|
香宗我部氏
●割 菱
●清和源氏武田氏流一条氏後裔
|
香美郡宗我郷を本拠に発展した香宗我部氏は、甲斐源氏武田氏の一族一条次郎忠頼に発する。いわゆる清和源氏義光流である。源平争乱の時代に際して甲斐武田一族は大活躍を示したが、のちに源頼朝からその威勢を忌まれ、一条忠頼・板垣兼信・武田有義らの兄弟は、殺されたり、失脚したり、行方不明になった。
忠頼の家臣大中臣(中原)秋家も危ない運命にあったが、「歌舞音曲に巧み」だったことから、頼朝の「芳情」を受けて、一命を助けられ頼朝に直接仕えるようになった。そして、忠頼の遺児秋通を後見した。秋家は実務能力にも恵まれて頼朝から目をかけられ、建久四年(1193)、香美郡宗我部・深淵両郷の地頭職に補任され、土佐へ入部した。
その後、貞応二年(1223)に至って、秋家は主の遺児でありみずからが後見する秋通に香美郡宗我部・深淵両郷の地頭職を譲り、秋家は香美郡山田に移った。戦国時代に土佐七守護の一に数えられた山田氏は、秋家の後裔と伝えられる。こうして、秋通は香美郡宗我部・深淵両郷の地頭職となり、子孫は土佐の有力国人に成長していくことになる。
ところで、秋家・秋通が土佐に下向したころ、秦能俊が長岡郡宗我部郷に入部した。香美郡宗我部郷、長岡郡宗我部郷にはいった両氏はそれぞれ宗我部を名字としたが、のちに、区別するため郡名を冠して香宗我部、長宗我部を名乗るようになったのだという。
香宗我部氏の発展
鎌倉時代のはじめは、まだ国衙の力が強く、地頭とはいっても領地を十分に支配することはできなかった。そのため、秋通は土佐守護三浦氏と密接な関係を保って、地頭権の行使を行うという状況であった。やがて、承久三年(1221)、「承久の乱」が起ると事態は一変することになる。すなわち、後鳥羽上皇を降した幕府は権力を確立し、京都に六波羅探題を設置し、西国の統轄に着手した。さらに変後の混乱を収拾するため、地頭らに領内の検断と治安を命じた。
香宗我部秋通も六波羅探題北条泰時・時房から、領内の検断と治安にあたるように命じられている。以後、荘園領主や現地の荘官らと対立しつつ、領主制形成への道を歩み出すのである。秋通のあとは宗通が相続し、幕府から地頭職を安堵された。さらに、六波羅からその所領に守護使が入ることを停止する特権を得るなど、幕府の御家人として優遇され、香宗我部氏はさらに独立した領主をめざすことになる。
香宗我部氏が発展を遂げる契機となったのは蒙古襲来後の幕府の衰退であり、宗通のあとを継いだ成通の時代であった。成通は祖父秋通、父宗通が従五位下であったのに、従四位下に任ぜられ、中原から本来の姓である武田を名乗るようになった。その間の事情は分からないが、成通のときに香宗我部氏の地位が向上したことは間違いない。
以後、朝通、重通と続き、重通は嘉元四年(1306)に隠居して、家督を秀頼に譲った。重通の譲状によると、「秀頼は器量あるゆえ」をもって惣領となり、相伝の調度証文を付与され、所領の分与を受け得る親族である他の十五人の男女は郷内の田畠を分与されている。『香宗我部氏系図』をみると重通のころに、松岡・岩原・山本・山田・笠原らの庶子家が分出しており、たとえば西山宣通のように地頭に補されたものもあらわれた。
香宗我部氏の惣領となった秀頼は、惣領制のもとに同族の分裂を防ぎ、本領はもとより周辺の所領を確保し、さらなる発展をめざした。
中世の動乱
秀頼が生きた時代は、鎌倉幕府の滅亡から南北朝の争乱期にあたっていた。元弘三年(1333)、足利尊氏が丹波国篠村八幡宮において、北条氏に背いて後醍醐天皇に帰順することを決し、豪族らに応援を求めた。秀頼はこれを好機と捉え、一族を率いて尊氏の檄に応じた。
以後、秀頼は長宗我部信能とともに尊氏に従って活躍、尊氏の執事でもある高師直から大忍庄の代官職を預けられるなど、着実に勢力を拡大した。やがて、土佐守護に細川氏が補任されると、細川氏に結びつき、その権力を背景としてさらなる所領の拡大を企図した。そして動乱のなかで一時失っていた深淵郷を回復、さらに物部庄へも所領を拡大していったのである。
