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津野氏
●丸の内一文字
●藤原北家仲平流
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平安時代の前期、摂政・関白として朝政を支配した藤原基経には数人の男子があったが、とくに長男時平、次男仲平、四男忠平は「三平」と呼ばれた。土佐の戦国時代の守護七雄の一に数えられた津野氏は、藤原仲平の後裔と伝えられている。
津野氏の発祥
『津野氏家系考証』などによれば、仲平の子経高は宮中の機密を掌る蔵人頭をつとめ、越前国今立郡山之内荘を賜るなど若冠にして羽振りがよかった。これを妬んだ藤原一門らの奸計によって謀叛の罪を着せられた経高は、延喜十年(910)、捕えられて伊予道後の河野四郎直実に預けられた。伊予に下った経高は浮穴郡川上庄山内谷に住して、山内蔵人を称した。
その後、河野氏の保護を受け、延喜十三年(913)に伊予国から土佐国に入り、高岡郡梼原を開拓し、津野山を開拓していった。そして、天暦三年(949)に半山城を築いて移り、三島大明神を勧請したという。かくして、経高は名字を山内から津野に改め、康保二年(965)に死去したと伝えられている。享年七十四歳であったという。
とはいうが、津野氏の系譜と土佐入国時期およびその経路については、不明な点が多い。経高は鎌倉時代に入国したとするもの、あるいは梼原ではなく海路を経て須崎に上陸したというものもあり、津野氏の発祥については定説がないというのが実状である。他方、津野の名字に関しても、藤原仲平が讃岐の権守となり、綾歌郡に津野郷あり、またその付近の宇多津より坂出の間にある名山、津野山からとったとする説もある。また、津野氏の歴代に関しても、十八代説、十九代説、二十一代説、二十三代説があり、いずれとも決し難い。
ところで、津野氏の家紋は「一文字」で、永正ごろに丸を付したといわれる。「一文字」の紋は、首藤山内氏の代表紋として知られ、津野氏初代の経高が山内を称していたこと、津野氏を山内氏の分かれとする説もあることから、鎌倉時代に至って山内氏との関係が生じたとも考えられる。それらのことが渾然一体となって、津野氏の系譜、伝承などが成立したとみるのが自然ではなかろうか。
さて、経高のあと津野氏は、半山姫野々城を居城に地頭として勢力を伸張していったようだ。平安時代における津野氏の軌跡としては、天徳三年(959)経高の子重高が斗賀野・佐川方面に開拓を広げ、別府氏と争ったことが『高吾北文化史』に記されている。ついで長和二年(1013)、国高が京都の北野から天満宮を大野見に勧請した棟札があったといい、長暦三年(1039)には高行が徐紋院本殿を再建し仁王門を建立したことが記録に残っている。そして、その間に能見・古味・今橋・佐川氏らが庶子家として分かれ出たことが系図から知られる。津野氏の出自のことはともかくとして、代々が津野庄を中心として着実に勢力を拡大していったことは疑いないようだ。
津野氏の発展
その後、鎌倉時代を経て南北朝期になると、津野家時・繁高らが出て活躍した。繁高は津野本庄を領家の下賀茂神社に対して地頭請とし、戦乱にそなえて半済の契約を行い、荘園内に領主権を確立しようとした。また、南北朝時代より土佐国は細川氏が守護に任じられ、守護領国制を展開していった。津野氏も動乱期において、細川氏との関係をもったことは疑いない。しかし、繁高から之高に至るまでは、系譜が混乱し代々の活動を知ることはできない。
津野氏中興の祖とされる之高は、応永二十五年(1418)に生まれて、文明十一年(1479)に死去したが、伊予河野氏の出身で津野家を継いだものと伝えられている。
之高は文才があり、永享六年(1434)、十六歳のときに上洛して将軍足利義教の前で詩を作る早熟ぶりを示した。感心した義教は、朝廷に奏上して備前守に任じ、犬追物鷹野八的を免許するなどし、之高はおおいに面目をほどこした。その後、足利義政の命に服しなかったことからその怒りにふれ、宝徳二年(1450)、義政は細川勝元に討伐を命じ、守護代細川勝益や大平元国、伊予の大野・富永氏らが出陣した。しかし、その効果はほとんどなく、之高はさらに勢力を拡大している。
