郎に「尹」の字を与えて尹兼と名乗らせた。
 以後、益田氏は大内に属しながら、幕府への接近をみせた。これは、応仁の乱後の幕府権力の衰えとともに国人勢力、有力農民らが台頭してきた。それは石見も例外ではなく、益田氏は幕府権力を背景として国人衆征圧に対処しようとしたものであろう。しかし、幕府の凋落は著しく、世は確実に戦国動乱の時代へと推移していった。

乱世を生きる

 宗兼の嫡男尹兼は大内氏の重臣陶興房の嫡男隆房と兄弟契約を結び、非凡な器量の持ち主であったようだ。父宗兼に先立って帰国した尹兼は、益田七尾城を固めて、三隅興信らの侵攻を退けている。  一方、大内義興が京に滞在している隙を狙って、出雲の尼子氏、安芸の武田氏らが勢力拡大を目指し、活発な軍事活動を展開するようになった。領国の動揺に危惧を抱いた義興は、永正十五年(1518)、管領職を辞すると山口に帰国した。領国体制の引き締めに着手した義興は、石見・安芸への進出を繰り返す尼子経久と各所で戦った。
 尼子経久の大内領進出に対して、尹兼は永正十五年(1518)、大永六年(1526)に大内方として対戦、ついで、大永七年には毛利元就と共に尼子方の安芸鳥子城を攻略した。以後、尼子氏と大内氏との抗争が続き、天文八年(1539)、尼子晴久が石見へ侵略してくると、尹兼はこれを撃退した。翌年、尼子晴久は周布井野村へ侵攻、尹兼は周布武兼・三隅隆兼らと連合して快勝し、尼子軍を追い払った。
 天文十一年(1542)、大内義隆が月山富田城攻めの陣を起すと、益田氏ら石見の国人衆も大内氏に属して出雲に侵攻した。このとき、尹兼・藤兼父子をはじめとして、吉見正頼、福屋正兼、周布武兼、佐波興兼、本城常光、吉川経安らが大内氏に味方した。しかし、戦いは吉川興経らの裏切りもあって大内方の敗北となり、ふたたび尼子氏が勢力を振るうようになった。
 尹兼は嫡男藤兼の資質を見抜いて、家督を相続しなかったという。とはいえ、実質的には益田氏の家督として、戦乱のなかで益田氏の武名を落すことはなかった。
 尹兼のあとを継いだ藤兼は、将軍義藤から一字を拝領して藤兼を名乗ったものである。父とともに月山富田城攻めに出陣したときは十五歳の若武者であった。このときの屈辱的な敗戦は、本来の資質に加えて藤兼の武将としての成長に大きく寄与したようだ。一方、このときの敗戦によって大内義隆は武事を嫌い、文弱に流れるようになった。そして、大内氏の家中は陶隆房を中心とする武断派と相良武任らの文治派とに分裂、たがいに争うようになった。
 このころの藤兼は津和野三本松城吉見正頼と抗争関係にあり、合戦におよぶこともあった。その一方で、一族の周布氏、三隅氏らを傘下におさめ、着々と勢力の拡大につとめていた。

毛利氏に属す

 やがて、陶隆房は大内義隆への謀叛を計画するようになり、藤兼にも謀叛のことを知らせていたようだ。益田氏は兼堯のころから、陶氏とは姻戚関係もあって、親しくつきあってきた。山口の情勢に接した藤兼は、隆房への加担を決めた。隆房は大友義鎮の弟晴英を大内氏の当主に迎えるなどの手立てを講じると、天文二十年(1551)、兵を挙げ義隆を殺害した。
藤兼の肖像  隆房の挙兵を聞いた藤兼は吉見氏攻撃の軍を起し、三本松城に迫ったが吉見氏に撃退された。このとき、藤兼は吉見氏一族下瀬氏の拠る下瀬城を攻撃したが、こちらも下瀬氏の逆襲にあって敗退した。
 一方、陶隆房は大内晴英を大内氏の当主に据え、晴英は義長と改め、一応新たな政治体制が発足したが、その実権は陶晴賢(隆房改め)が掌握していた。益田藤兼はその外交手腕を認められ、大内義長のもとで様々な外交の任にあたった。藤兼の宿敵吉見正頼は、大内義隆の義兄であったことと、陶・益田氏に対する宿年の因縁関係もあって、陶=義長体制を認めなかった。そして、軍備を整えた正頼は、天文二十二年、陶討伐を宣言して敢然と兵を挙げた。
 ところで、陶隆房は謀叛に際して毛利元就にも協力を依頼しており、元就も消極的ながら隆房を支援する態度であった。それもあって、吉見正頼が支援を求めてきたときも元就は、何の行動も起さなかった。しかし、晴賢と元就の間に不協和音が生じるようになり、ついには武力抗争へと発展すると、元就は三本松城に家臣を援兵として送った。そして、弘治元年(1555)、厳島において元就と晴賢が激突、毛利軍に敗れた陶晴賢は自害してしまった。陶晴賢の敗死は益田藤兼に最大の危機をもたらした。
 吉見正頼は毛利元就の傘下におさまり、毛利軍は吉見氏と敵対している益田氏を攻撃してくることは明白である。この事態に藤兼は、七尾城を改修したり支城を築城したりして、徹底交戦の構えを見せた。さらに、出雲の尼子氏の救援を頼もうとしたが、吉川元春によって益田氏の支族・永安氏・福屋氏らはたちまち征圧され、尼子氏と連携がとれないまま藤兼は、吉川軍の攻勢を迎え撃つことになったのである。
 圧倒的な強さを誇る吉川元春の軍の前に、領民の間にも動揺が見え、益田藤兼率いる益田軍も戦意を消失気味であった。そこへ、宍戸隆家から降伏の勧めがあり、益田の本貫地は残すという条件をいれて吉川元春に降伏した。その後は、吉川元春に属して東石見の豪族を攻めたり、北九州に渡って大友軍と対戦するなど各地を転戦した。そして、吉川元春の娘を嫡男元祥(もとよし)の室に迎え、さらに得意の外交手腕をもって毛利氏からの信頼をかち取っていったのである。
・藤兼の肖像