秀頼は二男時秀に家督を譲り、ついで、時秀から秀能へと受け継がれた。南北朝の内乱を絶好の機会として、勢力を大きく伸ばした香宗我部氏であったが、やがて、惣領制に綻び生じるようになり、庶子家、支流を統制していくことが難しくなってきた。これは時代の潮流であり、香宗我部氏もその例外とはなりえなかったのである。
それでも時秀の子通秀は惣領として庶子の統制を行い、叔父の西山氏秀の子安秀・家秀らと起請文を交わしている。しかし、一族間の内部分裂は止まることはなく、やがて、血縁ではなく国人領主間における一揆が行われるようになる。そして、南北朝の争乱を経て、室町時代に至ってこれら国人が時代の表舞台に登場してくるのである。
通秀のあと、香宗我部氏は益秀、真通と続き、ついで通長、そして親秀のときに戦国時代に遭遇する。しかし、その間の香宗我部氏の動向については、系図の不備、史料不足などから詳細は分からない。わずかに、真通が守護および守護代から知行知の公事を免除された書状が伝えられているばかりである。
香宗我部氏の興亡
戦国期の香宗我部氏は親秀の活躍時代であった。親秀の父通長は宝徳二年(1450)に生まれ、香宗我部系図の注記によれば「武事を構え、戦備に怠りなく、動作は礼にかない、政治は筋を通し、領民は大いに安んじた」と記されている。なかなかの人物であったようだ。また、通長は長宗我部氏とともに一条教房を土佐に迎えるために尽力したという。親秀は通長を父とし、細川勝元の女を母として文明三年(1471)に生まれたと系図は伝えている。
やがて香宗我部氏は東隣の大忍庄へ進出したが、土佐東部に君臨する安芸氏もまた大忍庄へ進出し、両氏の抗争が続いた。大永六年(1526)、親秀は安芸備後守と戦い、敗れて嫡子の秀義が戦死した。そのため親秀は弟の秀通を養子として家を継がせ、みずからは剃髪して遷仙と号し、領内の兎田・新宮・中山田などを隠居料所として香宗城北屋敷に隠退した。
ところが、長宗我部国親の勢力が香宗我部の勢力圏に侵出するようになり、東の安芸氏からも圧迫を受け、香宗我部氏の没落は必至という情勢になった。これを打破せんとした親秀は、長宗我部国親の三男親泰を養子として迎え、長宗我部と香宗我部の連合体制を作り上げようと企図した。しかし、それを進めるにはまず、養子の秀通を引退させなければならず、親秀はこの旨を秀通に話し了解を求めた。
しかし、秀通は細川氏の女を娶って一男一女があり「わたしには男子がいる、他家から養子を取るには及ばない。また、国親の威名を恐れて、その男子を養子とするのは武門の恥ではないだろうか」と、親秀の申し入れに反対の意志を表明した。正論であったが、あくまで長宗我部氏との連合に固執する親秀は、家臣に命じて秀通を殺害させた。ときに、弘治二年(1556)、家を守るためとはいえ非情な事件であった。
こうして、秀通は国親の三男親泰を香宗我部氏に迎え入れることになった。しかし、『土佐国編年紀事略』には、親泰が香宗我部氏を継いだのは、天文十五年(1546)頃とみえ、事件の十年前のことになる。香宗我部氏の家督となった親泰は、秀通の子泰吉らの補佐によって領内を治め、宝鏡寺を開基し与楽寺を保護するなど領内の政治に意をもちいた。永禄十二年(1569)、安芸氏の滅亡により安芸城主となり、兄元親の土佐統一に大きな力となった。
香宗我部親泰の活躍
土佐を統一した元親は、ついで四国統一を目指すようになる。元亀二年(1571)の春、病弱な弟の島弥九郎が有馬で湯治するための旅行の途中、阿波の海部越前守宗寿のために殺された。これが、元親に阿波侵入の口実を与えた。このころ、海部氏は宍喰へ圧迫を強めていたことから、元親はただちに宍喰に侵入し、たちまち海部城を陥落させ、つづいて、阿波東南部の諸城を降した。元親は香宗我部親泰を海部城において、阿波南部の軍代とした。以後、親泰は元親の四国制覇の戦いに片腕として協力しながら、長宗我部氏の外交役としても活躍した。
