安芸氏
三つ割剣花菱*/橘
(蘇我赤兄の裔か)
*「見聞諸家紋」にみえる安芸氏の紋。 |
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土佐東部に君臨した安芸氏は、その出自については異説が多く、壬申の乱で土佐へ流された蘇我赤兄の後裔と伝えられる。また藤原氏や橘氏、さらに惟宗氏の後裔などの説があるが、安芸郡少領凡直伊賀麻呂の子孫であるとの説が有力視されている。
初代は安芸行兼とされ、安芸郡の豪族として、郡の西部から香美郡東部の大忍庄にいたる地域を領し、寿永四年(1185)大領広康の子実元・実俊は長門国壇ノ浦で平教経と組んで入海したと伝えられる。正応元年(1288)畑山分知が行われ、知信が安芸本家を継ぎ、康信は分家して畑山氏の祖となった。以後、安芸氏は畑山氏とともに銭貨を中心とする貨幣経済の波にのって富強を誇り、中世を通じて土佐国に重きをなした。
安芸氏の興亡
室町時代に入ってからは細川氏の麾下にあって頭角をあらわし、永亨十一年(1439)元実は摂津国で討死し、分家畑山氏より元信が入って本家家督を相続したが、応仁の乱にあたり、その子元康とともに細川方として出陣し、父子ともに戦死、元康は十八歳であったと伝えられている。そのため、再び畑山氏より元盛が入って本家を継いだ。
元盛の子の元親は、永正頃安芸郡黒鳥村に元親山浄貞寺を開いた。元親のあとを山城守元泰がつぎ、つづいて家督は国虎に譲られた。国虎は一条房基の娘をめとり、名門を誇示したが、やがて長宗我部元親と対決することとなる。といっても永禄の始めはまだ長宗我部・安芸両氏の間は小康状態にあった。
ところが、たまたま安芸氏の属領である馬ノ上の兵が、長宗我部領の夜須に侵入してきたことから両氏の衝突が起こった。こうして小競り合いがつづき、永禄三年元親が本山城攻撃のため本山城に出陣したすきをねらって、国虎は岡豊城に出撃した。元親方は本山出兵のあとで兵は少なく苦境に立っていたが、夜須城主吉田重俊父子の援兵によって、腹背に敵の攻撃をうけた国虎の軍は退却することとなった。
元親は勢いにのって国虎を攻めようとし、国虎も態勢をたてなおして決戦をいどもうとした。しかし、一条兼定が両者の和睦を斡旋、両者ともその勧告をいれて和睦した。しかしこの和睦も一時的なもので、元親は永禄十一年本山氏を打倒すると、翌十二年安芸氏攻撃の軍を起こした。
安芸勢は新荘・穴内の両城を長宗我部氏の道中の押さえとしていたが、矢流の合戦で元親は国虎の軍を破り安芸城に迫った。ところが安芸家譜代の家臣たちが長宗我部氏に内応したためついに落城。国虎は一子千寿丸を阿波へ落とし、夫人を実家の一条氏に送りかえしたのち、部下の命乞いを申しでて自殺した。こうして長らく土佐に君臨した安芸氏も滅亡した。
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・『見聞諸家紋』に見える安芸氏の家紋、剣花菱とはいうが、かなり厳つい意匠である。
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■安芸城
■参考略系図
別説とあるものは、一族の畑山氏から本家を継いだときに混同したものと想像される。いずれにしても、戦国期以前の安芸氏の系譜は不詳な部分が多い。
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