九鬼氏
七曜/左三つ巴
(熊野別当流/藤原氏後裔?) |
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"くき"という字は、元来、峰とか崖の意で、岩山・谷などを指すという。また"くき"のきは、柵の意で、城戸構えのあったところからきたともいわれる。
九鬼氏というのは、熊野本宮大社の神官の子孫で、紀伊の名族として知られている。それとは別に、熊野別当の九鬼隆真が紀伊牟婁郡九鬼浦に拠って、子孫が繁栄して一族をなしたものがある。さらにこの九鬼隆真の子の隆良が志摩国波切村に移住して、志摩の九鬼氏ができた。
九鬼氏は熊野八庄司の一つといわれ、八庄司のひとつ新宮氏であろうとされるが、熊野三山の別当家のどれかの支族であろう。
九鬼氏の登場
九鬼氏が史料上に確認されるのは、伊勢神宮領二見御厨神人との、阿五瀬の漁業権をめぐる争いのなかでである。この漁業権については、元弘三年(1333)にも二見御厨神人と、小浜政所兄部とが相論を引き起こしている。貞治三年(1364)九鬼氏は小浜方の権利を継承、相差地頭も同意しているとして、代官に軍勢を率いさせ「是非無く、阿五瀬蛸等を釣取り、種々の乱妨」に及んだ。
この事件で、九鬼氏の配下として小河・蘇原の名が出るが、かれらは近辺の小領主であった。さらに、二年後の貞治五年、泊浦の「給主」として九鬼氏の名前が見える。十四世紀後半以降、九鬼氏はその活動を活発化させ、断片的にではあるが、歴史上に姿を現わすのである。ただ、九鬼氏で官途・法名が明らかになるのは、応永十年(1403)の刑部少輔源祥なる人物が最初である。
1430年代後半、刑部少輔源祥の子あるいは孫にあたると思われる異母兄弟の間で、惣領職をめぐる抗争が起こった。兄四郎左衛門尉元隆と弟全四郎景隆は、泊浦代官職をめぐって多年争ってきたが、泊小里にある景隆の城に、兄元隆が夜討をかけて乗っ取った。景隆は対岸の大里の城に逃れ、近辺の武士を篤め、百から二百の軍勢で反撃し、城の奪回を試みるが失敗した。
兄弟の抗争はその後も続いたが、いつ、どのような形で解決されたのかは明らかではない。ただ、文明年間(1469〜87)にも景隆は生存しており、同時期に泊浦に拠り治隆なる人物がいる。「隆」を通字とし、九鬼氏の本拠である泊浦を支配しているところから見て、治隆は元隆の後裔、おそらく息子と考えられる。とすれば、泊浦代官職で一体である九鬼氏の惣領職は、元隆−治隆と伝わった可能性が高い。
●九鬼氏の軍旗
志摩国は、神宮領・伊雑宮領など、神領や醍醐寺三宝院領などが多かったが、それら御厨・荘園のなかから地侍が成長し、室町時代末期から戦国時代にかけて、各地に割拠した。『北畠物語』には、英虞の郡七人衆として、相差方、国府の三浦方、甲賀の武田方、波切の九鬼方、青山方、佐治方、浜島方が記され、「九鬼世系」では、小浜に小浜久太郎、楽島に安楽島越中守、浦に浦豊後守、千賀に千賀志摩、的矢に的矢次郎左衛門、安楽に三浦新助、甲賀に甲賀雅楽介、国府に国府内膳正、波切に九鬼弥五郎(九鬼浄隆)、越賀に越賀隼人(佐治隆俊)、和具に和具豊前、岩倉に田城左馬(九鬼澄隆)、鳥羽に鳥羽主水(橘宗忠)を挙げ、これを志摩十三人衆と呼んでいる。それぞれ城を構えて、北畠氏の麾下にあった。
