細川氏-二川分流
 日本全国を戦国時代にたたきこんだ「応仁の乱」は、幕府三管(管領)家である畠山氏、斯波氏の家督争い、それに将軍継嗣問題が絡み、ときの幕府管領細川勝元と幕府実力者の山名持豊(宗全)の対立へと発展した。応仁元年(1467)の武力衝突を引き金として、以後、十一年間にわわたって合戦が繰り返された。
 勝元の跡を継いで幕府管領となった政元は、宗全の跡を継いだ山名政豊と和睦して応仁の乱を終息させた。幕府の実力者となった政元は、明応二年(1493)クーデタを起して十代将軍義稙を追放し、専制体制を確立した。以後、幕府の政治は管領細川政元が中心となって展開された。しかし、実際は細川氏の家臣である内衆が政務をおこない、政元自身は修験道に凝って政務にあまりかかわらなかったようだ。その後、政元の後継者争いが起り、一枚岩であった細川一族に分裂が走り、政元自身はその争いのなかで暗殺されてしまった。

>高国の養子氏綱が挙兵。
元号西暦出来事
明徳二年1491 管領細川政元、関白九条政基の子を養子とする。→細川澄之
文亀三年1503 管領細川政元、阿波守護細川義春の子を養子とする。→細川澄元
●細川氏、有力被官が二派に分裂して抗争することになる。
永正三年1506 細川澄元、三好之長らを率いて上洛し、摂津守護に任じられる。
細川澄之、丹波守護に任じられる。
永正四年1507 細川政元、澄之派の香西元長兄弟のクーデターで暗殺される
澄之、政元暗殺から38日後に澄元派の細川高国・政賢らの攻撃を受けて自刃に追い込まれる。
前将軍義稙が大内義興に擁立されて上洛。
澄元、澄之討滅の功労者高国を疑い離反に追い込む。
永正五年1508 高国、義稙支持に転じ、細川家の家督を継承して管領に任じられ、大内義興らと連合政権を設立する。
澄元、近江に逃れる。
●澄元、永正六年(1509)、永正八年(1511)の二度にわたって京都に迫ったが、両度とも義稙を擁する高国・大内義興の連合軍に敗れる。以後、澄元は本拠地阿波に雌伏。
永正十七年1520 澄元、軍を率いて入京。将軍義稙の支持を得て家督に返り咲く。
六角定頼の助けを得た高国の反撃にあって三好之長を失い、再び阿波へ没落、失意のうちに死去。
高国、義稙を追放して赤松家で養育されていた義晴を将軍に迎える。
大永六年1526 高国、有力部将香西元盛を殺害。
元盛の兄弟波多野稙通・柳本賢治ら、澄元の子晴元の側へ離反。
大永七年1527 細川晴元・三好元長、堺に上陸。足利義維を擁立して堺公方府を設立。
高国と将軍義晴は近江へ逃れる。
享徳二年1529 高国、備前の浦上村宗のもとに落ち着き反撃を開始。翌年には柳本賢治を破って摂津へと進出。
享徳四年1531 高国、摂津天王寺で大敗を喫し、大物で捕えられて切腹。
天文元年1532 晴元、有力部将三好元長と対立、元長を攻めて殺す。
義維を追放し、天文三年、義晴を迎え、その二年後には管領に相当する地位につく。
天文十二年1543
天文十七年1548 晴元の有力部将三好長慶、氏綱擁立に転じたため晴元政権は危機に陥る。
長慶、晴元を破って入京。氏綱は幕府管領に任命される。
天文十八年1549晴元、将軍義晴・義輝父子を擁立して近江に逃れ、晴元政権は崩壊。
永禄四年1561晴元、長慶と和睦し、摂津普門寺に隠棲、二年後に死去。
永禄六年1563氏綱、摂津淀城において死去。
永禄七年1564三好長慶、河内飯盛城で病死。
永禄十一年1568織田信長、義昭奉戴して上洛。晴元の子昭元、信長に通じる。
天正四年1576昭元、信長の妹婿となる。本能寺の変後は秀吉に従う。

・池田氏 ・赤井氏