戦国時代の終焉

 藤兼のあとを継いだ元祥は岳父吉川元春に従って、中国地方に勢力を伸ばしてくる織田信長勢力と戦うため、因幡・備中方面で活躍した。天正六年(1578)には、尼子勝久を上月城に攻めた。織田軍の中国方面司令官は羽柴秀吉で、毛利氏は羽柴軍と各地で激戦を展開した。その間、毛利氏の傘下にあった南条氏・宇喜多氏らが織田方に転じるなど、毛利氏は押され気味であった。そのような天正十年(1582)六月、本能寺の変が起り織田信長が殺害された。
 このとき、毛利氏と羽柴秀吉とは備中の高松城において対峙していた。有名な高松城の水攻めの最中で、本能寺の変報を聞いた秀吉は毛利氏と和議を結ぶと、これも有名な中国大返しをもって軍を播磨に返した。そして、山崎の合戦で明智光秀を倒すと、一気に天下人の階段を駆け上っていった。秀吉が兵を返した時、吉川元春は追撃を主張したが、小早川隆景の意見によって退けられ、結局、毛利氏は秀吉の傘下に属することになった。
 その後、天下人となった豊臣秀吉が九州征伐を起すと、毛利軍にも出陣の命令が下り、小早川隆景、吉川元春にも出陣命令が下った。吉川元春は乗り気でないまま出陣し、九州において病死した。つづいて、嫡男の広家までが陣没して、吉川氏は広家が家督を継承した。元祥は広家を援けて、吉川家の外交将として働いた。
 文禄の朝鮮の役には吉川広家に従って出陣、有名な碧蹄館の戦いにも参加して明軍を撃破する功をあげた。ついで、慶長の役にも渡海し、蔚山城の戦いにおいて広家とともに五千の手勢をもって、四万の朝鮮軍に突入して快勝をあげた。しかし、安国寺恵瓊から軍令違反を指摘され、吉川広家と安国寺恵瓊との間に不穏な空気が流れた。これが、のちの関ケ原の合戦に際して吉川広家と安国寺恵瓊とが決裂した遠因になったとする説もある。
 慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いが起ると、毛利輝元は西軍の総帥にまつりあげられた。吉川広家と安国寺恵瓊もそれぞれ西軍に属したが、吉川広家は徳川家康に通じて、毛利氏存続に心を砕き、関ヶ原の決戦では毛利軍の中立を保った。ところが、戦後、家康は毛利氏の所領を没収し、広家に周防・長門の二国を宛行うと発表した。驚いた広家は周防・長門を毛利氏に与えられるように懇願して、みずからは岩国領を支配することになった。

益田氏、近世に続く

 かねてより益田元祥に着目していた徳川家康は、元祥に内密に通達することがあるといい、大久保長安を仲介として使者を送った。すなわち周防・長門の二国の身上となった毛利氏には、多くの家臣は必要ないとして、毛利氏には元祥の子景祥を留めておき、元祥自身は石見にあって徳川家に奉公すべし、というものであった。さらに、知行は元のまま石見益田を宛行うがどうか、という願ってもない通達であった。
 これに対して元祥は、益田家は毛利家の譜代の臣でもなく、先祖代々石見に住しており、そのまま石見に残って奉公を申し上げたいが、毛利氏に対する恩義もありこれを果たしたい気持ちでいます。と家康の好意を有り難く辞退したのである。家康は重ねて元祥を招いたが、元祥の気持ちは変わらなかった。かくして、元祥は毛利氏の一家老として、これまでの十分の一にあたる長門国須佐の知行地へと移っていたのである。
 のちに、この話しを聞いた輝元は感激のあまり感状を送り、千石の地を与える旨を披露した。この潔い進退をもって、益田元祥は千歳にその名を刻んだといえよう。
 その後、毛利氏の家老となった元祥は、萩城の普請に尽力し、その一方で財政窮乏に陥った毛利氏の財政立て直しの任にあたった。中国の大大名から一転して防長二国の大名となった毛利藩が、雄藩として盛り返す基礎を作ったのは、ひとえに元祥の活躍に負う所が大きかった。毛利氏を安泰たらしめたのち元祥は元老をもって遇されたが、みずからは知行地である須佐にあって北方の要として石州口を固めた。寛永十七年(1640)、元祥は八十三歳の天寿を全うして世を去った。
 以後、益田氏は一万二千石を領して、萩毛利藩の永代家老として続いた。幕末の当主、右衛門佐親施(ちかのぶ)は禁門の変に出陣し、福原、国司の両家老とともに藩命によって自刃したことはよく知られている。明治維新後、益田氏は男爵を授けられ華族に列した。・2005年4月8日

参考資料:萩市史/益田市誌/島根県歴史人物事典 ほか】

■益田氏の一族にリンク... 周布氏福屋氏三隅氏



■参考略系図
・もっと詳しい系図へ。  


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