『志摩軍記』によると、「磯部七郷には地頭がいないため、近辺の地頭から侵される恐れがあり、百姓共が波切の九鬼弥五郎(澄隆)を頼ったところ、紀州九鬼にいる舎弟右馬之允(嘉隆)を勧められ、かれを磯部の地頭とした。かれは国司北畠氏と結託し、志摩二郡を下す御教書をもらい、十三地頭を攻撃し始め、水軍力と権謀術数によって次々に倒し、兄の弥五郎も婿の主水も攻め滅ぼして、鳥羽城主となり、志摩一円を支配するに至った」と記している。
しかし、九鬼氏は四代泰隆のとき、賀茂の田城に城を築き、六代浄隆のとき、伊勢国司の助けを借りた七党に攻められ、七代澄隆のとき、ふたたび七党に攻められて敗れ、朝熊岳に逃れたが、叔父嘉隆の時代に至って志摩一円を支配したものである。
九鬼嘉隆の登場と活躍
志摩九鬼氏は舟を操ることに長け、戦国期には九鬼水軍として重視された。戦国時代に頭角を現わしたのは、九鬼嘉隆だ。『寛政重修諸家譜』では、嘉隆ははじめ伊勢国司北畠氏に仕え、北畠氏没落後織田信長に属したとしている。しかし『志摩畧誌』では、志摩十三地頭らは同盟を作っていたが、嘉隆は武威を誇り、誓盟の仲間をないがしろにしたので、他の地頭たちは怒って波切の嘉隆を襲った。嘉隆は船で安濃津に逃れ、潜居ののち、尾張口に赴き、北畠氏の支配を脱して滝川一益を通じて織田信長の幕下に入った、としている。
永禄十一年、北畠氏の最後の居城である大河内城を織田信長が攻めたとき、嘉隆は水軍で参加し、その間、志摩制圧をめざして各地頭を攻め、小浜久太郎景隆や千賀志摩は敗れて三河に逃亡、浦豊後や的矢美作は自害、越賀隼人、和具の青山豊前らは降って九鬼氏の家臣となり、鳥羽の橘宗忠は娘を人質に出して降伏、嘉隆はその娘を妻として宗忠の所領を併せ、志摩一円を完全に手中に収めた。
その後、信長の戦には常に水軍をもって参加、天正二年(1574)の長島一向一揆の討伐、同六年の大坂本願寺を攻めたときは鉄張の船六艘などを主力として雑賀門徒衆、あるいは毛利水軍を破り、信長から志摩国など三万五千石を給せられた。天正十年六月、本能寺の変において信長横死後は秀吉に属し、島津征伐や小田原攻めに参加した。特に朝鮮出兵に当たっては水軍の先鋒となって功を挙げ、加増を受けて、五万五千石の大名となった。
子守隆が家督を継いだのは慶長二年(1597)のことで、嘉隆が人と争い、その争いに対する家康の判決を不満として隠居した結果ともいわれている。そのことがあったためか、関ヶ原の戦いに際し、嘉隆は西軍に属した。しかし、守隆の方は東軍に属し、西軍の桑名城を守る氏家純利を破って、その首級を家康のもとに届けさせた。これが東軍で最初の勝報ということになり、その功によって鳥羽城を安堵された。
一方、西軍の敗北を知った嘉隆は鳥羽城を後にすると、搭志島の和具に逃れた。守隆は父嘉隆の助命嘆願を行い、池田輝政らの応援もあって、ついに家康から助命の許しを得た。ところが、守隆の助命運動を知らなかった嘉隆は、答志島において自刃した。一説に、嘉隆が生きていては九鬼家に累が及ぶと考えた守隆の家臣豊田五郎右衛門が、独断で嘉隆に自裁を勧めたともいわれている。
かくして、九鬼氏は近世に生き残ることができた。嘉隆の孫久隆が摂津三田に所領を宛てがわれ、また久隆の叔父隆季が丹波国綾部を与えられ、それぞれ三田藩、綾部藩の祖となり明治まで続いた。
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