このころ天下統一事業を推進していた信長は元親の嫡男に「信」の字を与え、また、四国切り取り次第の朱印状を発行するなど、元親に対して好意的であった。このような信長と元親の間を外交役として奔走、手腕を発揮したのは親泰であった。
やがて、信長はそれまでの元親との関係を反故にして、織田信孝・丹羽秀長らを大将に命じて四国征伐の軍を起した。ところが、渡海を目前とした天正十年(1582)六月、明智光秀の謀叛による本能寺の変で信長は急死た。以後、信長政権は動揺をつづけたが、山崎の戦いで光秀を討った羽柴秀吉が信長の後継者として台頭した。その間、元親は柴田勝家や織田信孝らに協力し、秀吉と勝家が戦った賤ケ岳の戦いを利用して、四国統一の局面を有利に展開しようと画策をつづけたようだ。
信孝の家臣玉井彦介からの書状、あるいは勝家に応じた高野山の僧勢雄らが親泰に送った書状が残されており、親泰が元親の外交役として柴田勝家や織田信孝らとの交渉にあたっていたことが知られる。
やがて、勝家を倒した秀吉は元親への対抗策を練っていたようで、仙石秀久に備前・播磨の軍船を総括させ、明石与次兵衛尉に大坂へ軍船を集結させるように命じている。しかし、こうした推移のうちに小牧・長久手の戦いが始まり、秀吉は元親討伐に全力を注ぐことができなかくなった。織田信雄・徳川家康らは秀吉への対抗上、広範囲にわたる作戦計画をたて、その作戦の一環として元親や根来衆・雑賀衆らに協力を求めた。
この間の消息が、香宗我部親泰に宛てた天正十二年三月七日付けの信雄の書状、あるいは、同年四月三十日付けの家康の重臣本多正信の書状によって知られる。中央の政局の変転をにらみながら、元親は四国統一の戦いをすすめ、翌十三年(1585)の春、伊予の一部を残してほぼ四国の制覇を成し遂げた。しかし、その三か月余りののち、強力な秀吉の軍と対決することになる。
戦国時代の終焉
秀吉は小牧・長久手の戦いを和議をもって終結させ、和泉を平定、家康、元親らを応援した雑賀衆や根来寺の衆徒を降した。さらに紀州の太田城を水攻めにしてこれを陥落させ、大坂に凱旋した。そして、いよいよ四国の長宗我部元親征伐の軍を発向したのである。結果として秀吉の軍によって敗れた元親は土佐一国を安堵され、以後、豊臣大名の一人となった。
その後、親泰は兄元親とともに秀吉の軍事活動に協力し、文禄元年(1592)の「文禄の役」にも出陣し長男の親氏を失っている。そのため、元親の命で親泰が派遣されることになったが、親泰は赴任の途中、文禄二年長門国で客死した。元親の統一戦争の当初から、元親の事業を助け、対外交渉の任を担っていた親泰の死は元親にとって大きな痛手であった。
親泰のあとは、二男貞親(親和)が継いだが「関ヶ原の戦」のあと長宗我部氏が改易されたことから、唐津の寺沢氏、ついで堀田氏に二千石をもって仕え佐倉に移っていった。
ところで、本来の香宗我部氏の血脈を伝える泰吉は、中山田を称して香宗我部親秦をよく補佐した。親秦は泰吉の真摯な人間性とその才能を認め、泰吉をみずからの後継者に迎えようとしたという。しかし、香宗我部氏の家督は、親秦の子が継ぎ、泰吉は香宗我部氏の重臣として進退した。
朝鮮の役には、渡海した親秦の留守を守って欠けるところがなかった。関ヶ原の役では徳川家康と気脈を通じ、井伊直正を通じて「香宗我部家は盛親と別心である」と伝え、家康から香宗我部家の存続を取り付けたといわれる。香宗我部氏が土佐を去ったとき、泰吉は土佐に残り、中山田の家督は自分の弟新介秀政に伝えた。名字こそ中山田に代わったとはいえ、香宗我部氏直系の流れは土佐に続いたのである。・2005年3月30日
【参考資料:土佐長宗我部氏=山本大著/高知県史/野市町史 など】
■参考略系図
|
|
応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
|
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
|
|