ところで、之高には二人の妾があり同時に妊娠したため、之高は先に生まれた男子を跡継ぎにしようと約束した。そして、予州出身の妾が男子を生んだが、重臣の市川佐渡はそれを之高に伏せ、姫野々の妾が男子を生むと、之高に男子出生を報告した。喜んだ之高は姫野々の妾が生んだ男子を跡継ぎとして元藤と名付けたのである。先に生まれた男子は常定と名付けられた。佐渡は之高が伊予の出身であり跡継ぎが伊予の女の生んだ男子に決定すると、土佐の諸将が気にいらないだろうと気をまわしたのであった。
のちにその経緯を知った常定は、佐渡の処置を憤り、元藤に代わって津野を領しようとうかがうようになった。そして、十七歳になった常定は中平村に拠ると兵を挙げ、三年間にわたって兄弟による戦いが展開された。ときあたかも応仁の乱が勃発し、世の中は戦国時代に移行しようとしていた。兄弟は同族争いの愚を悟り、常定は梼原に住して津野山九ヶ村を領することで和議がなった。以後、常定は津野を改めて中平を称して、津野氏の重鎮となった。
津野庄は京都五山との関係が深く、之高の末男の旭岑瑞杲は吸江庵に住しのち京都南禅寺の長老となった。瑞杲は詩文をよくし、『日下一木集』の著書がある。
津野氏の興亡
之高のあとを継いだ元藤は、文武に通じた武将であったようだが二十七歳の若さで早世した。そのあとを継いだのが、津野氏歴代のなかでも勇将として知られる元実である(系図によっては元勝を入れるものもある)。
応仁の乱後、室町幕府の権威は失墜し、諸国には群雄が割拠して互いに覇を競い合っていた。そのような時代に、家督を継いだ元実はいまだ三歳の幼児であった。やがて成人した元実は、父祖の血を受けて知勇兼備の将に成長、西は津野山、東は須崎、野見浦のあたりまでを支配下においた。その一方で、上分賀茂社の再建、多ノ郷賀茂社の造営を行い、永正八年(1511)には、叔父旭岑をして祖父之高の三十三回忌を執行している。元実は武事ばかりではなく、先祖を敬い民治にも力を尽くした名君であった。
かくして、津野氏は土佐国の中西部の一大勢力となったが、次第に元実には傲慢な態度が見られるようになった。領土拡大を目論む元実は、戸波地方を併合しようとして計略をめぐらし、永正十四年(1517)、一条氏の家臣福井玄蕃が守る戸波城への攻撃を開始した。
元実の攻撃を福井玄蕃は屈することなく迎撃、一方で佐竹掃部頭に救援を求めた。かねてより元実の態度を快く思っていなかった掃部頭は、ただちに事の子細を一条氏に報告、一条氏も元実の勢力拡大を挫くのはこのときと、ただちに援軍を差し向けた。元実は戸波城に猛攻撃を加えていたが、守りが堅く攻めあぐねていた。そこへ、一条氏の援軍が来たことで、津野勢はにわかに崩れ立ち、ついに城の西北部にある恵良沼方面に敗走した。恵良沼は底無し沼として知られたところで、追い詰められた津野勢は次々と沼の藻屑となった。死を決した元実は、残った兵を叱咤して奮戦したが、ついに討たれて戦死した。享年三十六歳、みずからの慢心がもたらした結果とはいえ惜しいことであった。
元実の敗死によって、さしもの津野氏も一挙に昔日の勢いを失うことになった。元実が戦死した翌月、安並城主の安並弥三、出間城主の出間九郎兵衛らが津野領への侵略を企てたが、重臣中平兵庫助の活躍でほぼ全滅させられた。
兵庫助は元実の嫡男国泰を立てて家中の動揺を鎮め、よく近隣諸勢力の侵攻を許さなかった。国泰が成人すると兵庫助は津野城を退き、大野見・窪川城を厳重にして一条氏の進出を阻止した。この兵庫助の存在によって、津野氏は二十年近くにわたって一条氏に乗ずるすきを与えなかった。やがて、国泰のあとを基高が継ぐと、その幼年をあなどって一条房基は津野を攻めてきた。中平兵庫助はただちに一条勢を迎え撃つと、たちまちこれを撃退した。
天文十二年〜十四年にかけて房基の攻撃が続き、津野勢はこれをよく防ぎ、本山氏、大平氏らの応援などもあって優勢になったこともあった。しかし、天文十五年に至り、房基は大兵をもって久礼・仁伊田を侵し、須崎に進出してきた。これをみた中平兵庫助は津野氏存続のためには、降伏するしかないと見極めて降伏を乞うた。
長曾我部氏に屈服
かくして一条氏に降った基高は威勢回復もままならず、悶々とした楽しまない日々を過ごし、天文二十二年八月に死去した。そのあとは定雄が継いだが早世、定勝が津野氏の家督となった(定雄と定勝を同一人物とする説が有力)。
