長曽我部氏
七つ酢漿草/帆掛船
(泰氏流 ) |
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長曽我部氏は、泰氏の後裔を称している。泰氏は古代の有力な渡来民族で、秦の始皇帝の子孫の弓月君が日本に渡来したのが、その始まりとされている。応仁の乱のころには、
土佐守護細川氏が上洛続きで領国を顧みられなくなっている間隙をついて勢力を伸ばし、本山氏と長岡郡を両分し、土佐七族の雄に
数えられるまでに成長した。
戦国時代、本山氏との戦いに初陣を遂げ、奮戦して長宗我部方を勝利に導いたのが国親の子元親であった。それ以来、
本山氏を滅ぼし、安芸氏を倒し、ついに天正二年(1574)には旧恩ある一条兼定を豊後に追ってしまった。こうして土佐一国の統一に成功した元親は阿波・伊予・讃岐へ兵を進め、四国制覇の戦いを進めていった。しかし、ついに天正十三年秀吉に敗れて降伏、
結局、土佐一国を安堵されて豊臣大名に列した。その後、元親と長男信親は豊後に出陣し、戸次川の戦いで信親は戦死、
その跡を継いだ盛親は「関ヶ原の戦」で西軍に属したため長曽我部氏は没落した。
長曽我部氏の家紋は、「七つ酢漿草」として知られる。そのいわれは、「元親太祖は秦始皇帝の末孫、本朝に来朝して朝廷に仕えければ、秦氏と称す。十五代の後裔孫川勝秦大臣広隆、其の末流秦能俊、始めて土佐国に下る。此時、綸旨を蒙り参内しけり、則尊盃を頂戴す、其の盃中に酢漿草一葉浮ぶ、是を拝して家の紋とす」と『筑紫軍記』に記されている。よくある先祖の奇瑞譚であり、そのままには信じられないが、室町時代に成った『見聞諸家紋』に長曽我部氏の家紋は
「七つ酢漿草」が描かれていることから、古くより酢漿草が長曽我部氏の家紋であったことは疑いない。
長曽我部氏はもともと普通の酢漿草紋であったが、元親が土佐七郡を平定したのちに「七つ酢漿草」を用いるようになったとする説もある。しかし、すでに『見聞諸家紋』に「七つ酢漿草」が収録されていることから後世のこじつけであることはいうまでもないだろう。長曽我部氏の旧臣福富浄安は、戦功により「親」の字と「酢漿草」紋を賜った。浄安は親政を名乗ったが、家紋は主家の七つ酢漿草から一つ減らした六つ酢漿草を用いたという。
その他、長曽我部氏の旧臣の家では、長曽我部氏の関係から酢漿草紋を用いる家が少なからずあるという。
ところで、長曽我部氏は酢漿草紋のほかに「帆懸船」紋を用いたことが知られる。
土佐藩の国学者岡宗泰純が文化八年(1811)に土佐藩家老深尾氏に随行して記した紀行文『西郊余翰』には「用明天皇二年二月、
厩戸皇子守屋大連を討時、川勝功有。任を土佐にうく、川勝二十五世秦能俊より元親に至る。家紋は酢漿草、慈姑、帆懸船也。」と
ある。とはいえ、用明天皇の時代に家紋があるはずもなく、秦川勝が土佐に任を得たということも信じられないことである。
一方で『茗山雑記』という古記録には、関が原の合戦で西軍に付いたため所領を失った長曽我部盛親は、大坂の陣が起こると豊臣氏に
見方して大坂城に入った。豊臣氏が滅亡したのち捕えられた盛親は京の六条河原で刑に処されたが、そのときのいでたちは、猩猩緋の
羽織に「帆懸船」の紋を着けたものであったという。
盛親がまとっていた陣羽織の紋をそのまま長曽我部氏の家紋であったとするのは早計かも知れないが、先の『西郊余翰』の記事と
併せみたとき長曽我部氏が「帆懸船」紋を用いていたことは信じてよさそうだ。実際、黒潮を目の当たりに見る土佐国から身を起こし
四国を席捲した長曽我部氏において、帆懸舟紋は酢漿草紋よりふさわしい紋のようにも思われる。
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● 帆懸船紋
帆懸船紋は名和氏のものが知られ、同氏の代表紋となっている。
名和長年と一族を祀る名和神社の神紋も帆懸船紋である。右の家紋は、
天草の戦国領主大矢野氏が用いた帆懸船紋。長曽我部氏はどのような意匠の帆懸船を用いたのかは
記録もなく、いまとなっては調べようもなく不明である。
● 名和神社の帆懸船紋〔
出雲お社倶楽部名和神社-大山町より〕
■長曽我部氏
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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