津野氏をはじめ大平・佐竹らの土豪を麾下におさめ、高岡・幡多の二郡を支配下においた一条氏の勢力は隆々たるものがあった。津野氏は一条氏に仕えて、現状維持をはかることに精一杯であった。永禄六年(1563)、定勝は一条兼定の娘を娶って婿となり、一条氏への忠勤を励んでいたようだ。
やがて、長宗我部国親のあとを継いだ元親が、本山・安芸氏らを滅ぼし、仁淀川以東を制圧した。そして、土佐一国の統一を目指して、西部方面に兵を動かすようになった。こうして、一条兼定と長宗我部氏との戦いは不可避な状況となった。元親は永禄十一年から十二年にかけて一条氏の支配下にあった蓮池城を攻撃、陥落させ、戦況は一条氏の不利となっていった。
元親は津野定勝に降伏を勧告したが、定勝はこれに応じなかった。しかし、長宗我部氏の蓮池城奪取によって次第に圧迫され、津野家も運命を決すべき時期がきていた。元亀二年(1571)津野家の家臣たちは元親に降って、その麾下に入ることを決議し、その旨を定勝に進めた。しかし、定勝はこれを拒否したため、家臣たちは定勝を伊予に追ってその子の勝興を擁立し、妻に元親の娘を乞うて降った。
とはいえ、津野氏の家督となった勝興は、定勝の意志を継いで長宗我部氏に降ることを潔しとせず、家臣らの諌言を斥けたという。しかし、天正二年ごろにいたって、ついに長宗我部氏の軍門に降り、元親の三男親忠を養子としてみずからは隠居した。とはいえ、親忠が幼少であったため、当初は代わって政務をみていたようだ。そして、天正六年十一月、勝興は死去したようだ。この勝興の死によって津野氏嫡流の血統は絶えたといえよう。
土佐一国を統一した長宗我部元親は、さらに四国統一作戦を展開したが、天正十三年(1375)、あと一歩のところで豊臣秀吉に敗れ、結局、長宗我部元親は土佐一国を安堵されるという結末になった。そして、豊臣秀吉への人質として津野親忠が大坂に送られた。
長曾我部信親の戦死
天下統一を進める秀吉は九州征伐を決し、天正十四年(1586)、長宗我部元親・十河存保ら四国勢に九州出陣の命が下った。豊後国に渡った四国勢は、秀吉から遣わされた軍監仙石秀久、大友軍と連合して島津軍と対峙した。そして十二月、大分郡戸次川を舞台に大友・四国の連合軍六千と島津勢二万が激突し、戸次川畔で一大決戦が展開された。
決戦に先だって、軍監の仙石秀久は渡河決戦を主張したが、元親らは「大軍に対して渡河は無用なり」と反対意見を述べた。しかし、秀久は聞きいれず、十河存保も秀久に同調したことから全軍渡河となった。島津の大軍は仙石・長宗我部軍らに襲いかかり、たちまち秀久軍は敗走、土佐軍三千は踏みとどまって奮戦したが非常な苦戦に陥った。元親の嫡子信親は中津留川原にふみとどまって奮戦したが、衆寡敵せず、元親を落すと二十二歳を一期として戦死した。
信親は『土佐物語』に「背の高さ六尺一寸、色白く柔和にして、詞寡く礼譲ありて厳ならず、戯談すれども猥ならず、諸士を愛した」ので、「国人自ら恐れ敬い馴れ懐く事、父母の思」をしたといい、智勇兼備の武将であったと伝えられている。元親にとっても将来を嘱望する最愛の子であり、元親が信親の死によって受けた心の打撃は深刻で、以後、元親の性格は一変したと伝えられる。
一方、信親の死を悼んだ秀吉は、次男で讃岐の香川氏を継いでいた親和に土佐を宛行うという意味の朱印状を与えたといわれる。しかし、元親は幼少の四男盛親を愛していたようで、信親の死後、後継者を容易に決定しなかった。『土佐物語』には、「信親死後、香河五郎次郎殿か、津野孫次郎殿が家督たるべし。いずれがよろしかるべきと、上下いいあいけり」そして元親は、「家の惣領は、五郎次郎か、孫次郎たるべしといえども、彼等は素より他家を継がしめぬ。惣領の器にあらず。是に依って千熊丸(盛親)を家督として」と所存を問うた。
長曾我部氏の内紛
この元親の諮問に対して、久武内蔵助親直は真っ先に賛成し、元親の弟吉良親貞の子親実は敢然と反対した。
親実いわく「長子不幸のときは、次男是に継ぐこと、道の常にて候へば、五郎次郎殿、一度香河に移り給ふといへども、彼家断絶の上は、今是を御惣領に立てられん事当然なり」と、正論であった。これに元親の従兄弟比江山親興も賛成したが、久武内蔵助の言をよしとする元親の気持と、盛親への偏愛をとどめることはできなかった。
かくして、長宗我部氏の後嗣は盛親と定められたのであった。しかも、諌言を呈した吉良親実と比江山親興は、天正十六年(1588)切腹を命じられた。この処分は人々の非難をあび、無言の抗議をうんだ。ここに、長宗我部氏には暗雲がたちこめるようになったのである。
文禄元年(1592)に文禄の役が起ると、秀吉の命を受けた元親は三千の兵を率いて渡海した。その陣に親忠も参加して、元親が帰国したのちは残留部隊を指揮した。親忠はその性寛仁、大度諸士を愛し、百姓を憐れむことが非常に深かったので津野旧臣および領民から慈父のように慕われていたという。しかし、弟の盛親が家督と決まってからは鬱々として楽しまなかったという。そのような親忠を久武内蔵助らが、親忠は家督を相続できなかったことを不満と思って元親に服していない、と讒言した。
久武氏は長宗我部三家老の一で、内蔵助は二人いた。ひとりは内蔵助親信で、元親の厚い信頼をえて知行四万石という桁外れの禄高を給された。四国統一戦において、南伊予軍代に任ぜられて活躍したが、伊予岡本城の攻防戦において土居清良の軍に攻撃され戦死した。この親信の弟親直がふたりめの内蔵助である。親信は生前「弟はやがて長宗我部家に仇をなす」と予言していたが、兄の死後、久武家を継承した。
内蔵助親直は武将としてそれなりの力量はあったようだが、兄が看破したように清廉潔白な人物ではなかった。元親は内蔵助の言に惑い、ついに親忠を苛酷に扱うようになったという。ここにも、かつて四国を席巻した武将元親の面影はみられない。追いつめられた親忠は京都へ逃れようとしたが引き止める者があり、元親によって香美郡岩村に幽居され家臣との交渉も絶たれた。
津野親忠の死
やがて、慶長四年(1599)に元親が死去し、その翌年には関ヶ原の合戦が起こった、盛親は東軍に味方することを決め、家臣を家康のもとに派遣した。ところが、近江の水口で道を閉ざされ、ついに西軍に味方することになったという。兵を率いて上方に上った盛親は、関ヶ原の決戦に際して最南端の栗原に陣したが戦意は乏しかったようだ。そして、西軍が敗れると一度も戦うことなく戦場を離脱して、苦労の末に土佐へ逃げ帰った。
盛親は帰国にあたり、家臣を大坂に残し、井伊直政を頼って家康に謝罪しようとした。しかし、直政は盛親が謁見もせずに、郷国にあって座して罪を謝すなどはもってのほかであるから、上坂するようにとの意向を伝えた。もっともなことであり、盛親はみずから上坂して家康に謝罪したのであった。
ところが、盛親は大坂へ出発する前に兄津野親忠を殺害した。親忠は幽閉の身ながら、関ヶ原の敗戦を聞いて、懇意であった藤堂高虎を通じて長宗我部家の存続を願ったところ、家康は一応これを了承していたという。このような親忠の動きを察知した久武内蔵助は、盛親に「親忠は家督相続の不満から、藤堂高虎と結んで東軍に気脈を通じた形跡があり、今回高虎の斡旋で土佐半国を与えられるかも知れない」と進言したので、盛親は親忠を殺したと伝えられる。また、久武の進言を聞いた盛親は「兄を殺して身を立てん事体なし」と退けたので、久武は盛親の命とかたらって親忠を殺したとするものもある。いずれにしろ、親忠の死の背後には久武内蔵助の策動があったことは疑いない。
親忠殺害のことは家康を激怒させた。家康は「元親の子には似合わしからぬ不義者」といって、盛親を誅伐しようとした。しかし、井伊直政の執りなしでようやく死一等を減じられたものの、領国はことごとく没収となり土佐長宗我部氏は没落した。
親忠の死によって、津野氏も滅亡となった。しかし、不運の武将親忠の悲劇の死を悼んだ領民らは、津野の諸所に津野神社を立てて、その遺徳を祀っている。また、津野荘内には旅人に布施するための茶堂があり、七月の月内は里人が奉仕して津野氏の、とくに親忠の霊を慰めた。それはいまも続けられ、梼原町には二十二ヶ所の茶堂が残っているという。・2005年3月30日
【参考資料:高知県史/津野興亡史/東津野村史/須崎市史 など】
■参考略系図
・津野氏の系図は諸本によって、人名・世代など食い違いを見せている。ここでは、津野氏の歴史に掲載されていたものを底本として作成したものを掲載。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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